第3話「あしたを許して」

・音も光もない更けた夜。真っ暗な部屋で肩を上下させる少女の姿があった。

必死に唇を噛みしめて声が出ないようにしても、心の奥底から溢れ漏れ出る感情を殺すことは出来なかった。

震えた指でスマホの画面を操作する。

「……」

アドレスを入力し、相手を待つ。電話に出て欲しい気持ちと出てこないで欲しい気持ちがない交ぜの中で。

「……赤羽か?どうした?」

幸か不幸か相手はすぐに出てきてしまった。

「……甲斐さん……ごめんなさい……私……」

「どうした?赤羽、何があったんだ……?」

必死に涙をこらえても絞り出す声と共に涙もまた溢れ出る。

「私……私……あの子を守れなかった……」

「あの子……?」

「歌音さんを……あなたと久遠の間の子を、守れなかった……!!」

「か、歌音が……歌音が、どうかしたのか……!?」

「歌音さんが……な、亡くなられました……」

「……ま、まさか……一体何があった!?今すぐ日本に向かう!」

「待ってください……今は皆大変なんです……怜悧さんも……正輝さんも……」

「だからすぐに向かうって言ってるだろ!」

その声を最後に電話が切れる。

「……っ!!」

相手のいなくなったスマホを手に少女は震える。堰き止めきれなくなった感情の瀑布が嗚咽と激情とを触れ回る。

「ごめんなさい……ごめんなさい……私は、3回も守れなかった……久遠……久遠……!!」

「……」

ドアの向こう。せつなが息を潜めて暗闇に俯いていた。



それは半日前。2040年9月下旬の頃。すっかり肌寒くなってきた秋の頃合。

「……ま、正輝……」

放課後。怜悧が作り出した歌音そっくりのロボットが慌てて正輝と翼を追いかけてきた帰路。

「……どうした?」

正輝は振り返り、声を振り絞る。目の前の少女が偽りになって一ヶ月以上経つが未だどう対応したらいいか分からない。

「……」

翼もまた彼女の姿を直視できずにいた。しかし、今彼女の様子が明らかにおかしいことには気付いていた。

「お、オリジナルからの反応がなくなってたの……」

「……は?」

「僕、12時間に1度はオリジナルの馬場歌音寺とpingでもいいから連絡を取り合うように怜悧から言われていたの……、昨日まではちゃんとオリジナルからの信号を受信できてた……でも、さっきやったら信号が送信できなくなってたの……受信も出来ない……!!」

「……どういうことだ……?」

正輝は頭を整理する。夏の始まり頃にやってはいけない罪を犯した本物の馬場歌音寺は甲斐機関東京支社ビル跡の工場に幽閉されていた。機械で出来た肉体に必要な電力だけをケーブルで供給し、死なないようにした状態でこのコピーロボットから送られてくる偽物の馬場歌音寺の生活風景をリアルタイムで受信し続けるという怜悧からの厳罰。正輝は正直やり過ぎだと思っていたが、怜悧から次の休みの日にでも解放してやろうという提案があって少しだけ安心していた。

だが、そのオリジナルの歌音からの反応が途絶えたとはどういうことだろうか?

「電波の状態が悪いとかか?」

「そんなんじゃない……あの工場にいる他の電源が入ってすらいないロボット達の信号だって僕には分かるのに、その中にオリジナルの反応がないの……!!」

「……それって、」

「……本物の歌音ちゃんに何かあったって事?」

翼の言葉に正輝が振り向き、表情と思考を凍らせる。

「何かって……何が……」

無意識に呟いた時だ。

「正輝さん!」

すぐ近くをやや通り過ぎた車から結羽が顔を見せた。

「結羽!?」

「すぐ乗ってください!」

ドアが開き、3人が迷うことなく車に乗り込んだ。

「出すぞ」

雷歌がアクセルを踏み、車が勢いよく走り出す。

「何があったんだ?」

「2件報告したいことがあります」

結羽がタブレットを見ながら続ける。

「まず、今から4時間ほど前に甲斐機関本社にあるロボット倉庫のドアが破られてその、」

結羽が一瞬だけロボット歌音の方を見る。そして、続ける。

「オリジナルの歌音さんが逃げ出しました」

「逃げ出した!?どうやって……!?」

「未確認ですが、補給していた電力で故意に自分自身のバッテリーを暴走、その爆発を利用してドアを破ったと考えられています」

「……そんなことしたらあいつは……」

「……実際に倉庫から逃げ出した時点で馬場歌音寺に残された電力はほとんどない。バッテリーも手足もデッドウェイトでしかない。恐らくそう遠くまで行けないし、長くもないだろう」

雷歌が代わりに答える。

「……そして、もう1件ですが、これは街のスクラップ工場からの連絡なんですが、本日お昼頃に1体のロボットらしき物体を回収したそうです……」

「それが歌音なのか……?」

「…………ですが、その、」

言い淀む結羽。それを見て雷歌が続けた。

「……対象は妊娠していた上にロボットにも人間にも見えなかったそうだ。第一発見者の通行人が言うには妊娠したように見せることの出来るダッチワイフ……つまり性欲処理用の悪趣味な人形だと勘違いしていたらしい」

「……それって……」

正輝と翼の疑問の表情、それに対してロボット歌音が告げる。

「オリジナルの馬場歌音寺は妊娠していたんだよ。……正輝との子を」

「……え」

翼が表情をなくす。それに気付かぬまま正輝は続ける。

「ま、待ってくれ!それであいつは、歌音はどうなったんだよ!?」

「……今俺達はその工場に向かっている。だが、恐らく期待できない。到着したら俺が先に様子を確認しに行く。しかしそもそも工場から連絡があったんだ。甲斐機関製のロボットが血を流していると」

「……それは、」

「赤羽美咲も矢尻達真もタイミングが悪いのか連絡がつかなかった。甲斐怜悧とは現場で落ち合う予定になっている。……お前達は車の中で待て。いいな?」

雷歌の念押し。正輝達は何も言えないままやがて、スクラップ工場へとたどり着いた。

「……」

「おい、」

雷歌が降りようとした時、正輝もまた車から降りた。

「聞いていなかったのか?お前達はここにいろ」

「……いや、俺にも責任があるかも知れない。だから、」

「……どうなっても知らないぞ。結羽、お前はここに残ってこの二人を」

「……うん」

「……行くぞ」

雷歌と正輝が歩いて先に進んだ。言葉のない夕暮れ。外に吐き出せる状態でない感情が内々から燃え上がってまだ何も起きていない目にしていないにも関わらずに既に嘔吐しそうな気配がある。

「……」

それを無理矢理飲み込み、正輝は来るべきそこへたどり着いた。

「いやぁ、すみません。一般人からの通報がありまして……」

スタッフと雷歌が何かを喋っている。いまいち理解が出来ない。

「こちらです」

スタッフの手招きに雷歌は一瞬だけ正輝を見てから先に進んだ。

そこは鉄分の匂いが充満していた。全ての機械は今動作を止めているが薄暗い部屋で今にも動き出しそうな重量感がいつもなら恐怖を感じたかも知れない。だが、正輝も雷歌も少しだけ鉄の匂いの中に金属以外のものが混じっている事にすぐに気付いた。

「……」

「こちらなんですが、どういう感じなのでしょうか……?」

「見ておく。外してくれ」

雷歌がスタッフを離れさせる。その視線の先。粉々になった物体があった。多くは金属だった。だが、血塗られた肉片も確かにあった。作り物ではない髪の毛や服の残骸も。

「……あ、あ、」

正輝が先に進む。金属片と肉片の中に見覚えのある布があった。それは歌音が普段左目を隠していた眼帯だった。

「ああああ……ううう……うあああああああああああ!!!」

眼帯を掴み、床を何度も殴る。雷歌が止めようとした時。

「……」

そこへ怜悧がやってきた。

「……これってまさか……」

「怜悧、見ない方がいい」

「……あれが、歌音……」

怜悧の目の色は見えない。正輝にはよく見えなかった。

「……何で……」

「姉さん……歌音が……」

「…………」

怜悧が後ろを向き。歩き出し、やがて走り出した。

「……先に車に戻っていろ。スタッフに伝えてくる」

「…………」

雷歌が青い顔をしているスタッフの方へと向かい、何かを伝える。懐から札束を取り出して押しつけた。

「……行くぞ」

雷歌が正輝の背を押した。


駐車場。車の外には怜悧がいて、腕を組んで目を閉じている。

「……あ、」

正輝達が見えると、ロボット歌音が車から降りてきた。

「正輝!お、オリジナルは……?」

「……」

正輝は血塗られた眼帯を見せた。

「……そ、それは……」

「……あいつが付けてた奴だ……」

「……そんな、」

ロボット歌音が膝から崩れ落ちる。正輝はそれを咄嗟に抱き留めた。

「……僕、僕はどうしたらいいの……?僕は、馬場歌音寺の偽物、間に合わせのロボットなのに……。その馬場歌音寺だって甲斐怜悧の影武者にすぎなかった……じゃあ、僕は、僕は、」

