第22話 青春の匂い
明日行う準備を一通り終わらせた頃、夕陽が教室で一人だった英明を照らす。事前準備のために書き込んだノートを閉じ、ペンを置く。窓の外では、サッカー部や陸上部がいつも通り練習に励んでいる。
英明にとって、一番青春の匂いがするのは、部活動な気がした。
それも個人競技と団体競技の如何に関わらず、仲間達と一緒に汗と笑顔で夕焼けに包まれるその光景がなによりも素敵だなと思う。勿論、それ以外にも青春を感じる手段はある。生徒会だってそうだ。
__だから、何を言いたいかって言うと……。
「汗と笑顔、それが青春の匂いだ」
汗だけではダメだし、笑顔だけでもダメだろう。
それを一番実感できるのが部活動。視覚的に分かるから。
机に出していた物一式を鞄へ仕舞う。
彼らとは違い、一人で黙々と汗をかいているであろう彼女の元へ向かうことにした。
校内にある図書室の扉を開くと、清涼感のある風がこちらへ舞い込んでくる。受付には可愛らしい一年生の女子学生がいたので、軽く頭を下げて進む。風を連れてきた窓へ誘われるように辿ると、目的の少女がノートにペンを走らせている。ショートカットの綺麗な髪がそよそよと靡く。オレンジ色の陽と左耳へ髪をかける仕草が芸術的な美しさを纏わせていた。
足を止め、その光景をぼんやり眺めていると、彼女は英明に気づく。
目を細めた彼女は、一瞬嫌そうな顔をした気もしたが、すぐに目線を落とした。
__あまり、ちょっかいをかけるのはやめた方がいいかもな。
問題集に目を向け、考え込むように持っていたペンでペン回しを高速でし始めた。上手いな、などと感心していると、左手の人差し指で向かい側の席をトントンと叩く。座っていいということだろうか。
これで話しかけて怒られたら理不尽だなと思うも、英明はそのまま向かい側の席へと座る。近くで咲いていた桜の花びらがひらひらと窓の隅に落ちた。
「偉いな、勉強してんだ?」
千羽紗凪は顔を上げずに、問題集を眺めていた。その問題集のページは、まだ授業でも習っていない範囲だ。英明でも解けないほどに先へと進んでいる。おそらく、半年先をいっている。
「あたしは、ならなきゃいけないの」
「何に?」
「……医者に」円らな瞳と英明の目が重なる。
「って言ってもさ」彼女は苦笑いを浮かべながら椅子に凭れる。「ウチは裕福じゃないから、私立には絶対にいけない。となると、国立の医学部だけど……どうなることやら」
国立の医学部。
受験生の上位一パーセントに入らないと厳しい最難関の部類だ。中央高校の偏差値が七十前半ぐらいを推移しているのだが、それでも合格できるのは一握り。
国立医学部志望の高校生は偏差値八十越えの超エリート校の化け物達と戦い、勝たなければいけない。幼少期から英才教育を施された子達を凌駕する必要がある。圧倒的な財力の壁を努力量でねじ伏せなければならないのだ。
私立医学部の学費は最低でも二千万はかかるらしい。
視線を彼女からノートへと遣る。
びっしりと書かれたノートは古びれており、何度も使ったのがそれだけで分かる。何度も計算して、間違えてを繰り返している。
「今頃さ、他の子たちは塾とか家庭教師に勉強を教えてもらってるんだろうな」
千羽がこうして帰らずに、黙々と一人でやるのは、金銭的な余裕がないからだ。この図書館には大学の赤本を始めとした参考書の類も豊富にある。勿論、独り占めはできないから、こうして借りずにやっているのだろう。
「何度解いてもわからないこの問題も、簡単に教えてくれてさ」
ペンでノートをタンタンと叩く。シャーペンの芯がぽきっと折れた。
「まぁ、明日から変わるんだけど」
先程までのやるせない顔つきではなく、挑戦者のような顔つきへと変わっていた。
「あぁ。千羽を含めみんなの志望校が一歩近づく」
「学年主席のあんたに言われるとバカにされてるように感じるんだけど」
むすっとした可愛い顔を掌に乗せている。
二月四日に意識を取り戻してから、英明は高校一年の知識が一切欠け落ちていた。中学時代の知識は残っている。おそらく、前の明智英明が記憶喪失になったのが高校生に入ってからだからかもしれない。
故に、入院期間中の二ヶ月の期間で再度勉強をし直した。もっとも、やっていくうちに自然に答えが頭の中に浮かんでくるため、英明にとってはさほど苦労していなかった。同学年が受けていた中間と期末テストを先生からもらって解いてみたが、ほぼ百点に近い数字を叩き出した。まぁ、五月にある中間テストで首席を取れるかは分からないが。
「姉の優秀な遺伝子を受け継いだからな」腕を組んで、うむと頷く。
「そこで両親じゃなく、姉って言っているところが、気持ち悪い」
そう気味悪がると、千羽は解らないだろう問題の解説に目を通し始めた。
その光景に触発されて、英明も今日の宿題を机に広げる。
「勉強すんな」
「そうやって手を止めてると、お前の志望校の席をオレが埋めるぞ」
「うわっ、ついてくる気か、このストーカーわっ」
「それが嫌なら、オレに気にせず勉強をすることだ」
ふんと鼻を鳴らして黙々と手を動かすので、同じく英明も動かした。
図書室の外がぼんやりと暗くなってきた頃、千羽が僅かに開いていた窓を閉めた。
程よい疲労感に瞼がウトウトとなりつつあったが、窓を閉める音で覚醒した。
「……じゃあ、帰るか?」
「まぁ……うん」千羽は小さく頷く。
「いい子」
「しばくぞ」
先ほど可愛く頷いた筈なのだが、一瞬にして凶暴さを現しやがった。
