第二話

 通り雨の多い人生だった。

 物心つく前からの雨女体質で、特によくないことが起きた日は大抵、空が泣いていた。

 初めての告白に失敗した日とか、仕事で信じがたいミスをした日とか、親友とのルームシェアが御破算になった日とか。

 そういうときは大概、通り雨が降っていた。

 何しろ名前が「雨海時雨」だ。名前に雨が二つも入ってる。そりゃあ雨女にもなるだろう。

 降られ続けた人生で、ひとつだけ学んだことがある。

 天気の前に、人は無力だ。耐える他に道はない。

 止まない雨はない。耐えていれば、いつか雨は止む。


 その日は珍しく、定時手前にひととおりのタスクが仕上がった。失敗だったのは、それを上司に気づかれてしまったことだ。

 デザイン部門のボス、新堂マネージャーは、部下に仕事を振るチャンスを逃さない。鷹のように鋭い目を持つお方である。


「ごめーん、雨海さん。悪いんだけど今、手空いてる?」


「……あ、はい。大丈夫でーす……」


 鋭い。鋭過ぎる。

 というかこのタイミング。このトーン。さては。


「申し訳ないんだけど、急ぎの案件、いっこお願いできるかな。明日の朝にはチェックに回してほしいんだけど」


 やっぱり、そういうやつか。

 ここから始めたら残業確定だ。多分、二十時……で、終わるかどうか。

 とはいえ断れない。社会人三年目の私に、そんな権利がないことくらい分かってる。それに実際、なにか予定があるかと言われたら特にないのだ。誰かがやらなくちゃいけない仕事なら、私がやったっていいだろう。


「わかりました」


 頷くと、新堂さんは露骨にほっとした顔をした。その表情がまたどうにも憎めない。ある種の才能だと思う。


「助かるよ。今メールするから」


 私は飛んできた社内メールをチェックして、編集用ツールを起動した。

 修正指示の内容にざっと目を通す。うーん……これ、さては地味に面倒なやつでは。


 † 


 案の定でした。

 次々人が消えていく社内で一人ちまちま作業して、ようやくチェックに回せる段階に落ち着いたのが二十一時過ぎ。

 無人のオフィスで首を回すと、バキバキと不穏な音がした。


「つっかれたぁああ……」


 最近、ずっとこうだ。

 それなりに夢と希望を抱いて、弊社に入社してから三年。

 ようやく仕事の要領らしきものが掴めてきて、任される案件が増えた反面、目に見えて残業も増えてきた。

 特にここ最近は、諸先輩のご活躍もあって忙しい。朝から晩まで缶コーヒーが手放せず、すっかりカフェイン中毒だ。身体に良くないとわかっていても止められない。

 よくないなぁ、と思う。

 目の荒いヤスリで、身体のどこかにある大切なものを削られているような気がする。

 削られて、すり減って、気付かないうちに何かを喪ってしまうような、そういう予感がある。

 でも、それだって通り雨だ。

 耐えていれば、きっといつか止む。

 だから家に帰って早く寝よう。どうせ上手く眠れないけど。

 そういえば、最後に熟睡できたのはいつだっけ。

 改札を抜けて、地上を走る電車に揺られること四十分。

 眠れない夜と忙しない昼を繰り返しながら、家と会社を往復するだけの毎日が、これからも続いていくんだろう。

 そう思っていた。

 この日、この夜──この瞬間までは。


 改札口の先。

 地域の夏祭りのポスターが貼られた掲示板の前に、長袖のニットを着た少女がいた。

 四方に跳ねたふわふわのくせっ毛と、目の下の隈。眠たげに、とろんと半分だけ開いた瞳。萌え袖。赤系統のチェックスカートに、藍色のスクールバッグと若草色の傘。

 間違いない。朝に出会った美少女だ。

 いやほんとにかわいいな、と思ってちらちら見ていると、不意にぱちりと目が合った。

 瞬間、半分閉じた目がカッと見開く。目力つよっ。

 でもそれは一瞬で、すぐに元の眠たい半目に戻ってしまう。

 そして彼女は、何を思ったか私に近づいてきた。


「お姉さん、遅い」


「え?」


 突然話しかけられて、間抜けな反応をしてしまう。

 お、遅い? 遅いって、なにが?

