帰還



 本当は、今日のラボへの花の配達は全て終わっていた。会社にも戻らず直帰だ。


 巨大エレベーターに乗り、地下第三階層の住居エリアに戻る。ドアが開き降りた場所は、はるか昔、地上にあった住宅街そのものだった。その大部分が映像で出来ていて手で触れれば消えるような魔法の箱だ。本物とは程遠いが生活には困らない。見た目は百年ほど前にアジア圏にあった暮らしができることが売りのエリアだ。


 ――ここが現在レイの住んでいる場所。


 ドーナツ型に出来ている居住区の真ん中には、向こう岸が見えないくらいの空洞がある。そして昼間は広告や季節が感じられる美しい映像が投影される。夜は真っ暗闇。

 レイの歩いている道路から見下ろしても、地下がどこまで続いているのかは見えない。地下にある宇宙。ブラックホールにも見えるディスプレイ。その外は温度も気圧も異なる空間だ。生身の人間は生活できない。


 見上げれば、いつも偽りの空が広がっていた。明るい青空も、星の綺麗な夜空も全てデジタル。今、レイの目に映る空間全てが、プラネタリウムみたいなものだった。

 たどり着いた自宅マンション。十階建ての最上階。一番奥の部屋。扉を開けると暗かった自室に自動でライトが付いた。洗面所の前を通ると鏡には、浮かない顔をしたレイの姿が映っていた。


 研究所で適当に結んだ髪の結び目を解いて、部屋のローテーブルの上に投げる。そのままベランダに出ると、夜風で髪が靡いた。けれど、その風が偽物の風だとレイは知っている。

 西花の風は、いつもシステムによって濾過され柔らかく優しい。外の風は、もっと無遠慮で、熱くて冷たいものだ。朝整えた髪は、すぐにぐしゃぐしゃになるし、建物を吹き飛ばすような暴風雨のときもある。

 けれどレイは西花より、意地悪な外の環境が好きだった。ここでカイエのいない毎日を過ごすくらいなら、一人、不自由な外で生きた方がマシ。それをしないのは未練や執着かもしれない。レイはカイエの帰りを西花のこのマンションの一室で待っていた。鎖(チェイン)がなくなりカイエと家族でなくなった今、カイエがレイの元に帰ってくる保証はどこにもない。


 既に赤の他人同士に戻ってしまったのだから、帰ってくる理由がなかった。レイは鎖(チェイン)がなくなってから、胸にぽっかりと穴があいたままだ。アルコールなんて飲んだことがなかった。一人で暮らすようになってから体に悪いものばかり口にしている。ベランダで偽物の風に当たりながら、冷蔵庫から出した缶ビールを飲んだ。本当は高級品だけど、体に悪い物は誰も飲まないからとラボからタダで貰った。


「あー、まっず」


 酒は美味しくないと思っているのに、晩酌が癖になっている。それ以外の寂しさの埋め方が分からない。

 レイとカイエはチェインといわれる関係だった。

 鎖システムは、国家政策で行われた洗脳プログラムだ。スラム街出身で家族がいなかったレイは、施設に収容された日、国から偽りの家族を与えられた。


 擬似家族の名前は、カイエ。


 地下のラボで初めて出会ったカイエは、外で見るカラスみたいな真っ黒の髪をしていた。無口で、全く笑わない自分と同じ年頃の少年。

 育った環境のせいかもしれないが、とにかく可愛げがないし、愛嬌もなかった。

 絶対に自分とは相容れないって思っていた。

 けれど、ラボの人間から体にプログラムを打ち込まれた瞬間、カイエのことが世界で一番、愛しい人になった。仲良くなれないと思っていないのに、その感情が綺麗に上書きされていた。


「あーもう一度、会いたいな。カイエさんに」


 偽物の夜空に、何度目か分からない独り言を呟いた。あんなに幸せだったのに、レイはカイエの手で家族関係を一方的に解消されてしまった。あの絶望の日から、ずっとレイは寂しいままだった。

 確かにカイエとの家族の繋がりは消えたのに、愛しいと思う感情だけが、ずっと治らない傷口のようにレイを苦しめていた。


「バカ、カイエ」

 レイが空に向かって恨み言を呟いたときだった。静かだったベランダに突然小さなデジタルの雑音が響いた。空間の故障だろうかと訝しんだ。一拍後、重ねて大きなため息が聞こえた。


「レーイ。アルコールなんて、やめろ。体に悪いだろう」


 酒酔いのせいで聞こえた幻聴だと思った。


「……う、五月蝿いな、俺の勝手だろう」


 レイは長年染み付いたくせで、偽物の愛しい声に悪態をつく。


「前は、もう少し可愛くて素直だったのにな。酒のせいか? 馬鹿になるぞ」

「うるせー元々馬鹿だよ、お前と比べたら」

「その通りだな」


 やけにはっきり聞こえる幻聴だなと思った。

 そう思った瞬間、ホログラムが消えて、実映像が現れた。手が、腕が。レイは、それを視線で追う。

 ずしりと確かな重みが、背中にのしかかってきた。レイとは違う種類のアルコールの匂いがした。さっきリビングを通ったとき、自分で出した記憶のないウィスキーのボトルがテーブルの上にあった気がした。

 それはレイが棚に置いていた秘蔵のウィスキーだ。カイエが帰ってきたら一緒に飲むつもりだった。ムカつく。先に飲まれている。


「レイ、会いたかった。世界一、愛してるよ」


 振り返ると、夜会用の洒落た中華服を着たカイエが立っていた。ふつふつと怒りが込み上げてくる。


「ッ、殺してやる。俺、がっ、どれ、だけ」


 震える声で物騒なことを言っていた。何度も繰り返した独り言に返事が返ってくるのが嬉しい。カイエが生きていて嬉しい。偽りでも、愛していると言ってくれて嬉しい。


「いいよ。レイに殺されるなら、どうぞ」


 そう当たり前のように言って両手を広げられる。


「嫌だ、絶対、死ぬなよ」


 反射的に抱きついていた。データじゃない、本物のカイエの体だった。


「どっちだよ」

「……おかえり」


 涙でぐちゃぐちゃで前がよく見えない。


「あぁ、ただいま」


 三年間、レイの前から姿を消していた「魔王さま」がなんの前触れもなく、突然帰ってきた。

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