第三話
相合傘なんて、何年振りだろうか。
多分高校生以来。少なくとも、いい大人がすることじゃない。ましてやカップルですらない年下の女子高生となんて。
道ゆく人の視線がぐさぐさ突き刺さる。多分、気にしすぎなんだろうけど。
不幸中の幸いは、彼女の言うカフェが真実、駅の近くにあったことだ。
正直、疑っていなかったといえば嘘になる。だってそんなカフェ、全然心当たりがないし。美人局……女子高生が成人女性に?
けれどそんな私の疑惑は、案内された喫茶店の店構えを見て氷解した。
「ここだよ、お姉さん」
「……ここ、カフェだったんだ」
「わかんないよね。わかる」
そのカフェは、あまりに地味だった。
いや、うーん。地味というか、わかりにくい。お店感がぜんぜんないのだ。一見しただけだと、ちょっと小洒落た一戸建てにしか見えない。
わかりやすい看板はなんてものは出ておらず、黒板とチョークの立て看板もなし。一応、出入り口の扉に「Open」と記された板がぶら下がってはいるけれど、それさえスモールサイズで見過ごしてしまいそう。実際、これまで見過ごしてきたわけだし。
正面に設えられた窓から、控えめな間接照明の光が漏れている。首を伸ばして覗き込むと、確かに喫茶店だった。
こういういかにも「一見さんお断り」みたいな店は、どうしても一人だと入りにくいのが人情だと思う。
だけど少女は、一切物おじせずにドアを開けた。
ちりりん、と風鈴みたいな音がする。変わった音のドアベルだなと思ったら、本当にドアの内側に風鈴がぶら下がっていた。
多分、変わってる。風流……なんだろうか。言われてみればそういう気もする。残念ながら今はもう秋の暮れだけど。
少女が気安い調子で片手を上げた。
「アキちゃん、ただいまー」
お邪魔しますでも、こんにちはでもなく、ただいま。
彼女の後に続いた私は、ぐるっと内装を見渡した。
外観どおり、こじんまりとした喫茶店だ。
テーブルカウンターに椅子が三脚。ソファ席がひとつ。二人用のテーブル席がひとつ。以上。
私たちの他に客はいない。
だけど──いい。
感じの良い店だ。なんていうか、品がある。それでいて、ツンとお高く止まっている風でもない。
明るすぎない間接照明と、品の良い調度品。天井のシーリングファン。部屋の隅に置かれた、背の高いフィカス・ウンベラータの緑。
その全てが、清潔感のある空間にぴったり調和していた。
そして──
「おかえり、いばら」
カウンターの奥には、漆黒のバリスタエプロンを纏った美女がいた。
美女だ。まごうことなき美の女である。
ひえ、と心の中で息を呑んだ。
長い緑の黒髪に、ノンフレームの眼鏡。年齢は多分私よりも少し上で、サマーニットを押し上げる膨らみはエプロン越しでもわかるほど大きい。
あの人が、言っていた従姉妹か。この子といいマスターといい、美形の遺伝子を継ぐ家系なんだろうか。
眼鏡のレンズが、きらりと光を反射した。
「そっちの人は?」
「わたしのお客さん」
「へえ」
ちらりと私を一瞥した後、美人マスターはメニューとおしぼりに加えて、ハンドタオルを差し出してくれた。
「ご注文は、こちらからどうぞ。あと、ハンドタオルはサービス」
「あ、ありがとうございます」
ありがたく受け取って、髪や上着の水分を拭う。サービスもいい。あと気になるのはメニューだけど……。
受け取ったメニューは縦長で、二つ折りできるタイプのものだ。意外にも可愛らしい丸文字のフォントを使っていて、なんだか可愛い。写真はなし。なるほど、そういうタイプか。
さっとラインナップに目を通すと、(こう言ってはなんだけど)チェーンでもない喫茶店とは思えないくらいに充実していた。
特にデカフェやカフェインレスのメニューが豊富で、ハーブティーも沢山種類ある。これはありがたい。
スイーツもある。季節のパフェ、美味しそうだな。いやいや、この時間この状況でそれはさすがに甘味はちょっと……。
視線を彷徨わせる私に、くすっと笑っていばらが言った。
「お姉さん、好きなの頼んでいいよ。わたしの奢りだから」
「え? いやいや、何言ってるの。子供にお金なんて出してもらえないよ」
「子供じゃないよ。わたし、もう十七歳だから。JK2」
「未成年じゃない」
「むぅ」
「いばら」と呼ばれた少女は、どこか不満げな顔のまま片手を挙げた。
「お金は気にしなくていいのに。まあいいや。アキちゃーん、わたしハーブティー。あとパフェも」
「えっ」
「なに?」
「な、なんでもない」
まじか。この時間にパフェいくんだ。いけちゃうんだ。若さってすごいな。
私が二十四歳で、この子は十七歳。つまり七歳差だ。
私が二十歳になったとき、この子はランドセルを脱いだばかりだったということになる。わっか。ちょっと泣きそう。
「はい、ハーブティーとパフェ一丁。そちらのお姉さんは?」
「あ。えっ、と。ホットコーヒー……カフェインレスので」
本当は、知らないカフェで頼む定番はカフェ・オレだ。
未成年の少女を前に、少し子供っぽいかなと見栄を張った。
「何か軽く食べる? お腹空いてるでしょ」
言われて気づいた。お昼から、何も食べてない。元々少食なほうだけど、さすがに何か胃に入れたほうがいい気がする。流れ的に少し癪だけど。
「今出せるのは、日替わりパスタかホットサンド。ホットサンドならすぐ出るよ」
「あ、はい。じゃあ、それで」
ホットサンド!