荷物を纏め、千羽と共に校舎を抜ける。
まだ、部活動に励む者たちがグラウンドで大声を出して練習していた。その声を聞いているとこちらまで汗が出てきそうな程だ。
「あんた、寝てる?」
「えっ?」そう言葉が漏れた刹那、千羽が近寄る。端正な顔立ちが目の前に来るので顔を逸らそうとするも肩を優しく握られた。不安そうなその表情がどことなく姉の愛花と重なる。
「詩織が言ってたとおり、寝不足症状が出てるわよ。目尻がぴくぴく動いてるし、微かに目も充血してる」
「流石、医学部志望」
「茶化すな」肩から手を解き、睨んできた。
__怖いよぉ。
校門を抜け、ふたり横並びに帰宅する。
以前の明智英明との帰宅は今みたいな流れだったのだろうか。
「って、アタシがあんたに発破をかけたのが原因か……ごめん」
英明の家の前で起きたビンタ事件。その件を指しているのだろう。
「あれは効いたな」
千羽がやんわりと唇を噛む。
「心にさ」
千羽が鼻で息を吐く笑いをするも、まだまだ申し訳なさを顔には出していた。
あの後しっかり千羽から謝罪を受け、少し赤くなった頬へ保冷剤を無理やり当てさせられた。
「まぁ、色々と作業していたら、気づけば次の日になってることが多くてな」
「中学のあんたもそうだった」初めて誰かから中学の話が出たので瞼を少し上げて、千羽を見る。「異常なほどに集中して、周りが全く見えなくなる時があった。その姿に感化されてだろうね、莉乃も美術をする時に周りが見えなくなった」
黒沼莉乃が美術部に篭るのは中学時代の英明が影響していたのかもしれない。
「あんたのそれを、脳かっぴらいて医学的に解明したいから、医学部志望になったのはここだけの話だけど」
「おいっ、物騒すぎるぞ! 免許をこやつに取らせるな!」
軽くふたりは笑うと、二人の間にあった隙間が埋まっていく。
「最後までやりきりなよ」
「あぁ、わかってる」
翌日も、英明と徳橋は『放送室ジャック』をいつも通り続けた。そう言っているのは二人だけなのだが。許可を先生に貰っているのでジャックでも何でもないのだが。ふたりはその語感を気に入っておりそう呼び続けていた。
近日リリース予定のベータ版『勉強相談広場』を今日、発表した。試験運用なので、改善意見を募る一週間だ。プログラミングスキルの高い睦月がその辺りはカバーしてくれている。睦月曰く、『勉強すれば誰でも作れるレベル』とのこと。
勉強相談広場は、解らない箇所の学校用教材の問題部分を写真で撮り、アップすると誰かが解りやすく答えてくれるというもの。回答者には、自分の名前の横に貢献度が数字として出る。回答者としても、勉強の復習になるだろうし、理解を深めることに繋がる。
基本的に学年が離れていると教えてもらう機会がないが、三年生が一年生の悩んでいることを教える場面も期待できる。例えば__二年生で早めに勉強を進めている子の解らない箇所を三年生が教えてくれるような場面もあるのじゃないかと。
さっそく、一つの問題がアップされた。
昨日、英明が図書館で見た問題。
千羽が基本的にはこのアイデアを進めていくことになっている。
放送室で英明はタブレットを眺めていた。隣にいる徳橋も同じ光景だった。もう三日目だからだろうか、徳橋が隣にいてもあまり緊張の類はなくなっているも、誰かが答えてくれるだろうかというそちらの緊張感はあった。
だから__もし、誰も答えなかった場合は英明が答えるつもりだ。この問題を英明は解き、一応解りやすい答えを導いていた。そのため、今日もバッチし、寝不足である。
開始から十分が経とうとする。もう少し、様子を見てもいいのだが、初動はかなりの注目を浴びている。最初から閑散としているのはあまり好ましくない。実際に使われている光景が必要不可欠。
痺れを切らして、昨日解いたノートの写真を送ろうとした刹那、その問いに解答が届く。
それも、三年生の二人から。
どうやら、同タイミングで送ってくれたようだ。
ふたりの答えへの導き方は、後輩が理解しやすいようにと必死に悩んでくれたのが分かった。図を使って視覚的で、この応用を解くまでの道筋の基礎もおさらいしてくれていた。
__オレのよりも数段分かりやすい、や。
チャットでは、送ってくれた二人が『僕の方は少し技巧的かも、下にある方を参考にしたほうがいいかも』『いえいえ、私のほうは計算スピードが遅くなるので、テストの場面だったら、上の方のほうが』
__温かいな。
そのチャットを観た三年生と二年生が、『あぁ〜ここ、わたしも解らなかったんです!』『すげぇ〜分かりやすい!』『この機能、助かる!』といったコメントで溢れ始めた。
もちろん、この広場は半永久的に残る。後々の後輩たちが問題で詰まった時に、この広場で検索する、なんて場面があったら感無量だ。
そのあとも、複数の問題が投げかけられ、分かりやすい解答が出るに至った。
後に、この広場の影響で、高校の偏差値が上がる一助になれば嬉しい限りである。
「よかった」
友人が手がけたものが上手くいって安心したのだろう徳橋が呟く。
「これで徳橋も勉強が好きになるな」
勉強嫌いな徳橋に意地悪なことを投げかける。
ぷくっと膨れる徳橋がおかしくて英明は目を細めた。
『お二人とも解り易かったです! ありがとうございました!』と『凪』というハンドルネームから感謝が綴られていた。
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