「……お前にはあいつが過ごせなかった未来があった。今日まで過ごした時間は姉さんにも歌音にもないものだ。お前は……お前だよ」

「じゃ、じゃあ……僕は、い、生きてていいの……?これまで通りに……馬場歌音寺として生きてていいの……?」

「……ああ。だってお前は、」

その時だった。正輝と目線を合わせていた少女の目が何も映さなくなった。

「……え?」

3回目の景色に凍った正輝へロボット歌音が倒れてきた。途端に消える温もりと鼓動。服の色から感じる重みは既に人間のそれではなく、物体だった。

「……じゃあ、これももう用済みだよね」

視線の先。怜悧がいた。手にはスマホが。

「ね……えさん……?」

「そりゃ歌音がああなったんだから、これにも暴走しないようにアプリで監視するのは当然でしょ?いつでも機能を止められるようにするのも当たり前じゃない。……馬場歌音寺はもう死んだんだから」

冷たい目でアプリをアンインストールする怜悧。片手でロボットの体を持ち上げて車のトランクに放り投げる。

「ま、待てよ……」

「……」

立ち上がった正輝を怜悧は感情のない目で見た。

「何?」

「姉さんは……姉さんはおかしいだろ!!何で、何でこんなことが出来るんだよ!あいつも、その子もどうしてそう簡単に殺してしまえるんだよ!!体も心も!!」

「……おかしいのはあんたよ。歌音はテロを起こした。私達の事をマスコミに話した。ライブをすると言って人を呼んでは爆破テロで全部吹っ飛ばした。あんた、あのテロで何人死んだか知ってるの?私達だけで私刑にするなんて甘かったのよ。その上で無理矢理逃げ出して力尽きて、文字通りのスクラップ。罰が当たったのよ。これも、もう役目を果たしたんだからいらない。それで何かおかしい?」

「何もかもだ!!」

怜悧に殴りかかる正輝。だがその拳は簡単に怜悧に止められ、次の瞬間には怜悧の右足が正輝の胸にたたき込まれていた。

「ぐっ!!」

ただの一撃で正輝は血反吐を吐き散らし、そのまま意識を失った。

「……」

怜悧は何も言わずに正輝を片手で持ち上げて車の中に放り込んだ。

「……」

翼が何も言えないままこちらを見ていた。

「……何?」

「………………ううん」

「……結羽、雷歌。出して」

「……分かった」

俯く結羽。雷歌は運転席に戻り、車は工場を後にした。


夕暮れの黒主家。赤羽、達真、せつな、アリスが待ち構えていた。

「ただいま」

車が止まるとすぐに怜悧が家の中に向かう。

「待て、怜悧」

達真が声をかけるが、

「……ごめんなさい。気分が悪いからもう休みます」

目線を合わさずそれだけを言い残すと怜悧は自分の部屋へと走って行った。

「……正輝?」

既に目を覚ましていた正輝に翼が声をかける。

「…………」

正輝は今自分の表情が分からなかった。ただ、車から降りると、

「大丈夫?」

翼がその肩に触れた瞬間。脳裏に明美、翼、歌音の姿が浮かび、その目から光が消えると、

「うわあああっ!!!」

「え、」

翼の手を払い、正輝が尻餅をつく。

「……正輝……?」

「はあ、はあ、はあ……!!う、うええええっ!!!」

そして茂みに向かうと嘔吐した。

「……何があったのですか?」

赤羽と達真の目が雷歌に向けられる。

「……馬場歌音寺が死んだ。バッテリー切れで公園に倒れていたところスクラップ施設に通報されてそのまま……」

「……え、」

「……っ!!」

「影武者ロボットとして用意された方の馬場歌音寺も怜悧によって機能が停止された。制御アプリもアンインストールされた以上、二度と目を覚ますことはない。……このまま回収させてもらう」

「……そうか」

震えながら俯く赤羽に代わって達真が雷歌と何かしらのやりとりをする。正輝も赤羽も翼もそれ以上何も分からなかった。

「……正輝……」

せつなが嗚咽を繰り返す正輝に触れようとするが、翼がそれを止めた。

「翼……?」

「……せっちゃん、たぶん、僕達は……」

「……?」

理解できないせつな。が、ふたりの話を聞いていた達真が雷歌を遮り、正輝の背に手を置いた。

「正輝、今は休むんだ。何も考える必要はない」

「………………はい」

正輝を優しく起こし、共に部屋まで連れて行く達真は一度だけ雷歌や翼に目配せをした。

「……あの、何が……」

未だ理解に届かないせつな。アリスが聞き耳を立てながら正輝の吐瀉物を掃除し始める。その中雷歌が語る。

「……恐らく正輝は、今女性と関われない。ここ最近何度も女性の死に顔を目の前で見てきた事になるからな」

「……え、」

「……ごめんね、せっちゃん……」

せつなの胸に翼の顔。

「僕が……あの日に正輝を守れなかったから……歌音ちゃんを救えなかったから……ごめんね……」

「…………」

翼の涙。せつなは表情を作れなかった。


翌朝。

「……あ、」

アリスが起きてメイド服に着替えてリビングに来るがそこには誰もいなかった。いつもなら赤羽や正輝、怜悧がいるはずなのに誰もいない。

「……あ、」

しかしわずかに玄関で音がした。

「怜悧様!」

慌てて向かうと、ドアを開けようとした制服姿の怜悧がいた。

「……ん、行ってくるね」

「あの、ギターは……?」

「……もう必要ないから」

そうして振り返ることなく怜悧は家を出て学校へ向かった。

「……」

「アリス」

「せつな様、」

振り向けばせつながいた。

「せつな様、怜悧様が……」

「……うん。行ったみたい」

「……私、どうすればいいんでしょうか……?」

「……アリスはよく頑張ってくれてるよ」

「でも……」

「……正輝も姉さんにも美咲さんにも今は時間が必要なんだ……」

「……はい」

ふたりがリビングに戻る。赤羽と正輝の分も含めて朝食を作り始めた。

「せつな様が……?」

「うん。私にも何か出来ることないかな……って」

そしてせつなはアリスを遙かに上回る手際の良さで朝食を作り始めた。

(……お料理を作るなんてしばらくぶりなのに手が覚えてる。私、もしかしてそんなにつらくなかったのかな……?)

やがて、食卓が整う。しかしまだふたり以外はリビングにいない。

「……私、正輝起こしてくる」

「え、でも……」

「大丈夫だから。美咲さんをお願い」

「……はい」

二手に分かれる。せつなは惑いながらも正輝の部屋へと向かう。

「正輝」

ドア越しに声をかける。しかし返事はない。

「正輝」

再び声をかけるが、やはり返事はない。

「入るよ」

ドアを開ける。久しぶりに見る兄の部屋。明かりのない部屋。膨らんだベッド。

「正輝」

歩み寄ると、正輝は毛布で体を抱きしめたまま充血した両目で無を眺望していた。

「ま、正輝……!?」

「!せ、せつなか……悪い、どうした……?」

「あの、朝、だよ。もうご飯作ってあるから……」

「そ、そうか……ね、姉さんは?」

「もう学校に行ったよ。正輝もそろそろ行かないと……」

「…………」

目を閉じる正輝。そして、

「……悪いけど今日は……」

「…………うん、分かった。ご飯、出来てるから」

せつなはそれだけを軽い微笑みを伴って告げると正輝の部屋を後にした。ドアを閉じて少しを歩き、そして静かに涙を流した。


学校。翼は一人歩いていた。せつなから正輝が学校を休むことを伝えられたからだ。

(……正輝、どうして……どうして何も言ってくれないの……?)

スマホを握りしめる。既に何度も正輝にメッセージを送っているが、問題ないとしか返事は来ない。

「あ、矢尻さん」

「え、明坂さん?」

やがて、顔なじみに会った。明坂明美だ。正輝とは中学時代から水泳部での仲間。翼も少しだけ面識がある。

「おはよう!どうかした?あれ、正輝は一緒じゃないの?」

「……正輝は今日休みだって」

「そうなんだ。って事は今日も部活には来ないか」

「今日もって?」

「何だか最近正輝水泳部に来ないんだよね。代わりに馬場さんが来てくれてるんだけど……」

「……歌音ちゃんは、」

言うべきか悩む。この様子だとまだ学校側には歌音のことは何も言っていない様子だった。それにどこまで話していいのかが分からない。歌音の事情は本当に限られたものにしか伝えてはいけないだろう。

「ん?どうかした?」

「……ううん。何でもない」

「……?矢尻さん、何かあった?」

「大丈夫、だよ」

「……何かあったら言ってね」

「……うん。ありがとう」

やがて何を話すでもなく二人は学校へと向かった。


剣道場。静かに剣道部員達が稽古に努める朝練の時間。しかし今日は少し空気が違った。

「おい怜悧。何のつもりだ?あぁ?」

怒声。ぶつけられた先には背に地をついて荒い息をこぼす怜悧の姿。

「てめぇ、一学期の間はライブに専念させてくれって言ったよな?だから2学期になってからは部活に専念するって話だったはずだ。んで、3年生最後の大会が再来週に控えてる訳だ。で?その様は何だってんだ?あぁん!?」

振るわれた竹刀の一撃が倒れたままの怜悧をなぎ払い、壁を突き破る。

「ぐっ!!」

口元を拭い、瓦礫の中から立ち上がる怜悧。面を上げた先にいるのは剣道着姿。装具には心美の名前が刻まれている。

「はあ、はあ、も、もう一本!」

「立ち上がってきたって事は、どういうことか分かってんのかぁ!?あぁん!?」

やがて放たれた異常な一撃を怜悧はまともに受けることも出来ずに握りしめた竹刀が根元から折れて、怜悧自身も尻餅をついて倒れる。

「うううっ!!」

「雑魚が!!」

面が破壊されたその顔に相手からの唾棄。

「いつも弱い弱い思っていたが、今日のお前は竹刀を握る価値もねえな!!」

悪罵を垂れながら面を外す。その顔はどう見ても美女のそれだ。

「そんな奴は雑巾がけでもしてろ、クソが!!」

床に落ちていた雑巾を足で掴んでそのまま怜悧の顔に叩き付ける。

「……ごめんなさい」

汚れ濡れた顔で怜悧はただ謝ることしか出来なかった。視線の先にその相手を、剣道部部長にして生徒会会長である心美小翠を入れることは出来ずに。

今日この日、怜悧は明らかなスランプを迎えていた。実質的に実力では小翠に次ぐ筈なのに他の部員相手にも一度も勝利できていない。結局この日、怜悧はまともな剣道など出来ずに雑用だけをやった。

