バスルーム

「なんで、急にいなくなったんだよっ」


 レイはカイエを抱きしめていた腕を解き、目の前の整った顔をぎりぎりと睨みつけた。無論、睨みつけたところでカイエはレイをちっとも怖いと思っていない。あぁ、犬が吠えているな、って目が言っている。カイエはレイの問いが不服らしく柳眉を寄せた。


「レイはバカなのか。会いたければ、いつだって会えたのに」


 そう言って自身の右のこめかみを人差し指で二回叩いた。別にカイエは頭を使えと言っているのではない。西花の人間は、西花のメインシステムと常に繋がっている。安全と円滑な人口管理のため、人々の居場所は常に監視されていた。唯一の例外は西花の外、スラムの人間だけ。レイもカイエも、施設に収容されたので当然データ登録されている。


「システムの使い方、知らない訳ないだろう」

「知ってた、けど」


 カイエが、どこで何をしているかなんて問い合わせればすぐに分かった。レイは、あえてそれをしなかった。


「……探して、良かったのかよ。そっちが、勝手に鎖切ったくせに」


 レイは「カイエは家族だ」と言って、システムエラーになるのが怖かった。だから出来なかった。けれど、そんなレイの細かな感情の機微を、ゼロイチ人間のカイエが理解してくれるとも思えなかった。


(俺だけ、かよ。死ぬほど寂しかったの)


 一方的に理由も分からず心の鎖を切られて、データからも家族関係を否定されたらと思うと恐ろしかった。本当の意味で、赤の他人になってしまう。今日まで、帰りを待つことも出来なかっただろう。


 ――でも、なんで待ってたんだろう。俺。


 カイエと別れてから、ずっと、その答えを探していた。


「レイとの鎖を切ったのは事実。でも、消したのは体の方だけ。サーバーのデータはそのままだ。ラボにバレたら、大騒ぎになるだろう」


 やっぱりバカだなみたいな顔をされた。

 堅牢なメインシステムだ。簡単には侵入できないし、不正アクセスのニュースなんて今日まで一つも無かった。一人で勝手に心配して一人で不安になっていた。けれど、カイエは「絶対誰にも出来ない」といわれていたことを、現状、レイが知っているだけで二個もやってのけた。だからこそ、あと二つ三つ増えても不思議じゃないと考えていた。

 一つ目は鎖を破棄すること。二つ目は『未曾有の危機』から国家を救ったこと、だ。


「あぁ、そうかよ。天才さんは、そんな高度なことも簡単に出来んだな」

「簡単ではなかったけど、アレは、なかなか大変でやりがいあった」

「ッ、楽しいおもちゃで遊べて良かったな」


 レイは吐き捨てるように言っていた。


「さっきからレイは、何を怒っているんだ? 別に、レイが僕を探して会いに来てくれる分には困らなかったよ。そうなったら、嬉しいと思っていたし」


 当たり前のように言われて、胸が押しつぶされるかと思った。ずっと欲しかった言葉だった。その気持ちさえ伝えてから消えてくれたら、こんなに怖い思いはしなかった。

 カイエに伝えたい気持ちが、次から次へと溢れてきて上手くまとまらない。


「じゃあ、言えよ! 探しても良いよって」

「いま言った」

「ッ、遅いよ。言ってくれないと、俺、もう、カイエのこと、わからねぇんだよ」


 今は家族じゃないから。レイは昔みたいにカイエのことが分からない。家族だったときは、もっとカイエのことが何でも分かっていた。

 鎖が無くなってから、焦燥感にも似た感情が折に触れレイを苦しめる。


「――そうだね」

「この学者バカ」

「それが僕の仕事だから」


 目の前のカイエは、らしくなく着飾っている。いつも研究所で白衣姿だったカイエは、レイがいくら似合いそうな服を買ってきても、外へ出るときは黒か灰のスーツばかりで着心地以外は無頓着だった。