きゅる、と胃袋の辺りが小さく鳴いた。
少女と目が合う。大きな目が笑っているように見えて、私は咳払いした。
こほん。
「あの、君は……ええと」
「いばら」
と、彼女は名乗った。不思議な名前だ。
「篠森いばら。名前はひらがなね」
「……篠森さん」
「名前が気に入ってるから、名前で呼んで」
「いばらさん」
「固っ。そっちが年上なんだから、さん付けなんてしなくていいよ」
注文多いなこの子。
「……じゃあ、いばら」
「はーい、いばらでーす。お姉さんは?」
「あ、雨海。雨海、時雨」
「アマガイってどう書くの?」
「雨に海で、雨海」
「うわめっちゃ雨女っぽい」
ぐさっと言葉のナイフが突き刺さる。
この高校生、人が気にしてることを……。
「それで、いばら。さっきのは、どういう意味なの?」
「さっきのって?」
「だから……ええと。一緒に寝てほしいとか、ホテルに行ってほしいとか……」
ひそひそと声を潜める。
「もしかして、いつもこういうことしてるの? もしかして、家に寝る場所がないとか」
「こういうことって?」
しれっとした顔が白々しい。
つい、恨めしげな目で見つめてしまう。
「ちゃんと質問に答えて。きみ、分かってて言ってるよね」
「してないよ。あんな風に声掛けたのは、お姉さんが初めて」
そうなんだ。でも、それなら尚更わからない。
「どうして私なの?」
「お姉さんが運命の人だから」
「さっきも言ってたけど、なんなのそれ」
いばらが、自身の右目を指さした。正確には、その下の隈を。
「見てこれ。目の隈、すごいでしょ。メイクでも隠しきれないの。これ以上やったら、かえって不自然になっちゃうし」
「ただの寝不足でしょ。私もだよ」
「そう、寝不足。もうずっと、まともに寝られてないんだ」
「ずっとって、三日くらい?」
「大体、半年」
「はっ」
半年?
「それって……大丈夫なの?」
口に出してから、ひどく間抜けな質問だと気がついた。
大丈夫なわけがない。
人間が健康的で文化的な生活を送るために、睡眠は必須だ。
「もちろん。病気だよ。不眠症ってやつ」
「病院は?」
「色々行ったよ。でも、心因性だろうって。つまり、原因不明ってことだよね」
「そっか……」
睡眠障害は特に珍しい病気じゃない。
私の会社でも、治療を受けている同僚がいる。私も一時期、危ういところまで踏み込み掛けたことがある。
眠くならないわけじゃない。眠いのに、寝られないのだ。あれは辛い。
あれ? でも。
「でもきみ、電車で普通に寝てなかったっけ。私の肩で」
「そう!」
我が意を得たりとばかりに、いばらが身を乗り出した。半分だけ開いた目がきらりと瞬く。ていうか目、おっきいな。
「そうなんだよ! あれは久しぶりの爆睡だった。何週間ぶりかなぁ。頭の中のもやもやがすっきりして、すんごく気持ちよかった」
「はあ」
「わたしね、毎日あの電車に乗ってるんだ。うつらうつらして、人に寄りかかっちゃったこともある。でも、あんなに深く眠っちゃったのは今日が初めてだよ」
「疲れてただけじゃないの」
「違うよ。もっと疲れてた日も、眠かった日も沢山ある。でも、きちんと眠れたのは今日だけなの。どうしてかわかる?」
「わかると思う? 逆に」
「お姉さんがいたからだよ」
「はい?」
「お姉さんにくっついてたから、わたしは眠れたの。そうとしか思えない」
私がいたから眠れた?
いやいやいや。
「絶っ対、勘違いだと思う」
「そんなことないよ。だってお姉さん、いい匂いしたし。体温低めで、触ってても暑苦しくないし」
「匂いは安物の香水だし、体温は末端冷え性なだけで」
「でも」
テーブルに載せたままだった手が、柔い指先にぎゅっと握られた。
小さな手なのに、見た目よりずっと力強くて振り解けない。
「本に書いてあったやり方も、出してもらったお薬も、友達の添い寝もハーブティーもラベンダーの香りもモーツァルトのピアノも環境音も駄目だったんだ。お姉さんだけだよ。わたしのこと、寝かしつけてくれたの」
こほん、と咳払いの音がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます