第3話
真っ暗な部屋。天井には灯りのついていないペンダントライトが見える。自室のベッドの上だと気がつき、深く息を吐きながら手で目を覆う。
ーー気分が悪い……。
彼は身を起こすと、ベッドサイドテーブルの引き出しからパイプと刻んだ香草の入ったブリキ缶を取り出した。葉をつめマッチで火をつけると、紫煙が甘い香りと共に立ち上る。煙を舌で転がしながらぼんやりと中空を眺めていると、脳裏に《彼ら》の声が聞こえてくる。
「狂ってしまえば、ねぇ……」
ククッと喉を鳴らし己を嘲る。
こんなにも多くの《己》を飼っている時点で自分はとうに狂っているだろう。そのうえ夢で見るだけでなく、起きている時には声まで聞こえてくるのだから、正気であろうはずもない。
ーーあぁ、でも。
「彼らは、私がまだ正気だと……」
口をすぼめて煙を吐き出す。甘い香りがますます濃くなり、部屋に充満した紫煙が身体に纏わりつく。
ーーそう、私はもう正気でない。正気であろうとする必要もないのだ。
「……フフッ、フフフフッ」
ベッドから降り、裸足のまま寝間着の裾を引きずりながらバルコニーへ向かう。身体が熱を帯びて冷えきった艶やかな床をとかすような心地がする。
狂ってしまえば、楽なのに……。
あの小柄な影の声が何度も脳裏に響く。
騎士の家門として代々皇家に仕えてきたラスヴェート一門。現当主アディスは皇帝の乳兄弟にして皇帝直属の騎士団の長を拝命している他、皇太子の教育係としても知られている。また、長女エルネスタは騎士学校を首席で卒業した才女で、現在は憲兵として城下の治安維持に貢献している。さらに、最近養子として迎え入れたヴェーチェルは表舞台には現れないものの、アディスを支える隠密としてとても優秀な人物である。
私ーーチェフィーロだけなのだ。この家門に生まれ、何者にもなれぬ者は……。
だが、それがなんだと言うのか。
騎士の家門に生まれ、騎士となることを期待されていた。そんなもの、他者が敷いた石畳を誰かのあとに続いて歩いているだけではないか。
なんてつまらないのだろう。
家族の生き方を否定する気は毛頭ない。しかし、そうやって生きることを閉ざされた私は、このまま黙って石畳を歩いていくことなどできはしない。
なれば、新しく敷けばいい。真っ直ぐ歩くための石畳はもう私には必要ない。
公子にあるまじき珍事を起こそうじゃないか。享楽に耽り、奇天烈な言動で世間をかき乱し、彼は狂人だ、狂っているのだ、と巷間に流布するまで。それが本当の《私》になるまで、私は《私》を《演じる》のだ。
「そうですね、そう《演じて》みましょう。手始めに何をいたしましょうか……」
†
朝起きて見ると、屋敷の庭が騒がしかった。屋敷の主、アディスは身を起こし窓の外を眺める。
「おい、まだ夜も明けてないじゃないか」
なぁ、と隣に寝ているはずの妻に声をかけようと視線を落とすが、そこに彼女の姿はない。寝つきのよい彼女がこんなに暗い夜半に目覚めるはずがないのだが。そう思って何となく時計を確認した時だった。
「あなた!あなたーっ!」
「ナタリア、この時計壊れてんのか?もう昼なんだが……」
「いいえ!壊れてなんかございませんよ!それよりも早くいらしてください!チェフィが大変なのです!」
妻のナタリアに言われ一気に目がさえた。昨日あれほど取り乱したのだ、また何かーー。
「わぁ、なんと美しい宵闇の星空でしょう。これを作った職人さま、とても素晴らしい腕をお持ちなのですね。ねぇ、執事長もそう思いませんか?」
「チェフィーロ坊っちゃん!そんなに振り回してはあぶのうございます!」
「えぇ、ですから《わちき》から離れてなさいと言ったでしょう?」
ーーこう、しないとっ!インクが、出ないのです、よっ!
ブンッと空を切る音がする。アディスはそれを聞いてサァッ血の気が引く。チェフィーロは騎士学校ではハルバードを振り回していた。まさかーー。
「おや?《てて様》に《かか様》ではありませんか、ごきげんよう」
柔らかく細められた左目と微笑む口元、大理石でできたオブジェの上に寝間着姿のまま裸足で立つ姿、手にしていたのは昨日チェフィーロに渡したあのロッド。
「チェフィーロ、怪我するわ、降りてらっしゃい」
「平気ですよ、かか様。それよりご覧ください、このロッドで絵を描きました。わちきが大好きな凍月の空模様を描いたですよ」
なんと、この夜空は彼の仕業なのだと言う。
そう、アディスが渡したあのロッドは武器などではない。インクを発現させる疑似魔法を込めた筆記用魔法具なのである。あの辛く苦しい記憶を一時だけでもまぎらわせることができるよう、絵を描くことが好きなチェフィーロのためにアディスが魔法具職人に作らせたのだ。
「チェフィーロ、お前一体どうしたんだ?」
「どう、とは?」
「その妙な言葉遣いと、身なりのことだ」
「何をおっしゃるのですか、てて様。わちきは生まれてからずうっとこうでしたよ、フフフフ……」
ああ、父様母様……。なんて痛ましいお顔。そんな顔をさせたいわけではないのに。私は大丈夫です、悲しくも辛くもありません。ほら、しっかり笑うのです、私の顔よ。涙を流してはなりません、心配をさせてはなりません。
さあ、笑え、笑え、笑え。きちんと《わちき》を演じるのです。
頬を伝う感触があっても、私は笑い続けた。父様も母様も執事長も、悲しそうに、苦しそうに、私を見つめておりました。
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