「……ん、弟君はいないのですか?」

生徒会室。先ほどまでの悪態とは打って変わって礼儀正しそうなお嬢様と言った風貌の小翠の姿がそこにはあった。

「今日正輝君は欠席です」

同じ3年生だが剣道部ではない副会長が返事をする。

「そうでしたか。もしかして怜悧が何か関係しているのかも知れませんね」

紅茶を啜るその姿は間違いなくどこかの令嬢だ。……男子の制服を着ている以外は。

心美小翠。3年生。その体は間違いなく女性なのだが、異常に発達した陰核が男性器に近い性質を持ってしまっている体質を持ち、それに引っ張られているのか自認が曲がっているのか自分を男子だと思っている。普段に関してはおっとりして丁寧口調な人物なのだがどこかたまっているものがあるのか、竹刀を握っていると先ほどのような悪罵まみれの大悪漢として振る舞ってしまう。

「怜悧さんもさっきクラスで少し見ただけですけど、何だか様子がおかしかったですね。もしかして風邪か何かで家族で大変なのかも知れません」

「風邪ですか。穏やかじゃありませんね。後で俺の方から様子を見に行っておきましょうか」

小翠に対して副会長は少しだけ心配をする。

(小翠会長、怜悧さんに対して厳しい部分あるけど竹刀持ってなきゃ平気かな?)

「いいんじゃないでしょうか?」

「分かりました。何か美味しいものでも持って行きましょう」

ニコリと笑う小翠はやはりどう見ても美少女だ。


「ん?」

放課後。何が出来るか分からないが黒主家へと向かっている翼。その先で見覚えのある背中を見た。

「あれって心美会長?」

「ん?君は確か1年生の……弟君の幼馴染みの矢尻さんでしたか?」

「あ、はい。矢尻翼です」

「あなたも黒主君へのお見舞いですか?」

「あ、はい。あの、でも……」

「俺も今から行くところだったんですよ。ご一緒しませんか?」

「……は、はい」

言いながら翼を追い抜く小翠。翼は何とか追いかける。

(……足早い。流石お姉ちゃんが勝てない人。……でも今の正輝に会わせて平気かな?いろんな意味で)

この時代、性同一性障害者はそこまで珍しくはない。ジェンダー思想はもちろんのこと、科学により肉体の性別そのものすら高額な手術を受ければ反転させられるとまでされている。歌音がしたような首から下をロボットにするという手段を使わずとも性別だけならいくらでも交換できる。もちろん今でもそこまでするのは少数派だ。

「ごめんくださいませ!」

小翠がインターホンを鳴らす。やがて、

「はい。どなたでしょうか?」

アリスが出てきた。

「おや、君は黒主さん家の子かな?」

「えっと、みたいなもので……」

「会長。この子は見ての通りメイドみたいなものですよー。アリスちゃん、この人うちの学校の会長。正輝のお見舞いだって」

「え、そうなんですか?……でも、今は……」

「初めまして。心美小翠と言います」

「あ、はい。アリスと言います」

「どう見ても日本人ですが……」

「会長。事情があるんですよー」

「……そうでしたね。怜悧から少し聞いています。ごめんなさいね」

「あ、いいえ!あの、上がってください」

アリスがドアを大きく開き、

「お邪魔します」

「しまーす」

小翠と翼が中に入った。玄関で靴を脱ぎ、アリスの案内で二人がリビングへと向かう。当然翼は何回も来ているので案内されなくても分かる。

「矢尻さんはここへは?」

「何回もありますよー。半分僕の部屋みたいな部屋もありますしー」

「へえ、それは睦まじいですね」

客席に座る小翠。その小翠からお見舞いの品を受け取るアリスに翼が耳打ちする。

「正輝、大丈夫なの?」

「それがあまり……ほとんど部屋から出てこない状態なんです」

「う~ん、やっぱそっかー」

俯く二人。小翠は聞こえていないふりをしながら口を開いた。

「正輝君は体調悪いみたいですね。出来れば顔を見ておきたかったのですが、お暇した方がいいかもしれません」

「え、で、でも……」

「いいんですよ。急に来た俺が悪いんです。怜悧さんもまだ帰ってこないみたいですので」

席を立つ小翠。すると、

「あ、」

ドアが開き、せつなが顔を出した。ちょうど目線が小翠と合ってしまう。

「おや、」

小翠が口を開いた瞬間、青い表情となったせつなが勢いよく来た道を走り出した。

「彼女はもしや怜悧さんの妹さんですか?」

「はい。せつな様です」

「会長。せっちゃんは人見知りなのでー」

「まあ、大体聞いています。うちの学校にもいないようですしね」

鞄を手に小翠が玄関へと向かう。

「ごめんなさい。何もおもてなし出来なくて……」

「大丈夫ですよ。では、正輝君によろしくお願いします」

そう言って小翠はアリスと翼に目配せをして去って行った。

「……あの、翼様」

「なーにー?」

「あの方は女性ですか?男性ですか?」

「おっぱいもおちんちんもある人だよー」

「…………えっと?」

「それより僕はふたりの様子見てくるね-」

翼が勝手に冷蔵庫から取った自分用のジュースを飲み終えるとリビングを後にする。


「……ん?」

帰宅まであと少しと言ったところで怜悧は前方から小翠が迫り来る姿を見た。

「小翠……!?」

「おや、怜悧。今帰りですか?」

「な、何であんたがうちから来るの……!?」

「欠席してた弟君へのお見舞いに。まあ、会えなかったけどね」

「……欠席、してたんだ……」

「知らなかったんですか?」

「……何でもいいでしょ」

小翠の脇を通ろうとした怜悧。しかしその腕を小翠が掴んだ。

「怜悧、朝の……いえ、今日一日の不調は弟君関係ですか?」

「小翠には関係ない」

「ないわけないでしょう?朝も言いましたが、大会が再来週に迫っています。けれど今日のあなたはスランプにも程があります。今日たまたま調子が悪かったというのならまだいいです。けどそれが続くようでしたら俺にも考えがあります」

「……考え?」

「あなたを副将から外します。いえ、場合によっては大会メンバーからも外します。そしてそのまま引退してもらいます」

「……」

「俺は怜悧を脅しているわけではありません。ただ元通りの怜悧に戻ってきて欲しいだけです。では、ごきげんよう」

「……」

怜悧はただ噛み付くようにその背中を見送ることしか出来なかった。


「……」

そんなふたりの様子を窓から見ながら翼が正輝達の部屋がある廊下を渡る。

翼も小翠の話は聞いている。普段もああだし、竹刀を持つと特に変化と気性が激しいと怜悧からよく聞いている。

(お姉ちゃん、今朝も朝練で早く行ったって事は会長と部活で会ったって事だからひどいことになったんだろうな)

思いながら翼は正輝の部屋の前に来た。

「……」

ノックする……勇気は出なかった。どうしても昨日の正輝の姿が目に浮かんでしまう。

(……ずっと一緒にいたのに、正輝にあんな目で見られるなんて……少しだけせっちゃんの気分が分かったよ)

隣のせつなの部屋に向かう。

「せっちゃん、大丈夫?」

ノックする。やがて、ドアが開いた。

「……翼」

「うんうん。僕だよー。さっきはごめんね-」

部屋に入る。せつなの部屋には何度も入ったことがあるが、久しぶりに入る気がした。

「あの人は……?」

「心美小翠会長。生徒会の会長で剣道部の部長だよ-。正輝やお姉ちゃんを見に来たみたいだねー」

「……正輝は?」

「……多分まだ隣にいるんじゃないかな?」

「たぶんって……」

せつなが翼の顔をのぞき込む。一瞬だけだが翼は恐怖の色を見られた気がした。

「……ごめん」

「ううん、せっちゃんのせいじゃないよ。……だからその、ちょっと……」

「うん。一緒に正輝の様子を見に行こうか」

「うん。そうだね」

またふたりで目を合わせてからせつなと翼が部屋を出る。と、

「あ、お姉ちゃん」

「翼。来てたんだ」

ちょうど正面。怜悧が歩いてきた。

「姉さん、お帰り……」

「うん、ただいまー!……で、」

怜悧は正輝の部屋の前まで来ると、ノックもなしにドアを開けた。

「え、」

「こら正輝!今日学校休んだでしょ!」

何の容赦もなく怜悧が中に入っていく。

「ちょ、ちょっとお姉ちゃん!?」

慌ててふたりが追いかけると、真っ暗な部屋で正輝と怜悧が対峙していた。

「……何のようだよ、姉さん」

「正輝、あんた随分な目と口をするようになったじゃない」

互いに胸ぐらをつかみ合う二人。

「あんた、女の子に触れないんじゃなかったの?」

「俺が姉さんをどう思ってようとも勝手じゃないのか?」

どこまでも冷たい視線と爆発しそうな視線。それぞれ相手の胸ぐらを掴む手に力が入る。

「いちいち終わったことを気にして周りを巻き込まないで」

「誰のせいだと思ってるんだ?俺は、あいつを頼むって言ったのに……どうして殺したんだ!?」

「歌音のこと?あの子がたくさん人を殺したからじゃない。何度同じ事を言わせれば気が済むわけ?」

「死んだ人は帰ってこないんだぞ!」

「知ってるわよ、そんなこと」

漆黒に軋む空気。怒気を通り越して殺気すら迸る暗い部屋。

「何でも力で解決できると思うな。正悪を自分一人で決めるなよ!」

「他に何が出来たというの?あのロボットだって歌音をモデルにしたのよ?いつ同じテロを起こすとも限らない」

「だからってまだ何もしていない奴を殺していい理由になるか!」

「あれは人間じゃない。殺すって言うのは違うんじゃない?」

「何でそんな平気そうにしていられるんだよ!!……一番つらいのは姉さんなんじゃないのか!?」

「勝手に私の気持ちに踏み込んでこないで!!」

怜悧が正輝を片手で持ち上げて廊下に向かって投げる。当然そこにはせつなと翼がいて……

「!?」

勢いよく投げつけられた正輝がせつなと翼を押し倒してそのまま3人まとめて廊下に転がっていく。

「……ま、正輝……」

「いたた……」

まるで二人を押し倒したような格好になってしまった。

「……あ、……あ、あ……」

フラッシュバックする無数の景色。いずれも暗闇の中で失われた命達。作って失われてしまった命。あの夜。

「う、う、うえええええええええええ!!」


数時間後。黒主家リビング。

「……そうか。こうなってしまったか」

達真が重い言葉を吐く。対面には着替えを済ませたせつな。

「……私、何も出来ない……」

「……」

俯いたままのせつなに達真は何も言葉を出せない。

(……今のところ正輝は女性恐怖症をどう押さえるかが問題だな。しかし、あのテロの時の翼、そして2度の歌音の死を目の当たりにしたのなら俺すらもどうやっていいか分からん。それに、恐らくもっと問題なのは……)

考え込む達真。すると、インターホンが鳴った。

「はい」

達真が取ると、

「俺だ。矢尻」

「あんた……!!」

声を聞き、すぐに玄関へ向かうとそこには甲斐と結羽、雷歌がいた。

「赤羽から聞いた」

「……そうか。だが恐らくあんたは今邪魔だな。本来あの子達を支える立場である父親のあんたには信頼がない」

「かもな。だが、何もしないわけにも行かないだろう」

3人が中に入る。リビングへ顔を出すとせつなと目が合った。

「あ……」

怯えるせつな。甲斐がため息をつくと、結羽がせつなの方へ向かう。

「……それで、今あの子達はどうしてる?」

「怜悧はまたどこかに行った。正輝は部屋で休んでいる。アリスは掃除。翼が今風呂を使っている」

「……ん、赤羽はどうした?」

「今日は姿を見ていない。せつなにも聞かされていないらしい」

「……そうか」

「……ああ、なるほど。あんたの目的はそっちか」

「だけじゃないがな。ただ、歌音の事をかなり引きずっているらしい」

「どこかの誰かさんがわざわざ母親と同じ顔にしたから余計にな」

達真の眼光を受けて甲斐は視線をずらす。と、せつなが口を開いた。

「あの、お父さん……」

「ど、どうしたせつな?」

「あの子……歌音さんはその、本当にお父さんの……娘なの……?」

「…………ああ。そうだ。本当は身代わりの母親役である杏奈との間の子を怜悧の影武者にする手筈だった。だが、相性の問題か出来なかったんだ。そこであの子と……」

「……」

「おい、娘の前でそんなことを言うな」

「……悪い」

俯く甲斐とせつな。

「……でも、歌音さんのお母さんもテロで……」

「ああ。14年前のテロで重傷を負った。即死ではないんだが甲斐機関の技術力でも延命が限界だった。結局1年は持たなかったんだ。ただ、あいつの最後の願いで歌音を怜悧にすることにしたんだ」

「……お父さんは、あの子のことは愛していたの?」

「当然だ。お前達のことも同じように愛している」

「……」

より俯くせつな。すると、

「お掃除終わりました」

そこへアリスと翼がやってきた。

「え、お館様!?」

「おお、アリス。翼ちゃん。久しぶりだね」

「…………どーも」

翼は素っ気なくせつなの隣に座る。

「……はあ、」

甲斐がため息をついた。

「……人徳だな」

達真が小さく笑った。

「で、ここからどうする?怜悧とあの赤羽美咲は探さないといけない。正輝にも誰かがついてやらないといけない。あんたもやっぱりそう長く日本にはいられないんだろう?」

「……確かにそうだな」

「……ん、違うのか?」

「…………まだ考えていることがある。今は子供達に集中したい」

「そうだな。とりあえず怜悧ならあんたが帰ってきたことを伝えればすぐにでも戻ってくるだろう」

「もう伝えたよ」

翼がスマホをいじる。

「……翼、そう軽く言っていい話じゃないぞ」

「お姉ちゃんなら別にいいでしょ?……でも、お姉ちゃんから返事来ない」

「……そうか」

「おい矢尻。せつな。もっと詳しく状況を教えてくれないか」

甲斐が二人の顔を見た。


2016年。10月上旬。

「……ここか」

研護はメナージュに言われてとある場所を訪れていた。それは甲斐機関と呼ばれる医療品メーカーの会社だった。

「そもそもどうして俺があいつの好きな人の家に行かなきゃいけないんだよ。しかもこんな会社の社長だなんて聞いてないぞ」

季節違いの冷や汗をかきながら研護が中に入ろうとすると、

「おにー!おにー!」

小さな少女が何かを言いながらビルから出てきてまっすぐ研護にぶつかってきた。

「きゃ!」

「あ、わ、悪い。君、大丈夫?」

研護の膝にぶつかった少女は泣き出しそうになってしまう。

「ううう、ご、」

「ご?」

「ごめんにゃしゃいぃぃぃ……!」

「あ、ああ、い、いやいいから!」

「怜悧ちゃん!」

と、そこへ新たな声。研護と同じか少し上くらいの少女がビルから出てきた。

「くおんちゃん……」

「怜悧ちゃん、大丈夫?……ごめんなさい、怜悧ちゃんがご迷惑をかけちゃって……」

「あ、いえ。膝にぶつかってきたけど……妹さんですか?」

「ううん。お兄ちゃんみたいな人の娘さんなんだ。ほら、怜悧ちゃん」

「うん……」

怜悧と呼ばれた少女が久遠と呼んだ少女と手を繋ぐ。

「えっと、この会社に何か用かな?久遠ちゃん……じゃなかった私、ここの社長と仲いいから今のお礼に通してあげるけど」

「え、あー、その、」

「うん?」

久遠からの善意に困る研護。そもそもメナージュに言われてやってきたもののアポを取っているわけでも個人的に用事があるわけでもなかった。メナージュからはここに行って不自然なことが起きれば騎士達が何か動くかも知れないからそこで世界を助けてもらうように言えなどと無責任且つ意味不明にも程があることを言われた。まさかそのまま初対面の人に言えるわけもない。

そうして困っていると、

「久遠、どうかしましたか?」

今度また別の少女が来た。赤羽美咲だった。

「赤羽美咲さん!?」

「あなたは……赤羽研護さん」

「美咲ちゃん?この人知り合いなの?」

「何回かお会いしたことがあります。私がバイトしてるコンビニの常連ですよ」

「ど、どうも。赤羽研護です」

「美咲ちゃんと同じ名字なんだ。久遠ちゃんは、久遠ちゃん。馬場久遠寺って言うんだ」

「れーりは、れーりっていうんだよ!よんちゃい!」

怜悧が指を4つ折って研護に見せてきた。

(……この子がひょっとしてメナージュの幼馴染み二人の子供か?メナージュが23歳くらいだから同い年と仮定するなら19歳くらいで生んだのか)

研護が怜悧の頭を撫でてやる。

「それで、研護さんはどうしてここに?」

「あー、いや、メナージュの奴からここに来るよう言われたんだ」

「メナージュさんが?」

「美咲ちゃん、メナージュさんって誰?」

「以前何回か会ったことある人です。甲斐さんやキーちゃんさんと似たような雰囲気の人で……」

「あの二人と?で、その人とこの人はどんな関係なの?」

久遠からの疑問を受けて赤羽が研護を見た。

(どう答えたものか。まさかいきなり街路樹から出てきたメナージュ・ゼロ……つまり時空の闇に落とされた存在だなんて言えないしな……)

「し、親戚なんだ。あの名前もあだ名みたいなものだし」

(つか本名は普通に日本人だし)

「らしいですよ」

「そんな名前の人と?……まあいいや、で、どうするの?」

怜悧を抱き上げながら久遠が訪ねる。尤もな疑問だ。そしてそれは研護が一番知りたい。

「今日メナージュさんはご一緒じゃないんですか?」

「あ、ああ。俺も実はよく分かってない。ちょっとあいつには借りがあるから一度言うことを聞いてやってきただけなんだよな。……もう帰るか」

遠い目の研護。すると、突然自然音が消えた。

「ん?」

音が消えた方を見ると、甲斐機関のビルからだ。見れば窓からの光が見えなくなっている。

「停電でしょうか?」

「え、でも予備電源とかなかったっけ?」

「あるはずですが……何かトラブルでしょうか?」

赤羽と久遠がビルに向かうが自動ドアが動かない。

(……これはもしかしてメナージュの言っていた妙なこと、か?)

研護が周囲を見回す。見れば周囲もどこかおかしい。どうやら信号が動いていないようでたくさんの車が立ち往生している。

「甲斐さん、聞こえますか?」

赤羽がどこかにスマホをかける。怜悧が心配そうにのぞき込んでいるが久遠がすぐに宥める。

その時。

「!!」

3人のすぐ近くにある街路樹。その影が動いた。

「ブランチ!?」

見覚えのある影に研護が動く。が、

「危ない!!」

それより早く研護のスマホからラストが出てきて影から放たれた光を受け止める。

「ラスト!?」

「僕は大丈夫!」

受け止めた場所から煙を上げながらラストは動く影を睨み、手から閃光を放つ。その一撃が影をかき消した。

「……今のは、」

赤羽達が疑問と驚愕を意味する視線を注ぐ。

「あ、いや、これは……」

「研護。すぐにメナージュに知らせた方がいいよ。……もしかしたら僕達のせいでヒディエンスマタライヤンが少し早く動き出したかも知れない」

「は……?」


2040年。

雨が降る夜になった。

「……」

赤羽は一人彷徨っていた。そこは円谷学園跡地。この前の爆破テロによって完全に閉鎖されてしまった思い出の場所。

「……誰か、力を貸してください……」

まるで祈るように雨の中にか細い言葉を投げる。

「……別の世界の私、紫歩乃歌さん……時空を超えられるのならどうか、何事もなかった頃に時間を戻してください……」

しかし、夜は雨音だけを返す。赤羽の祈りに答える者はいない。そのはずだった。

「……」

気付けば正面に紫電の花嫁がいた。

「……あなたは……パープルブライド……!?どうして……!?」

「……赤羽ちゃんが過ちを犯しそうだから」

「過ち……私が……ですか?」

「そう。あの子達のために」

「……私は、あなたのお陰でこの世界にやって来れました。また赤羽美咲になれました。けど、そうまでして得た未来であなたや甲斐さんの子供を救えない……それじゃ一体何のために私はここに、奇跡の世界にいるんですか!?」

「……」

「……こんな、こんな無力な私を奇跡の世界に残すために久遠は殺され……そしてあなたは、そんな姿になったと言うんですか……キーちゃん…………!!」

「……僕はパープルブライドだよ、赤羽ちゃん。でも、」

パープルブライドは泣きじゃくる赤羽に歩み寄り、その仮面を外した。

「今だけは長山三咲の力が必要みたいだね」

「……ううう、」

「赤羽ちゃん。僕も久遠ちゃんも赤羽ちゃんに呪いたくて、こういう風に悲しんで欲しくて未来に生きてもらったわけじゃないよ。ただ、僕達はもうこうなるしかなかった。赤羽ちゃんは違った。だから僕も久遠ちゃんも希望を託して赤羽ちゃんに生きて欲しかったんだよ。……廉君や美夏ちゃんがあの姿になってしまったのも同じような結果なんだと思う。僕は、もう長山三咲としてはどんな世界にもいられない。甲斐三咲ももうこの世界にしかいない。……この世界でも普通の家族ではいられていないのかも知れない。僕も廉君もあの子達についていてあげられない。だから、赤羽ちゃん。僕達の代わりにあの子達をお願いね。でも本当に赤羽ちゃんがつらかったら言ってね……?その時は、」

「そ、その時は……?」

「……今度は僕がこの世界をリセットする」

「……そんな大事をしてしまったらあなたは、」

「騎士達に見つかってしまうかも知れない。でも、これが僕の責任だから」

「……そんなのつらすぎます……」

「だね。ありがとう、赤羽ちゃん。だから、ちょっとだけお客さんを連れてきてもらったの」

「……お客さん?」

「……ちょっとだけ心配だけどね」

そう言って目の前のパープルブライドはかつてと同じように小さく笑った。


黒主家から歩いて数分。怜悧は誰もいない公園にいた。

「……」

以前までならライブハウスが使えない時には歌音とここで練習をしていた。だが今では雨が降るだけの公園だ。「……」

今でも目を閉じずとも怜悧の目には隣で歌音が歌の練習をしている姿が見えている。

「怜悧、ここのメロディなんだけど……」

「うん、そうだね。ここ難しいよね、怜悧」

今を映さない目で怜悧は雨の中の虚空に向けて答えた。

(今私が壊れるわけにはいかない。私がテロを許しちゃいけない。悪いのは怜悧なんだから。だから、これでいいんだよね、怜悧?)

「そこでね、怜悧……」

「あなた、一人で何やってるの?」

「!?」

突然の声に怜悧が慌てて現実に戻る。声のした方を見るとそこには少女の姿があった。だがそれは上半身だけ。下半身は海鮮系の生物のそれになっていた。

「……私、まだ幻見てるんだ。確かに怜悧はいろんな姿になれるんだもんね……」

「だから何一人で会話してるのよ。怜悧ってあなたのことでしょ?ねえ、お姉ちゃん」

「…………え?」

青と銀の間の綺麗なロングストレートの少女。顔立ちや上半身だけの姿だけを見れば小学生程度に見える。しかしあまりに下半身が異形すぎた。

「あ、あなたは……?ま、幻じゃない……?」

「私はルネ。ルネッサ=峰山。黒主4兄妹の末っ子だよ。お姉ちゃん」

ルネと名乗った少女はその触手で怜悧を捕らえる。

「ひっ!!」

「お母さんやお義母さんに頼まれてわざわざここに来て?奇跡の世界とやらのきょーだいがどんなのか楽しみにしてたのにざーんねん。何があったのか知らないけど一人でお話ししちゃう痛い子がお姉ちゃんだったなんて」

触手の握力は無機質な暴力だった。

(く、苦しい……!!私じゃなかったら、普通の女子高校生とかだったらバラバラになってる……!!なんなのこの子……!?)

「私と同じでゼノセスターの素質があるかもなぁって思ってたのに。はぁーあ」

どんどん締め付けが強くなっていき、怜悧の骨が軋んでいく。

「ぐっ、ぐがああああああああ!!!」

「あれ?まだ生きてるんだ。流石お父さんの第一子。ぬるま湯みたいな世界にいるくせに普通の人間でもないんだね。関心関心。でもやっぱりこんなに貧弱なお姉ちゃん嫌だなぁ」

「ぐっ、うううう……!!」

「……あれ?やっぱまだ生きてる。さっきまで全然生きてる気配のない目をしてたのに。生きたいとか思い始めちゃったりしたの?思い上がるのも程ほどにしたら?今のあなたなんてレイプする価値もないんだけど?」

さらにきつくなる圧力。怜悧の骨や肉に亀裂が走ってもなお弱くなる気配はない。

(何で……一体何なのこれ……何が起きてるの……!?)

「私、一番嫌いなんだけど?死にたいとか現実逃避してるくせに苦しくなったら死にたくない、もっと生きたいなんて目をする奴。しかもそれがあの黒主零の血を引く私の姉だなんて、ひどい皮肉。はぁーあ、お父様も騎士やめちゃって普通の人間になっちゃうし。本当退屈」

「あ、あなた……!!」

血がにじむ手足を何とか動かして触手から逃れようとする怜悧。

「だから抵抗なんてしないでさっさと死んじゃってよお姉ちゃん」

つまらなそうに触手にさらなる力を込めるルネ。怜悧の骨が肉が内臓がついに潰れそうになった時。

「はい、そこまで」

一人の少女がやってきた。中学生程度に見える。

「はぁ、」

ルネがため息をつき、怜悧を放り投げた。

「歩乃歌。あんたまで来たの?」

「ルネ。流石におイタが過ぎるよ。怜悧ちゃんを殺す気?和佐さんに怒られるよ?」

「歩乃歌には関係ないもん。はぁーあ。まつりもみらいもひまりとかって言う後輩の面倒で全然構ってくれないし。私もここじゃなくてもう1つの要監視世界に行けばよかったな」

「……な、何なのあなたたちは……?」

血反吐を吐き散らしながら怜悧がルネと歩乃歌を見る。

「気にしなくていいよ、怜悧ちゃん。ただのお節介焼きだから」

「歩乃歌が来るなら歩乃歌だけでよかったじゃん」

「まあまあ。……で、怜悧ちゃん」

「な、何よ……」

「悩み事があったら、解決しそうにないなら一度肩の力を抜いて歌でも歌ってみたら?僕は怜悧ちゃんのプリズムボイス聞いてみたいな~!」

「……」

「そう睨まないで。ほら、P・O・P・P・Y!」

「……」

「あはは。じゃあね、怜悧ちゃん。ほら、ルネ。行くよ」

「ぶー!」

歩乃歌はルネを伴ってどこかへと去って行った。

「……何だったのあれ。やっぱりまだ私の幻……?」

口元を拭い、立ち上がる。

(……あれ、さっきまで全身の骨が折れてたのに……本当に夢だったの?あの子が歌うくらいまではすごく痛かったのに……)

自分の体を見る怜悧。雨で濡れて冷えていた体まで温かくなっていた気もする。

「……まあ、どうでもいいか。それより、聞いてよ、怜悧……」


午後9時過ぎ。

「で、こうなった訳か」

道場から戻ってきた達真が見る黒主家のリビング。

青い顔の正輝。俯いたままのせつな。何かブツブツ言ってる怜悧。あたふたしているアリス。それを宥めようとしている翼。無言で目を伏せる赤羽。どうしようも出来ずに窓際で腕を組んでため息ばかりの甲斐。

