この世界で/仁能姿

 仁能姿は、真下にある水流と大理石のアートが特徴の広場を始め、この街の、背の高い施設全てを一望可能な電波塔の頂点、その足場で風を浴びていた。

「――では、明日の夜に」

 通話を切り、似合っていない黒縁眼鏡を人差し指で正すと、何となく夜の街と人々の歩みを眺めた。

 他に誰も存在しないこの場所を気に入っていた。物思いに耽るか、好葉に秘密の連絡を取る際もわざわざここを選ぶほどだった。

 距離感が掴めない遠い地上に加え、突如の強風がある。ここを一服の場所に選ぶなど常人ではあり得ない。この街の老若男女、常人狂人、ゴーレスとそれを狩る者たち、全てに共通する常識であり、発想の埒外に他ならない。

 だからこそ、姿はここが良かった。

(あれから十年か)

 ある者の願いを引き受けたあの日から、それだけの時が過ぎた。

 願いの成就ではなく、自分がこの街にいる必要がなくなる刻限自体を察知しているため、近々去るこの街の景色がより遠くに思え、今の心境からしても沁みるような心地に浸れた。

 十年間、ここに誰かが来ることなどなかった。

 たまに空の機が近くを飛ぶことがあっても、身を隠す鉄柱や屋内へ移る扉もある。この場において姿は徹底して孤独であり、実在していないに等しい。


 コッ、コッ、コッ、コッ……。


 その異例が今夜だった。

 背後から革靴を鳴らす音がする。誰もいない場所で、誰とも対面するはずのない姿に接触する者がいる。

 好葉が姿なら仰天して落下、そこから棍を上手く使って命拾いするところだろう。他でもなく姿がその様を想像した。

 驚く理由としては足りない。この街を密かに蝕む『大いなる存在』の気配が最近はより濃く感じることから、この街で唯一それを感じ取れる仁能姿の存在もまた、向こうは特定済みであり、その一端がやってきたところで想定外のはずもない。

 足音が止み、未知の気配を近くに感じてもなお振り返らなかった。『本命』でない以上、用もないからなのだが……。


「立派に育ちましたな、スガタさん、貴方の娘さんは」


 ……などと口火を切られては仕方ない。

 振り返ると、自分と同様、突風が死を運ぶ高みにいてもなお、平静で、眉間の皺が彫られたように深く、物腰柔らかい、四十代と思われる金髪オールバックの男が微笑していた。

 男はスタンダードな黒スーツにハイネックの白いインナーシャツを合わせた格好で、姿と視線を交わすと、頬の皺を歪めて笑い、十字架のネックレスを握りながら頭を下げた。

 姿は関心を持たず、夜の街に目線を戻した。

 初居好葉が姿の娘であるのなら、苗字以前にあらゆる特徴が異なっている。

 好葉は黒髪で毛先に癖があるうえ、溌剌な印象の円らな瞳だ。

 比べて姿の髪は雪の白さで、背中までの一本結び。信徒か聖職者と思われる男を窺う際も、街を見下ろす今も眼差しは冷たく、何より瞳が緑色。

 親子であれば欠片も遺伝がない。そも、姿の顔付きは他人から見て二十台後半の印象なのだから。

 自分と好葉の関係を知った上で挑発しているのだと理解し、飽きた結果なのだ。

 対して、お前は何者だ、と問うてこない姿に、男は「いやはや」とお手上げのポーズを取り、退散される前に要件を投じざるを得なくなった。

「貴方が我が主を討つためこの街に留まっていることは知っています。貴方が何者かも、我が主を感じる力があることも全て知っています」

 姿の追う存在とは、この男の言う『主』に他ならず、それが顕現する瞬間が近付いていることも分かっている。故に一本結びがなびくのみで全く動じなかった。

 むしろ動揺すべきは男の方だ。『仁能姿』などと騙る最大の敵がこの街にいる時点で未来など無いも同然だが、それでも愉快な口を結ぶことをしない。

「そう、何せ貴方は我が主の顕現を阻止するために遥々この世界にやってきた、超越者を殺す超越者。初居好葉さんの面倒を見ているのは、そのついでに他ならないのですからね」

 機関みたく、可能であれば人知れず解決したいが、絶対でもないため、姿は鼻を鳴らし、御託を並べる男に言葉を返した。

「それをわざわざ言いにきたお前は宣教師のつもりか?」

 聖職者まがいは苦笑した。

「たとえ貴方がその筋の専門家だとしても、顕現が果たされれば全てが無駄となります。貴方は無事でも、この街の人間は全て死に、終局的にはこの世界が丸ごと我が主の手中に収まることでしょう。皆さんにゴーレスと呼ばれている下僕共など、所詮は来たる成就の日までの繋ぎでしかありません。やがて、ゴーレスとの水面下すら平和な時代だったと思えるほど、手遅れの世界に生まれ変わる。

 未然に察知しているのは貴方だけです。この世界には『敵に塩を送る』という言葉があるのです。私なりに心配しているのですよ。こんなところで呑気に街を眺めている場合ですか?」

 素性は不明。追っている存在に連なる者のようで、敵に心情を問うようでは異端も同然なのだが、その乖離性こそが混乱させるための罠であるのなら効果も見込める。

 しかし、男は姿が『スガタ』であるのを知っているだけで、その在り方までは知らない。

 何を言われたところで姿は揺るがない。あまりに不退転な姿の背に、男は慢心や呑気より、鋼の精神を感じずにいられなかった。

「それがどうしたというのだ」

「何ですって?」

「これは好葉の戦いだ。例えばお前が好葉の狙っているゴーレムか、または俺が狙っている元凶だとしても、今ここで手を下すことはしない」

「まるで、できるような言い方だ」

「煽るのは構わんが戦わないぞ。今回、俺が前に出るのは一度切りと決めている。この街には率先して闇の脅威に立ち向かえる者が大勢いるからな。楽をさせてもらっている」

「怠慢ですね。あるいは臆しているのですか? ゴーレス共はともかく、間もなく起こる大爆発を前に、もう遅いと」

「この街がお前の崇拝する存在に陥落させられることはない。決してな」

 何を根拠に、と言いかけたが、精悍な相貌を前に後ずさっている自分に気付くと、男は平静を装って「なるほど、どうなるか楽しみだ」と笑い、誤魔化した。

 姿は立ち去るつもりの男を窺った。電波塔の頂点からどのように退散するのかは流石に気になった。

「私はやなぎすいと言います。宣教師とは、全くごもっとも。『啓示』を受けた悪性の狂人たちに身の振り方を教える立場からしてもね。

 また会いましょう、天界使・スガタ殿」

 有名になり過ぎたなと、姿は遠い目になる。

 足場の無い地に足を伸ばし、柳戸は真下へ落ちていった。どれだけ時間が経っても、彼が潰れる音は聞こえてこなかった。


 宣教師のあらゆる言動に何の情動も起き得なかった。

 世界の存亡を占う瀬戸際であり、それを阻止するための自分とはいえ、あくまで好葉の戦いに他ならず、自分が感情的になるなど無意味と捉えていた。

 好葉の父親とは無縁だが、母親の方とは縁があった。しかして、その程度で感情が沸き立つほど姿は若くない。

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