いばら姫とおやすみ。
深水紅茶(リプトン)
いばら姫は眠れない。
第一話
肩に掛かる重さと、シトラスレモンの匂いで目が覚めた。
始発駅で乗車して、会社の最寄りまで約三十分。ほんの僅かな隙間時間に、すこんと意識が飛んでいた。
多分、寝不足なんだろう。
原因はわかってる。仕事のストレス。カフェインの摂りすぎ。あと残業。そして残業。
美大を卒業して、中規模のデザイン会社に拾われて早三年。
ブラック……ではないと思うけど、時間に追われる日々が続いている。
あまりに寝付きが悪くて、実家に置いてきた馬鹿でかい羊のメリーさん(ぬいぐるみ)が恋しいくらいだ。
二十四歳にもなって抱き枕がないと眠れない、なんて誰にも言えないけれど。
乗降口の液晶パネルを確かめて、乗り過ごしていないことにほっとする。
その辺りで、ようやく気がついた。
肩に、他人の頭が載っている。
居眠りして、勝手に寄りかかってくる迷惑客。通勤電車のあるあるだ。
普段なら、起きてくださいと声を掛ける。それで駄目なら、えいやっと立ち上がる。
だけど今日は、その両方を躊躇った。
相手が、年下の女の子だったから。
ふわふわ波打つ亜麻色の髪に、緩く結ばれた臙脂のリボンタイ。クリーム色の長袖ニットカーディガンに隠れた小さな手。短めの赤いプリーツスカート。
なんというか、全体的にゆるくてふわふわな感じ。
そんなゆるふわ系女子高生が、私の肩ですやすやと船を漕いでいた。
そういえば、こんな子が乗車駅のホームで隣に立っていたような。
……ええと、どうしよう。
無理矢やり起こすか、それともこのまま放っておくか。
彼女のことは何も知らない。ただ、降りる駅だけは知っていた。私と同じ駅だから。
何度か、同じスカートを履いた女の子がホームに降り立つ姿を見たことがある。
到着まで、残りあと二十五分。
彼女の目の下に浮かぶ隈を見て、私は肩を貸すことに決めた。
恋人との通話、試験勉強、単なる夜更かし。
理由は知らない。でも、誰にだって長い夜はある。あくる日の眠たい朝も。
「……ふぁ、あ」
触れている部分から温い体温が伝わってきて、なんだかまた眠くなってきた。
おかしいな。今、うたた寝から覚めたばかりなのに。
うっかり眠ってしまわないよう、スマホでタイムラインをチェックする。
相互フォロワーの一人が、推しアイドルの電撃卒業を嘆いていた。かわいそうに。
降車駅が近づいてくる。
私は少女の耳元で囁いた。
「ついたよ」
「んぁ」
びくん、と少女が反応した。
とろんと垂れた目元が、いかにも眠たそうに半分だけ開く。
おお、と思った。長い睫毛に主張しない鼻。しゅっとした輪郭。大きな目。
もしかしたらと思っていたけど、やっぱりそうだ。間違いない。
この子、可愛い。
目の下の隈と、半分しか開いてない目を差し引いても、ちょっとそこらで見かけないレベルで可愛い。
あまりに可愛いものだから、その顔で居眠りとか危ないよ、と余計なお世話を口にしてしまいそうになる。
ぐっと堪えて、私は続けた。
「君、ここの駅だよね。ほら、起きて」
「……ん……」
桜色の唇が、むずがるように蠢く。
お姫様はおねむみたいだ。
だけど電車は少しずつ減速して、ついに停止してしまう。
ぷしゃー、と乗降口が開いて、無数の乗客が降りていく。
少女はぴくりとも動かない。座ったまま、半分だけ開いた目でぼけーっと私の顔を見ている。
困った。このままだと遅刻してしまう。私ではなく、この子が。
乗客が乗り込んでくる。もう時間がない。
ええい、と私は彼女の手を掴んだ。
「降りよう、ほら!」
「え」
そのまま、強引にホームへ引っ張っていく。
車両を降りた直後、背後で乗降口が閉じた。ホームドアが閉じて、電車が次の駅へ走りだしていく。
そこでようやく、私は自分がやらかしたことに気がついた。
やばい。女子高生の手、握っちゃった。無断で。
これ大丈夫かな。私が男だったら多分アウト。でも、同性だからセーフ?
「あの」
と、少女が私の顔を見上げた。
まだ寝ぼけているのか、目は半分閉じたままだ。
「どこのどなたか存じませんが、ご親切にどーも」
好意的な言葉に、密かに胸を撫で下ろす。よかった。駅員さんを呼ばれることはなさそうだ。
「ううん、こっちこそごめんね。急に引っ張っちゃって」
「や、そっちじゃなくて。あ、そっちもだけど」
少女が自分の肩を示す。
「肩。貸してくれたんで」
ふにゃりと笑う。笑うと一層かわいい。
というか、お礼を言うの、そっちなんだ。
「おかげさまで、久しぶりに熟睡しちゃった」
「久しぶり?」
「はい」
にこにこと頷く。そんなに普段眠れていないのだろうか。
確かに、目の下のクマはすごいけど。
「あんまり夜更かししたら駄目だよ」
「あはは、ですよねー」
誤魔化すように笑ってから、くぁ、と少女が可愛らしくあくびした。やっぱり寝不足なんだろう。
それにしても、最近の子って皆こんな感じなのかな。堂々としてるというか大人に慣れているというか。
いや私だって、まだ二十四歳ですけどね。まだ。
「居眠り、気をつけてね。電車も色々物騒だから。盗撮とか」
「はぁい」
「じゃあ、私はもう行くね」
「あ、待ってお姉さん」
パッと、少女が私の服の裾を掴んだ。
なんだどうした。やっぱり通報されるのか、私。
「わたし、どのくらい寝てた?」
なにそれ。
ええと、私が目を覚ました駅があそこで、ここまで二十五分。でもあの感じだと、もう少し前から寝ていただろうから。
「……多分、三十分くらいかな」
「三十分? そんなに?」
驚いたように言う。
一般的に、三十分は「そんなに」だろうか。個人の感覚かもしれないけど。まあ車内の居眠りにしては長いか。
「思いっきり熟睡してたよ。ほんと、危ないからね。夜はちゃんと寝ないと」
もっともらしいことを言いながら、心のうちで自嘲する。
何を偉そうに。自分だって、隣で居眠りしていたくせに。
それでも年長者の義務として、せめて真剣に聞こえるよう忠告したつもりだったけど、少女は心ここに在らずという感じで、何事かぶつぶつと呟いていた。
「……揺れ? 時間? ううん、全部いつもと同じだから……」
なんだろう。なにか気になることでもあったのかな。
って、気にしてる場合じゃない。始業時刻に遅れてしまう。
私は彼女に半ば背を向けて、軽く片手を上げた。
「じゃあ、気をつけてね。いってらっしゃい」
さようならは大袈裟で、またね、は多分間違っている。
だからそんな挨拶をして、私は足早に階段へ向かった。
背中にずっと視線を感じてはいたけど、振り返りはしなかった。
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