 混乱している私を他所に、少女は一方的に話を続ける。


「遅すぎるよ。もう九時過ぎじゃん。ちょっと働き過ぎじゃない?」


「き、きみには関係ないでしょ。ていうか、ここで何してるの? 高校生は家に帰る時間だよ」


「子供扱いしないで」


 少女は亜麻色の髪に指を絡めて、半分だけ開いた目で私を見た。

 熱っぽく潤んだ瞳に、白色灯の光がちかちか反射している。

 

「お姉さんを待ってたんだよ。どうしても、お願いしたいことがあったから」


「お願い? なんだか知らないけど、それ、私じゃないと駄目なの?」


「うん。お姉さんじゃなきゃ、駄目。お姉さんは、わたしの運命の人だから」


「う、うんめい?」


 運命。今この子、運命って言った?

 大げさすぎる。今日日、漫画でも見ない単語だ。

 なのに、欠片ほどの衒いもなく少女は私を見つめていた。


「そう。だから」


 ゆっくりと、少女が私に右手を差し出した。

 服に半分隠れた、萌え袖の指先を。


「お姉さん。わたしと、ホテル行こ」


「…………はい?」


 時間が止まった。

 聞き間違えだよね? という気持ちを込めて少女の顔色を伺う。


「わたし、お姉さんとホテルに行きたいの」


 聞き間違えじゃなかった。


「お願い。行こ。今日行こ。今から行こ」


「えっと……ええっと。ごめんちょっと待って」


 どうしよう。全然理解が追いつかない。

 せめて私かこの子のどちらかが男なら、まだ話は分かる。つまりそういうアレだ。活動的なやつ。

 でも、私は女で。この子は女子高生で。成立するのか? いや、しないことは無いだろうけど。

 というか活動的なやつって、アプリとかSNSとかを介して行うんじゃないの。こんな辻斬りみたいなやり口、アリなの?

 混乱している私に向けて、あっけらかんと少女が言う。


「もちろん、お礼はするよ。ホテル代別で三万円でいい? もっと欲しい?」


「あ、きみが払うんだ⁉︎」


「そりゃそうでしょ。だって、お願いしてるのわたしだもん」


 まあ、それは確かに。

 じゃなくて。


「お、お金なんて貰えないよ。そんな、年下の女の子に」


「え」


 少女がまじまじとわたしの顔を見つめた。


「タダで一緒に寝てくれるってこと? お姉さん、本気?」


「そういうことじゃなくてね」


「あ、でもホテル代はわたしが出すね」


「待って待って待って」


 頼むから待ってほしい。


「行かないから。行くわけがないから」


「え……」


 私がそう言った途端、少女は捨て猫みたいな顔をした。

 しゅん、と細い肩が落ちる。


「……もしかして、お金、足りない? ならそこのATMで」


「そうじゃなくて!」


 もう全然そういう話じゃなくて。

 どうしよう、なんか頭痛くなってきた。


「君、高校生だよね。いい? そういうのは安易に考えたら駄目だよ。何があったのか知らないけど、もっとよく考えて。ちゃんと自分を大事にして。ね?」


「大事にしてるよ。だから、お姉さんにお願いしてる」


「ええええ」


 何が、何で、どうなったらそうなるんだ。


「……どうして、私なの。偶然、電車で隣に座っただけだよね」


「だからだけど」


「え」


 本当にそれだけ? それだけでホテル誘っちゃうんだ。

 怖。令和の女子高生、怖っ。

 それともまさかこれが、世にいう一目惚れというやつなのか。

 私が、こんな可愛い女子高生に?