 レイと背格好は、そう変わらない。恵まれている整った顔立ちも、高めの鼻梁や美しい三重瞼も、白衣と不機嫌顔で隠して全部台無しにしていた。


「どうかした?」

「どうかって、その」


 カイエの顔を見るのが、急に恥ずかしくなって思わず顔を逸らしてしまう。


「ん?」


 カイエに顔を覗き込まれた。外見に無頓着だったカイエが今は自身の美しさを見せつけるような格好でレイの目の前に立っていた。

 カイエは「は、とか、ふっ」みたいに息をコンマ三秒吐くみたいな笑い方ばかりで、たまに大笑いしたと思ったら笑いのツボが変なやつだった。なのに、今は柔らかな花のように微笑んでいるのだからとにかく落ち着かない。人の気も知らないで、ふわふわ笑っている。

 カイエの右耳のタッセルのイヤリングが生意気に揺れた。何かムカつくし、引きちぎってやろうかと乱暴なことを考えた。出来もしないのに。


「三年もどこにいたんだよ」

「どこって、ずっとレイの近くにいたけど」

「嘘つけ! 近くにいたら」


 分かったはずだと言おうとして、もう鎖同士でない自分達は近くにいても気配が感じられないと気付き、また悲しくなった。カイエと再会してからレイはずっと情緒不安定のままなのに、カイエはちっとも変わっていない。逆に、鎖が消えて、どこか清々しているようにも見えた。少しもレイの感じている焦りや深刻さを理解していない。しようともしていない。


 当たり前だった。カイエはもうレイの家族じゃない。毎日寝る前に言ってくれた愛してるって言葉も、全部偽物になってしまった。

 だからカイエは一人で三年間もいられた。


「外にいたよ。古巣だから部屋も簡単に借りられた。スラム街の住民データなんて杜撰で更新されていないし、あの辺りならアバター作れば、いくらでも姿は偽れる」

「そう、だけど」

「久しぶりに行ったけど、おもちゃ箱みたいだね。あそこは、朝も昼も夜もカラフルなネオンがついていて」

「近くに居たなら、外の植物園で声かけてくれたらいいじゃん」

「それじゃ、出ていった意味がないな」

「なんでだよ」


 カイエの灰がかった緑の瞳が、ゆっくり一度閉じて開かれる。


「なんででも」


 カイエが二人の鎖を切って出ていった理由は聞いてない。分からないことばかり。

 でも、ようやく今の服装については理解した。


 別にお洒落で着飾っているのではなく、単に郷に入ればというやつだ。カイエが元住んでいた辺りはアジア圏のスラムで、ラボで着ているようなスーツや白衣じゃ目立ったのだろう。スラムの中でも比較的賑わっている中華系の酒場のある地区で部屋を借りていたのかもしれない。

 ふと、涙でぐしゃぐしゃになっていた目元を衣の袖で雑に拭われた。まるで、以前と同じ家族に戻ったみたいだ。でも子供じゃないのだから、もっとやり方があると思う。涙がついた服は一体いくらするんだろう。


「泣くほど、僕に会いたかったの?」

「そうって言ったら」

「家族じゃなくなったのに、どうしてだろうね」


 こめかみに優しくふれるだけのキスを落とされた。アルコールの香りだけじゃない。服から瑞々しい香りがした。ベリー系の甘い匂いだ。帰りに果樹園でも通ってきたのだろうか。


「俺の酒、勝手に飲んだのかよ」

「レイの部屋の酒も飲んだけど、帰ってくる前から外で飲んでたよ」

「酒飲んだらバカになるんじゃないのか」

「今日だけだよ。あーだめだ眠い。シャワー使う。あと着替えたい。明日は、ラボに戻るから……レイ起こして」

「い、良いけど、って待て、うち泊まるのかよ。え、ら、ラボ戻るって休職してたんだろ、なんで急に」


 戸惑いとともに次々と疑問が浮かんでくる。


「僕の住所、今も昔もレイと同じ場所だけど。住民情報はそのままって言っただろ」

「いや、そうだけど、いや、それは、さっき聞いて、そうじゃなくて!」


 鎖である自分たちは、居住地が同じなのは当然だ。けれどそれは表向きであって、三年間レイは一人でこのマンションに住んでいた。


「べ、ベッド一つしかない」

「いいよ」

「は?」


 全く話が噛み合わない。昔から会話は終始この調子だったけど、鎖じゃなくなった分、今はわかりあうための言葉が必要だ。そうじゃないと不安になる。


(なぁ、この不安って? 何)


