初居好葉のきよし傷跡 Ⅰ
好葉の意識が新しい朝に至る前、心は悪夢の中にあった。
よくあることで、苦悩は復讐を遂げるまで終わらないものだと好葉は思い込んでいる。
現実の出来事、頻繁に再生される、好葉が一度きりの青春の時間を復讐に捧げることとなった事件がある。
十年前のことだ。
昨夜のように、死の危険を伴う任務に当たる以前に、好葉はそも、格闘や棍に触れる道を歩む必要などなかった。
平凡で、質素で、物語の片隅に置かれた一軒家で、両親と共に暮らしてきた。
ただ、家庭環境は健全でなく、父は好葉が小学生になって以降に情緒が狂い、元から体の弱い母は、夫が働くことも困難な状態に陥ると、より衰弱し、家より病院にいる日数の方が多くなった。
父の狂気の理由は誰にも解き明かせなかった。母の利用していた精神科に、情緒が安定した際のみ伺うことがあったが、既存の病のいずれかに連なる症状と判別されるのみで、判明には至らず、与えられた様々な薬も無意味、無駄と判断して通うのをやめた。
父は独りで唐突に叫び、乱雑に体を掻く自傷行為などに奔った。まだ七歳だった好葉からすればあまりにも怖ろしい行動で、『元凶』に上書きされるまでは父の狂暴化が最も印象に残る過去の一幕となっていた。
その反動から静けさを求め、小学校で出会い、幼くして大和撫子の片鱗を見せながらも、母親と似て放っておけない憂いを感じさせる由埜小撫に惹かれていったのだ。
父は、狂暴状態に陥る前兆を予期できたので、慌てて好葉のいない部屋に閉じこもり、発狂に備えた。
好葉は、部屋の外で脚を震わせることしかできなかった。
絶叫、肉肌が削がれる音、崩れる部屋の物。これらの騒音は今も好葉の脳に残響している。
幼い好葉は懸命に目蓋を閉じて落涙を押し止め、弱音も文句も言わずに付き合った。
治ることがないのなら、せめて一緒にいてあげようと思い、耳を塞ぐこともしなかったが、清楚な小撫への依存や危ない欲求は次第に強まっていった。温和で狂っていない母に会うため、病院へ窺うのも毎日となった。
父も、母も、好葉も、互いが互いの苦悩に対して無力で、奪われる結果となる前から、私たちは長くないと、互いが家族の未来を諦めていた。
父は好葉に虐待を行ったことは一度もない。可能な限り巻き込まないよう配慮し、家にいる時間が次第に減っていく好葉にも、その方が良いと頷いた。
初居好葉の意欲と行動力は、こうして培われたのだ。
歪んでも絆は確かで、互いを真っ当に愛していた。父も母も、これ以上娘に負担を掛けるわけにはいかず、だからこそ愛ゆえの勘当ではなく、親として素直に娘と向き合った。
しかし、好葉を心配する声が圧倒的だった。好葉が誰に対しても明るく振る舞え、交友が広いのが災いを呼んだのだ。
好葉は父と共に生きていく意思を曲げなかった。その時は母も退院の目途が立っており、ようやく家族としてやり直せると期待したため、別の暮らしを探す方が幸せだと口を挟んでくる世間に、他でもなく好葉が抵抗を覚えた。
好葉も近隣から、哀れな両親の間に生まれた哀れな娘として、頼んでもいないのに同情を誘うようなレッテルをいくつも貼られ、孤立した。
初居家を、ありふれた一家族として受容できる人間はとても少なかった。
世間の評判は正しかった。退院して帰ってきた妻に、狂暴化した夫が早速手を上げてしまったのだ。
まるでリンチに等しいほど、長い時間、一方的に。
両目がターコイズ色に光り、泣き喚きながら、抵抗しない妻に跨り、透けるように白い頬を青く、赤く塗り替えた。
謝り、拳を振るい、嘆き、壊れる父。壊れていく母。
いよいよ好葉は絶叫した。
気付いた隣が警察に通報し、父は逮捕。母は救急車に乗せられて再入院。好葉は独りになった。
家には一通りの物が揃っているうえ、並みの子供より世の中を知っている好葉は、そのまま一人で暮らすつもりだった。
しかし、世間が好葉を一人にさせてくれず、自分たちを蔑んでいた近隣や、孤立した児童を歓迎するいくつかの団体が手を差し伸べてきた。
好葉はその全てを振り払ったが、両親も誰もいない家に小学生の少女が一人で暮らしている実態をこの街は容認してくれず、好葉は逃げ出し、無二の光として輝きを増し続ける小撫の家の門を潜った。
小撫の家は歴史ある格闘道場で、由埜道場専用の胴着姿で街を行く道場生もよく見る。格闘には関心がなかったが、由埜家以外の何にも光を感じられないほどまで好葉は追い詰められていたため、鍛錬を強制されるようなことになっても構わない決意でいた。
もっとも、強制も誤解で、仮に小撫と友人でなくとも、小撫の両親は快く迎え入れるような人柄だった。
ここには好葉の他にも、家族のいない者や、格闘家として最大限の進化を目指す者などが通うか住み込んでいるため、小撫の両親からすれば身寄りのない少女一人を迎え入れるのに抵抗もなかった。
強制など何もなかった。今まで通り学校に通うこと、両親の味方でい続けることさえ怠らなければ良いと、小撫の父とは思えないほど朗らかな由埜道場師範・由埜
初日の夜は、疲れと、慣れなくとも心地良く思える座敷の香りにより、すぐ眠りに就くことができた。
それでも夜中には目が覚めてしまった。
やっと、と思っていた両親との関係が断たれ、家族の終焉が悲観して考えた以上の速さで現実になったことが幼い心臓を冷たくすると、それこそ本当は優しい父を真似るように、唐突に嗚咽し、猛烈な寒気に小さな体を丸めた。
好葉よりは充実しているが、小撫にも理解者のいない孤独があり、それを抱えてこれからも生きていく。報われない思いも相まって、泣き崩れる好葉を優しく抱き留めているうちに自らの頬にも涙が伝った。
互いの心傷については確かめ合われていないが、その孤独に寄り添いたい、という実直な想いだけは既に形成されていた。
二週間も経ってようやく父と母の双方と再会することが叶った。好葉はまず、母に会うために病院を訪れた。
病弱で、目を離すとすぐ衰弱するような母だが、被害者としての影を窺わせないほど、リクライニングを少し起こしたベッドから微笑みを向けた。
小撫の家で世話になっていること、新しい家での新鮮な体験などを興奮気味に語る好葉を一切止めず、黒縁眼鏡越しの愛おしむ眼差しで聞いていた。
母の体調や父について触れると、もう戻れなくなってしまいそうで、恐怖から逃れるために好葉は違う話題ばかりを選んだ。必死な分、面会時間はあっという間だった。
病室を去る際に母から受けた「好葉、誰かを憎んでも、自分が不幸になるだけなのよ」という言葉の意味を、好葉は十年後もまだ理解していない。
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