第2話 天国でも地獄でも地上でもなく

「なんで誰も帰ってこねえんだろうな」

「そんなの決まっているじゃない」

「この地上にあるどんなものより、どんな場所より素晴らしいから、か」

「ん」

 正解のご褒美というわけでもなくシャディムから受けた口づけだけでは、俺の迷いを振り払うには足りなかった。

「家族より、恋人より価値があるものがそこにあるってことだろ。俺にはシャディムを失ってでも留まりたくなるものって想像できねえよ」

 別に彼女を喜ばすために言った方便ではない。本当に想像できないのだ。

 今の暮らしが最高に幸せだとは思えない。稼ぐのに苦労もするし、客だからとわがまま言い放題なババアにも辟易としている。

 それでも。

「クジラの国に来れば、嫌なことも辛いことも全部忘れて穏やかに暮らせる。あのモーティがそう手紙に書いているのよ」

 シャディムはその幼馴染でこの国一番の富豪の娘から届いた「クジラの国で会いましょう」という言葉で締めくくられた手紙を手に、またその黒い瞳で俺を見つめた。その瞳に向かって、俺は勇気をもって訊いた。

「俺に会えなくなっても。二度と会えなくなっても、やっぱりクジラの国の方が」

「一緒に行けばいい」

「え」

「エッジも一緒に行こうよ。クジラの国」

 俺の質問をあらかじめ予測していたのか、シャディムは俺の両手を包み込みながら言った。

「いや、だから俺は」

「エッジがクジラの国のことを信じられないのは分かった。でも、私と初めて会った時のことは覚えているでしょう」

 俺は頷きたくなかったが頷くしかなかった。

 確かに覚えている。覚えているのだが、思い出したくはない。

 村外れの流砂に漁へ出ていた俺が初めてシャディムと会ったとき、彼女はクジラから吐き出されていた。吹きあがる光の粒と共に。

「あの子が連れて行ってくれる。間違いない」

 クジラに連れて行ってもらう。クジラの国へ。

「そんなダジャレみたいな、おとぎ話みたいなこと、やっぱり簡単には信じられないって」

 クジラの国は、クジラが住む国ではない。

 それは天国でも地獄でもない。ましてや地上でもない。

 ク・ズィラ。

 太古の言葉で苦しみのない国という意味だ。その言葉はやはり死後の世界を想像させる。だから誰も帰ってこない。帰ってこれないのだ。

 俺の揺れる瞳で口にせずとも不安を読み取ったのか、シャディムはモーティからの手紙を俺の目の前に広げた。

「すくなくともモーティは手紙が出せるの。クジラの国からは手紙が出せるのよ」

 そのモーティからの手紙というのも、シャディムの話を信じればクジラが運んできたらしい。

 俺は身体の中の空気を全部入れ替えるくらいに嘆息を繰り返した後、決心してシャディムに頷いた。

「分かった。行こう、クジラの国へ」

「やった」

 そう言って何度かその場で跳ねて、シャディムは俺に抱きついた。

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