「家庭崩壊だな」

コーヒーを飲む雷歌。達真の分のコーヒーを用意する結羽。

「どうぞ」

「すまない。……で、お前どこに行ってたんだ……?子供達を放置して」

達真が赤羽を見る。

「……私にも思うところがあるんです」

「……お前の言いたいことも分かる。お前が先輩を頼るなんて相当だろうからな。今回は仕方がないか。ふらっと出てしばらく戻ってこないなんて昔みたいだな」

「…………」

赤羽は火咲の表情で達真を睨んだ。

「で、怜悧。どうしたんだお前は」

「…………」

「怜悧?」

「矢尻さん……ご飯は?私と、怜悧の分……」

「お、おい、怜悧……?」

「ねえお父さん……今日は怜悧は一緒じゃないの……?」

「……お、お前……何を言ってるんだ……?」

「ビデオ……いつも送ってくれてるじゃない。今日は怜悧と何を話そうかな……?」

うつろな目で何もないところをまるでスプーンでスープを飲むかのような仕草を始めた怜悧の姿を見て甲斐と達真が目を合わせた。

「お、お姉ちゃん……?どうしたの……?」

「翼、紹介するね。この子は怜悧って言って私と同じ名前の子なの。ちょうど翼と同い年だったかな?」

「……お、お姉ちゃん……」

真っ青な顔で涙をこぼし始める翼。

「……しっかりしろよ、姉さん」

青い顔のまま正輝が怜悧の胸ぐらを掴む。怜悧がゆっくりとうつろな目で正輝を見る。

「っ!!!」

目が合った瞬間に正輝はトイレへと走った。

「わたし……わたし……」

せつなが声をこぼし、どこかへと走り去る。

「せつな様!!」

それをアリスが追いかける。

「怜悧……まだかな?」

「お姉ちゃん……っ!!うあああああああああん!!」

怜悧がまた無をスプーンで掬う横でついに翼が号泣を始めてしまった。

「…………おい、どうするんだこの地獄絵図」

「………………さあな」

達真の言葉に甲斐はため息をつくだけだった。


2016年赤羽家。

「そう。ヒディエンスマタライヤンが……」

ラストの仮説を聞いたメナージュがうなずく。

「おい、どういうことなんだよ」

「ライランドが言っていたでしょう?あのゲームの先にブランチはいない。根拠としてブランチ……その正体であるヒディエンスマタライヤンは非常に狡猾だからと。あのゲームに関わっていたかは分からないけどこうしてあなたが要監視対象である甲斐機関の人間に干渉したから行動を変えてきたのよ」

「あの甲斐機関の社長がお前の……で、3つに分かれた奴なんだな?」

「そうよ。甲斐機関社長の甲斐廉。少し前まではまだ学生だったからもう一人の方が社長代理を務めていたみたいね」

「もう一人って幼馴染みか?」

「ええ。あの子は天才だから、飛び級で大学を出ているみたいなのよ。どこで手に入れたかも分からないブラックカードとか言うもので会社を買収してね」

「……とんでもないな」

「……そんな子でも、世界を新たに作った代償は避けられなかったのよ」

「……どういうことだ?」

「以前天使について説明はしたわね。滅亡した世界の生き残りを回収して新たな世界が誕生するまでの間仮住まいの世界である天使界に住むようになった人間達」

「あ、ああ。正直そこら辺まだ把握はしてないが」

「あの子はね、天使界という小規模とは言え全く新しい世界が作られたその代償をその身に受けて普通の人間として死んだ後にパラドックスになったのよ」

「パラドックスって言うのはえっと31体いる奴だったよな。騎士の敵の」

「そうよ。その32番目になった。密かに一人で罰を受けたからまだ騎士達には認知されていないみたいね」

「……何でだ?何でその人が一人で罰を……」

「他にいなかったのよ。あの人の周りにいた人間は」

「……って事は、」

研護が今日会った3人を思い出す。

「赤羽美咲はパラドックスになったあの子に助けられて別の世界に渡るわ。馬場久遠寺は間に合わなかったけど」

「…………そうか。なら、あの小さい子は?怜悧って言ってたけど」

「あの子は天使界に渡ったの。そして最初の天使になる」

「……え、待てよ。3つに別れる社長、その嫁、娘、赤羽美咲、馬場久遠寺……この5人しか生き残らなかったのか!?」

「その内二人は亡くなるから実質3人ね。いずれも普通の人間ではなくなる。噂によれば、全員普通の人間で生きている奇跡の世界なんてものも存在するそうだけど、信じられないわね」

メナージュがアップルジュースを飲む。

(……もっと聞きたいけどこいつからしたら苦い話だろうな。自分含めて身の回りの人間全員不幸になったわけだし)

研護がペットボトルの茶を飲む。

「で、どうするんだ?ラストに監視させてるけどいくらあいつでもそのブランチには勝てないんだろ?」

「絶対無理ね。調停者として目覚める前のブランチならともかく、進化の終を司るディオガルギンディオのヒディエンスマタライヤンには騎士であっても無被害に倒すのはほぼ不可能よ」

「……けど、このままじゃこの世界がリセットされるんだろ?」

「ええ。ごくわずかな人間以外は全員死ぬわ。確かに2016年のリセットは確実ではない。けど、起きる世界の方が多いのよ。だから騎士達とかにうまく匿ってもらえればいいのだけれど」

「……けど、そしたらメナージュ・ゼロのお前はまた時空の闇とやらに幽閉されるか、完全消滅かの2択か」

「……私は別にいいのよ。あの二人の幸せを見届けることも出来ないって決まってるんだから」

「……そうやって諦めてるから進めないこともあるんじゃないのか?別にお前は何も悪くない。運が悪かっただけだ。なら、生きたいって願ってもいいんじゃないのか?」

「……そう簡単な話じゃないのよ」

「生きたいと願うことの何がいけないんだよ。……よし、分かった」

「何するつもり……?」

「甲斐機関の社長に会うんだよ。その社長が騎士なんだろ?俺の力で3人と言わずいくらでも増やしてやるぜ」

「あなた、何言ってるの……!?そんな事して何になるのよ……!?」

「世界のリセットやらなんやらでてんやわんやしてるって言うなら人員を増やしてやる。そして俺達を救ってもらうのさ」

「ま、待ちなさい……!あなた最近変よ。何でそんな、変に前向きなのよ!」

「お前が助けてくれたからだろ。今までの俺は自分が偽物だと思ってたから前向きになんてなれなかった。けど、今は違う。あの時お前が俺も本物なんだって教えてくれたから今度は俺がお前を助けたいんだ。それに、俺自身も世界のリセットなんてもので殺されるなんてまっぴらだからな」

「だ、だけど、騎士を増やすなんて事をしたら余計大変なことになるわよ!その歪みでパラドックスが強くなるかも知れない。そうなったらこの地球の運命は……」

「あーだこーだうるさい!!素直に生きたいって言え馬鹿!!」

「それが普通の手段じゃ出来ないからあーだこーだ言ってるんじゃない!」

向かい合い、つばを飛ばし合う二人。

「兄さん達がまた喧嘩してる」

「元気いっぱいだね-!いつ結婚するのかな?」

妹達が部屋に来てることにも気付かない二人。

「とにかく、あなたがあの人に接触するのは駄目よ。何をするのは分かったものじゃない。それに……実際今月だけ。今月の残り少ない時間だけしかもうあの二人に幸せの時間はないわ」

「リセットされるからか?」

「ええ。それに、あの二人はしばらくの間会えない。世界と引き換えにあの子の方は悪魔になって、あの人は騎士。次に会うのは……二人が戦う時だから」

「え、どういうことだよ!どうしてその二人が戦うんだよ!」

「言ったじゃない。あの子は、長山三咲ちゃんは天使界を作った代償として悪魔と言う存在になったのよ。ある意味私と同じメナージュ・ゼロよ。それにパラドクスになったって話もあるしね。あの人は……廉ちゃんは騎士だから次に三咲ちゃんと会ったら戦わなきゃいけないのよ……」

「……なんだよそれ……。せっかくお前が諦めたのに……そんな二人が幸せになれずに戦わなきゃいけないなんて……どんな運命なんだよ……」

「研護……」

「……俺には無作為に誰かを何かを増やして運命をバグらせることしか出来ないのかよ……!!所詮音終島の悪意だけを集めて出来た桜の木じゃそれが限界なのかよ……!!」

「……桜の木……それよ!」

「……え、」

「音終島と対を為す島……初音島に行きましょう。あそこには純粋な想いで奇跡を起こす枯れない桜の木があるわ。……きっと研護なら枯れない桜の木も奇跡で答えてくれるはず」

「……けど、いいのか?甲斐機関にすぐにいけなくなるぞ?」

「行かなくていいのよ。私とあの人達の縁はもう切れてるんだから」

「……お前も、何か吹っ切れたよな。この前から」

「あの二人とずっと一緒にいてくれるって約束してくれた人がいるもの」


夜が明けた。

「……朝か」

物置になっていた自分の部屋で目を覚ました甲斐。日本で朝を迎えるのは久々のことだった。

「……」

そして一人の部屋で目を覚ますのも久々だった。

「……妙な感覚だ。とっくにいなくなったのに眠りから覚めればあの二人が隣にいるんじゃないかって想ってしまう。こんな馬鹿だからせっかくの奇跡の世界でも仲間や家族を悲しませてばかりなんだ」