 カイエが何を考えているのか全然分からない。怖い。この気持ちを早く「全部埋めなければ」と焦った。


「レイと一緒のベッドで寝るから」


 酒酔いのせいか、よろよろとおぼつかない足取りでカイエは一人、脱衣所へ消えていった。


「え……一緒に寝るって、なに」


 急に心臓の鼓動が早くなった。答えを見つけなければと思っていた感情が一つ一つ、勝手に埋まっていく。レイはベランダで一人立ち尽くしていた。


 カイエは、いつまで経ってもシャワールームから出てこない。古くてポンコツな部屋のセンサーは、レイがいつもと同じ時間に眠ったと判定して部屋のライトを落とす。

 シャワールームのある一角だけライトが付いていた。明日、部屋の学習プログラムをカイエに直してもらおうと思った。


(いや、そうじゃない! そうじゃなくて)


 レイは心配になって脱衣所に足を踏み入れた。けれど、その場から動けない。

 今、シャワールームの扉を開けたら、カイエは裸だ。カイエの体なんて、何百回、何千回と今まで見てきた。

 自分と同じ遺伝子を半分くらい持ち、大切な家族だと認識していたものが、血のつながりの全くない別の個体であると理解した瞬間。

 頭がパニックになった。

 保護欲とも違うもっと切実な欲求だった。触れたくて、触れて欲しくてたまらない。

 さっきこめかみに触れた唇が、もう疼いて恋しい。扉を開けるのを躊躇していた。今まで一度もカイエの肌を見ることを躊躇したことなんかなかった。

 ずっと、最後まで埋まらない感情だった。三年間悩み抜いた末の答えは、カイエと再会してあっさりと分かった。


「これが、お前の言う、システムバグか?」


 いつまで経っても、水音は聞こえてこない。扉を押し開けると、カイエは服を着たまま壁に寄りかかってバカみたいに眠っていた。西花一の天才のくせに。

 寝ているときだけ、年齢より幼く見える。

 自分の前でだけ見せてくれる無防備な姿に少しの優越感と幸せを感じていた。以前は少しのわがままに、しょうがないなって思っていたのに。

 多分、今もそう思っている。


 ――あぁ、やっと全部、埋まったと思った。


「飲めない酒なんか飲むからだぞ。お前がバカになったら、俺が困るだろ」


 返事は返ってこない。静かな寝息だった。


「カイエがバカになったら、明日、誰が、この部屋のシステム直すんだよー。おーい」


 酔っ払いのカイエの頬にそっと触れた。


 前に冗談っぽく同じようなことを言ったら僕は電気屋じゃないって怒ったけど、文句を言いながらも、あのときは、ちゃんと直してくれた。バスルームの床に両膝を付き、さっきのお返しだと、こめかみと額にキスをした。決して、これが家族同士のおやすみのキスじゃないと分かっていた。


 ふと、カイエの瞳から一筋の涙が溢れているのに気づいた。

 誰の前でも泣かないカイエが、前触れもなく泣いたことで、カイエがレイの前からいなくなった日のことを思い出した。


 体に埋め込まれていた洗脳プログラム、鎖。人体の洗脳を、カイエがどうやって外部から書き換えたのか、方法も書き込まれたコードもレイみたいな凡人には一生、分かりっこない。けれど自分の体から鎖が消えた瞬間だけは確かに覚えていた。

 さっきカイエがしたのと同じように服の袖でレイの涙を雑に拭ってやった。


「カイエさん優しいからさ。わかるよ、家族だったから。つらかったな」


 この男が、十五万人の命と西花を天秤にかけて、前者を切り捨てた「冷酷な人殺し」なのは消せない事実だ。


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