 いやいやいや、そんな馬鹿な。ありえない。それはない。

 なのに少女は一歩前に出て、切ない上目遣いで私を見上げてくる。


「お姉さんは、何もしなくていいよ。ただ、寝ていてくれたらそれで。後は全部、わたしがやるから」


「む、無理だってば」


「……どうしても、駄目?」


 更に一歩、少女が近づいてきた。もうほとんど距離がない。朝にも嗅いだ清潔なシトラスレモンの香りが、ふわっと鼻先を掠める。

 否応なく視界が少女で埋まってしまう。半袖から伸びた二の腕。襟元から覗く真白い首筋。緩く波打つ色の薄い髪。

 まだ半分は子供のくせに、ふんわりとニットを盛り上げる胸。スカートから覗く、健康的な太腿。

 全身の印象はむしろ華奢なのに、どこもかしこもふわふわと柔らかそうな女の子だった。

 女同士の、そういう行為を想像するのは難しい。

 ただ、こんな女の子をぎゅっと抱きしめて眠ったら、さぞかし気持ちがいいだろうな、と思った。ほんの一瞬、思ってしまった。

 私のばか。


「む、無理だよ。いくらお金を貰っても、絶対だめ。そんな、高校生の女の子と……その、えっちなことなんて」


「え?」


「……え?」


「あ、ごめん。寝るって、そういう意味じゃなくて」


 寝るってそういう意味じゃなくて???

 一層混乱する私を無視して、少女が続ける。


「つまり、セックスって意味じゃなくて。本当に、ただ一緒に寝てほしいだけだったんだけど。添い寝、みたいな」


「…………添い寝?」


「うん」


 え、え、え。

 勘違いに、かあっと頬が焼けていく。

 ああああああ。ばか、私のばか。

 当たり前じゃないか。もし仮に、この子が『そう』だったとして、どうしてこんな、草臥れた社畜女に声を掛けたりするんだ。

 私の馬鹿。死ね。死んでしまえ。


「ごめん、お姉さん。わたしの言い方が紛らわしかったね。ちょっと最近、頭がぼーっとしてて」


 言い方に問題があったのは、そのとおりだけど。

 でも、いくらか冷静になって考えてみてもやっぱりおかしい。

 セッ……アレを伴わないとしても、たとえ同性だとしても、見ず知らずの大人に添い寝を頼むなんて。

 まともな高校生がすることじゃない。


「いきなりホテルとか言われても、そりゃびびるよね。お姉さん、よかったら場所変えない?」


 隈の浮いた眠たげな目で、少女が駅の入り口を見た。


「すぐ近くに、従姉妹がやってるカフェがあるんだ。ちょっとだけ、そこでお話させてほしい。その……お願い、します」


 ぺこり、と少女が頭を下げた。波打つ髪が、地面に向かって垂れ下がる。

 この子のことは、なにひとつわからない。謎の塊みたいな女の子だ。

 でも、ひとつだけ分かっていることがある。

 多分、関わったらロクなことにならない。

 

「──ごめんね。悪いけど、仕事で疲れてるの」


 少女の手を振り切って、私は逃げ出した。


「だから、さよならっ」


「え、ちょ、ま、待ってよお姉さんっ」


 ハンドバックを抱えて、走る。

 私はけして足が早くない。しかも走りにくい靴を履いている。

 けれど、少女は輪をかけてトロかった。

 なんていうか、フラフラしていた。

 思わず「大丈夫?」って声を掛けようか迷ってしまうくらいに。

 馬鹿か私は。関わるな。あの子は絶対、変な子だ。

 駅前に出て、ロータリーを抜ける。

 運動不足のせいで、すぐに息が切れてしまう。

 そのときだった。

 鼻先に、ぽたんと冷たいものが落ちてきたのは。


「うそっ」


 ぽつんぽつんと、水滴がアスファルトを染めていく。

 ──通り雨。

 ああもう、最悪だ。傘は会社に置いてきた。

 働き詰めでまともに寝られなくて、なのに変な女の子に付き纏われて、挙句の果てに雨に打たれて。

 こんなときに限って、ベージュのフレアスカートは買ったばかり秋物で。

 通り雨には慣れている。耐えていれば、いつか止むことも知っている。

 でも。


 ──いつかって、いつ?


「お姉さん」


 雨が途切れた。

 追いついてきた少女が、私に傘を差し掛けていた。

 自分の髪が濡れることも厭わずに、私だけを見ていた。

 

「わたしと一緒に、雨宿りしようよ」

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