着替え、リビングへと向かう。

「あ、お館様。おはようございます!」

アリスが朝食の準備をしていた。

「おはよう、アリス。赤羽はどうした?」

「まだお休みになられています」

「そうか……あいつも相当やつれてるからな……。けどもっと問題なのは、」

「……皆さん大変お疲れのようです。でも、特に怜悧様が……」

「……そうだな」

「あの、お館様。怜悧様が言うその、怜悧って言うのは……怜悧様ご自身の事ですか?それとも……」

「……歌音のことだ。歌音には半年前まで甲斐怜悧の影武者であることは伝えていなかった。だから怜悧も歌音のことをずっと怜悧と呼んでいたんだ。たまたま同姓同名の別人だと想わせるように……」

「……と言うことは、」

「怜悧は歌音がいなくなったことを本当は受け入れられていない。幼児退行なのか記憶障害なのか分からないが、間違いなく精神的に厳しい状態になっている。今日にでも病院に連れて行こうと思っている」

「では、学校はお休みされるって事ですね。連絡しておきます」

「え、アリスがするのか?俺がやるよ。保護者だからな……失格かも知れないけど」

甲斐が家庭電話に向かおうとした時。

「……ううん。私が伝える」

せつなが現れた。しかも、

「せ、せつな様!?」

せつなは学校の制服を着ていた。入学以来一度も袖を通したことのない制服を。

「せつな……お前、」

「今は姉さんも正輝も厳しい状態だから……私にはこれくらいしか出来ない。半年前、私は家族じゃないんだってすごくつらい思いをした。でも姉さんも正輝も今苦しんでる。私は自分の苦しみよりも二人がこのままの方がずっとつらい。いやなんだ……だから、甲斐せつなとして黒主せつなとして歩き出そうと思う。まだ、知らない人は怖いけど」

「せつな様……!!」

「……すまない」

甲斐がせつなに歩み寄る。

「だからお父さん。本当のことを話して。私は一体何なの?」

「父さんの古い知り合いから預かった子供だ。厳密に言えばその知り合いの子ではないんだが」

「別の赤羽美咲って言ってた。どういうこと?」

「詳しくは言えない。父さんもよく分かっていない。でも、信頼できる人だ。あの赤羽も父さんの大事な弟子で後輩だから」

「…………よく分からないからまだお父さんのためには頑張れない。だから、私は姉さんと正輝のために頑張る」

「……それでいい」

甲斐はせつなの頭を少しだけ撫でてやった。わずかに目尻が熱くなるせつなだが、キッチンへと向かう。

「アリス、手伝うよ」

「は、はい!じゃあこちらをお願いします!」

仲睦まじく料理をするせつなとアリス。それを見て甲斐は少しだけ笑ってソファに座る。

(……さて、怜悧と正輝はどうしたものか)

「……せ、せつなさん!?」

やがて赤羽がやってきた。制服姿のせつなを見て驚きを隠せずにいる。

「美咲さん。おはようございます」

「お、おはようございます。あ、あの、どうして……」

「私、今日から学校に行きたいと思います。姉さんや正輝、それに美咲さんにも心配かけたくないから……」

「……せつなさん……」

「……赤羽、お前はもういいのか?」

「……正直私もまだ受け止められていません」

「……あの、お父さん。美咲さんは……」

「歌音の母親である馬場久遠寺は赤羽の親友だ」

「……」

「……あ、」

それだけでせつなもアリスも察してしまった。昨日既に馬場久遠寺という人物の最期に関しては聞いている。つまり、赤羽は親友の最期をその娘の最期でフラッシュバックしてしまったと言うことだろう。

「……あの、甲斐さん」

「何だ?」

「正直に答えてください。歌音さんは……歌音さんがしてしまったことは罪なのでしょうか?甲斐さんはどう思っているんですか……?」

赤羽からのまっすぐの視線。それは赤羽美咲でもあり、最上火咲でもあった。

「……俺達以外誰も知らないとは言え歌音は円谷学園で爆破テロを行った。犠牲者もたくさん出ている。しかも怜悧や正輝を騙して決行した。それは許されないことだろう。本来なら逮捕されて罪を償うべき事だ。だが、この件は他に誰も知らない。後から立証することも出来ない。自白した本人が亡くなっているんだからな。

だが、だからこそどう受け止めるかは俺達自身が決めることだと思う」

「どういうことですか?」

「許すも許さないもその死を受け入れてそれぞれ自分たち自身の心で折り合いを付けていかなきゃいけないことだ。ひどいことをしたのは事実だ。だから許さないと思うのも自由だし、当然だ。だが、許してやれるのももう当事者である俺達しかいないんだ……」

「…………」

赤羽はうつむき、涙を拭った。

「分かりました。私はまだ受け入れられないかも知れません。でも、彼女の孤独は分かっていたつもりです。その後悔も。だから、今はただご冥福を祈ります」

「……そうか」

「だから甲斐さんも、もうご自分を許してもいいんじゃないですか?」

「……」

「それは責任から逃げることになるかも知れません。でも、それが許されないことなんですか?あなたは今まで頑張ってきたじゃありませんか。今こうして子供達の傷を癒やしながらそのまま普通のご家庭に父親として戻られてはどうですか?怜悧さんも正輝さんも苦しいですが、あなただって何年もずっと苦しんでいるはずです……!」

「……よく考えておくよ」

少しだけ笑った。

「よし、せつなが美味しい料理を作ってくれてるからな。怜悧と正輝を呼ばなきゃな」

「私が呼んできます。正輝さんはお願いしていいですか?一応私も女性なので」

「ああ」

そう言って二人が廊下へと向かった。しかし、数分後。

「怜悧がいない!?」

リビング。甲斐、正輝、せつな、アリスが驚きの声を上げる。

「はい……それに制服と竹刀がなくなっているんです……」

「まさか学校に……!?正気に戻ったのか……!?」

「……姉さん……アリス、せつな。悪い。後でちゃんと食べるから俺もすぐ学校に行く!」

「あ、正輝!」

正輝が部屋へと急ぎ、すぐに制服に着替えてせつなと共に家を出て行った。

その後ろ姿に赤羽は少しだけまた涙を流した。


剣道場。

「……いい度胸だな、怜悧」

竹刀を握る小翠の前。同じように竹刀を握る怜悧がいた。

「……」

「言葉すら喋れなくなったお人形さんの分際で……俺に勝てると思ってるのか!?」

小翠が駆ける。一瞬で彼我の距離を埋めて暴力の一閃を振るう。

「っ!」

怜悧はギリギリでそれを受け止めて、しかし威力を抑えきれずに吹き飛ばされる。

「どうしたどうしたぁ!?守ってばかりなのかぁ!?どんなに鎧をまとおうが、心の弱さは守れねえんだよ!!!」

小翠の一撃が怜悧の竹刀を粉砕し、その体を何メートルも吹っ飛ばす。

「っ!!」

背中を強打し、転げ回る怜悧。しかし、その目は確かに小翠を真っ向から捉えていた。

「はっっ!!代わりの竹刀をさっさと用意しろ。いつまで持つのか、いつまで待たせるのか、俺に剣で答えやがれ!!!」

叫ぶ小翠。怜悧はすぐに近くにあった別の竹刀を手に取り、小翠へと向かっていった。

「いいじゃねえか!!所詮てめぇはてめぇ含めた誰かを守るための力なんざ向いてねえんだよ!むき出しの刃、触れるもの全てを切り裂く人殺しの力なんだよ!!守りなんざ捨てろ!心なんざ捨てろ!!全てを捨てて相手に、俺に立ち向かって来やがれ!!甲斐怜悧!!!」

小翠の一撃を受けて籠手が粉砕するが、怜悧もまた竹刀で小翠の肋骨を粉砕する。

「ぅぅぅぅぅぅっ!!」

面と面をぶつけ合い、互いの全力が相手の防具を破壊していく。

「っっっっ!!!!」

声なき絶叫の怜悧の一撃が小翠をぶっ飛ばし、腸をぶちまける。

「がはっ!!」

腹から鮮血を飛ばしながら小翠が激しく笑う。その姿は魔王以外の何物でもなかった。

「甲斐怜悧ぃぃぃぃぃぃぃ!!!」

「つ!!」

そして放たれた一撃を怜悧は防がなかった。

「!?」

威力の瞬間、小翠は竹刀を手放す。直後怜悧の体が何メートルも先のロッカーに突っ込んでいき、破壊する。

「……怜悧さん」

汗まみれだが冷静に戻った小翠が怜悧に歩み寄る。

「あなたは……」

その視線の先。血を流しながら、涙を流しながら声なく笑う怜悧の姿があった。

「……俺を誰かと間違えているようですね。……胸くそ悪いです」

小翠はその場で壊れた防具の全てを脱いだ。

「……犯す価値もない」

そしてそのまま更衣室へと去って行った。


保健室。正輝とせつなはそこに来た。

「来たか」

刀斗が先に来ていた。

「刀斗、姉さんは!?」

「いるぞ」

刀斗が一歩下がり、正輝とせつながベッドに急ぐ。そこには、

「………………」

虚空を見るだけの怜悧の姿があった。

「姉さん……どうして」

「俺が来た時には既にこうだった。どうやら誰も見えていないらしい」

「……そんな、」

正輝が手を伸ばそうとして渋る。代わりにせつなが怜悧の手を握る。

「姉さん……?」

「…………」

しかし、怜悧は答えない。代わりに、

「誰かは見えているようですよ」

そこへ小翠がやってきた。

「会長……!」

「正輝君。お加減はどうですか?」

「あ、はい。何とか……。それより姉さんは、何があったんですか!?」

「いつも通り俺と朝の稽古をしていました。何も喋らないので奇妙ではありましたが気迫がありましたので俺も全力で相手をしたのですが……どうも怜悧は俺以外の誰かを、その誰かしか見えていないようでして」

「え?」

「俺に倒されて非常に満足そうな顔をしていました。……今見るにまた夢の中に消えているようですけれど」

「……姉さん、」

「正輝君。怜悧はどうしたんですか?最近様子がおかしいように見えます」

「……知り合いが亡くなったんです」

「もしやバンドの……?」

「……はい。ちょっと込み入った事情があるんで詳しくは話せないんですけど……」

「……そうですか。なら俺の出る幕ではないですね。それでも何か手助けできることがあったら言ってください。正輝君もしばらく生徒会は不参加で大丈夫ですので」

「……すみません」

「……では、」

それだけ言って小翠は去って行った。

「……ところでそっちのは?」

刀斗がせつなを指さす。と、せつなが一瞬正輝の背後に隠れる。だが、

「く、黒主せつな……で、甲斐せつな。この二人の妹……」

「へえ、俺は絶乱刀斗。よろしくな」

刀斗が手を伸ばした。その時。

「はぁーあ。くだらない」

また別の声が聞こえ、同時に触手で刀斗が吹き飛ばされた。

「ぐばっ!!!」

「刀斗!!」

身構える正輝とせつな。正面。コンクリートの壁を粉砕して下半身触手の少女が現れた。

「な、何だこいつ!?」

「あら。正輝。妹に向かってどんなリアクションしてるのよ」

「い、妹!?」

「そうよ。私はルネ。ルネッサ=峰山。戸籍なんてものがあったら甲斐ルネなのか黒主ルネなのかは知らないけど」

「な、な、何なんだ!?」

「今言ったじゃない。私はあんた達の妹。末っ子。ゼノセスター」

「ぜ、ゼノセスター!?」

正輝とせつなは見る。その異形、一瞬ロボットかと思った。だが、明らかに生物的すぎた。完全に人間とは別種の生命体だと判別するしかない。

「あれ、でも美咲じゃない」

ルネがせつなを見て一気に近づく。

「ひっ!!」

「ふぅん。赤羽美咲の遺伝子に近いわね。黒主切名に近いけど微妙に違う?どちらにせよ、私達の遺伝子にあの女の遺伝子が混じってるのは気に食わないわ。犯してあげる」

ルネが触手をくねらせてせつなに迫る。

「や、やめろ化け物!!」

正輝がルネの前に立ちはだかる。

「化け物?……へえ、実の妹に向かって化け物って言うんだ?」

「俺はお前なんて知らない!俺の妹はせつなだけだ!」

「でもそっちとは血、繋がってないじゃない。私とは繋がってるのに」

「は、はぁ!?」

混乱する正輝。確かに何故かデジャブのようなものを感じるがそれ以上に何より異形への生理的嫌悪感が強い。「まあいいわ。奇跡の世界とやらの兄妹の顔を見ておきたかったんだけど怜悧も正輝も美咲もみーんな、退屈。何でこんなふざけた世界が奇跡なんて呼ばれてるのかしら。ん?」

「そこまでだ!ゼノセスター!!」

今度は雷歌がやってきた。

「雷歌!」

「あら、雑用天使まで来たの?奇跡って言うのは随分と肥だめみたいなくだらないものなのね」

「お前、どうしてこの世界にいる!?」

「知らなかったの?ゼノセスターは単体でなら時空の壁を無視できるの。お母様に言われて別次元の兄妹の顔を見に来たのよ。そしたらこの体たらく。全くくだらないわ。どうしてお父様はこんな世界に落ちてしまったのかしら」

「お前には関係ない話だ。さっさと元の世界に帰れ」

「いやよ。何で天使ごときの命令を聞かないといけないのよ。言っておくけど私、あんた達のことだいっっっっっっっっっっっきらいなんだからね!!!」

振るわれた触手が壁を粉砕する。

「くっ、第七階級の化けものめ……」

「へえ、あんたも私を化け物呼ばわりするんだ。……バラバラにしてやるんだから」

ルネが触手を雷歌へと向ける。その時。

「っ!?」

突然後ろから怜悧がルネの首を絞める。

「あら怜悧。いきなりご挨拶ね。喋れもしないお人形さんのお姉ちゃん?」

「…………」

全体重と腕力をかけて怜悧がルネの首をへし折りに掛かる。対してルネも触手の一本を怜悧の腰に巻き付けて一気に締め付ける。

「……っっ!!」

「悲鳴くらい上げたらどう?そうしたら貫通させてあげる。アドバンスなんて世界を滅ぼしたお馬鹿よりもっといい子供を孕ませてあげるわ。このゼノセスターの子供をね!!」

内臓どころか背骨まで粉砕されそうに変形していく怜悧の腰。ルネの首に掛かる怜悧の握力もかなりのものだ。少なくともルネの上半身から来る背格好の近い少女なら間違いなく死んでいるだろう。

「やめろ怜悧!ゼノセスターに生身の人間じゃ勝ち目がない!何より、姉妹で殺し合うな!!」

雷歌が手を伸ばした時。

「何の音ですか!?」

そこへ小翠がやってきた。その顔を見たルネが突然触手を止めた。

「こ、こ、こ、心美小恋瀬小津帆小長瀬小翠ぃぃぃぃぃぃ!?」

「え、何か長い」

「いやああ!!あいつ!あいつだけはいやなのぉぉぉ!!」

ルネは怜悧を投げ飛ばすと、すぐさまどこかへと走り去っていった。

「……今のは、何ですか?」

「い、いや、俺にも……」

小翠が正輝に問う。

ただ二人の視線が怜悧へと注がれる。

「姉さん……?」

「…………」

やがて、怜悧は再び倒れた。

「っと!!」

頭を打つ直前ギリギリで小翠が受け止める。

「会長、姉さんは……?」

「気を失っているだけです。……尤も、今日はずっと似たようなものでしたが」

「……」

「馬場歌音寺さんでしたか?俺も少しだけ会ったことがあります」

「……」

「明るそうな人でしたね」

「……ええ。でも、俺達にも姉さんにも言えない何かを秘めていた。それを俺達は……探ることしか出来なかった……!!」

「黒主正輝……」

刀斗の前で正輝は崩れ落ちそうに震え出す。せつなはそれを見てその肩に手を触れそうになり、引っ込める。「……俺も詳しい事情までは分かりません。ですが、」

小翠が正輝の肩に手を置く。

「っ!!」

「苦しい時には苦しいと言うのが勇気という名の強さです。誰にも弱さを見せないのが強さではありません。この怜悧のように……」

小翠が正輝の手を引き、気を失ったままの怜悧の肩に乗せた。そして……


「俺、余計なことをしてしまったでしょうか?」

数時間後の保健室。突貫工事で壁を塞いだそこのベッドで正輝と怜悧が眠っている。

「……いえ、」

せつな、刀斗が正輝の吐瀉物などの掃除をしていた。

「今、兄は……正輝は女の子を意識できません。彼女を目の前で失ってしまったから……」

「…………そうですか」

小翠は自分の手を見て目を伏せる。

「それにしてもさっきの化け物みたいな女の子は何でしょうか?」

「わ、私も知りません……。何か私達の妹みたいなこと言ってましたけど……」

「少ししか見えませんでしたが、何か下半身が……」

「はい……イカとかタコみたいに……」

「怜悧を強く縛っていたように見えますからただのコスプレとかではないようですが……」

そこで小翠の視線が雷歌へと。

「そもそもあなたは?」

「俺は甲斐機関の人間だ」

「甲斐機関……そうですか」

「あの、会長は私達のことを……?」

「……直接聞いたことはありませんが、怜悧からそれとなく察する要素はありました。そもそも同姓同名でしたしね」

「……ま、まあ、確かに姉さん隠してませんからね」

「……それで、甲斐機関はさっきの少女については?本当に甲斐廉の娘なんですか?」

「あれは甲斐廉の娘ではない」

「え、」

「あれは黒主零の娘だ」

「……くろすぜろ?誰ですか?」

「あの男の別世界での名前だ。それ以上は部外者がいる間は話せない」

雷歌の目が小翠と刀斗を見ている。

「……別世界、もしかしてたまに結羽やあなたが私を美咲って呼ぶのは……」

「お前の別世界での名前は黒主美咲だ。俺も黒主美咲としてのお前はよく知ってる。甲斐せつなは初めてだ」

「……黒主美咲……」

「……何だかよく分からない話ですね。変な事情に巻き込まれるのも嫌ですのでいったん口を慎みますか」

「……ん、」

そこで雷歌がスマホを見た。

「甲斐廉からだ。娘達を回収したいとの事だ。俺が正輝を運ぶ。誰か怜悧を運んでくれ」

「……やってみる」

せつなが怜悧を起こして何とか歩かせる。体格が違う上運動不足であるせつなでは少しきつい。

小翠は手を貸そうとしたが、同じように手を貸そうとしていた刀斗を制して立ち止まった。

「俺達部外者はいない方がいいでしょう」

「……それもそうですかね」

「……悪いな」

雷歌は正輝を米俵のように肩に担ぐと、怜悧を持ち上げる。

「あ、」

「せつなはドアを開けたりしてくれ。駐車場まででいい」

「……うん、分かった」

「……それと、」

「え?」

「……そこの心美小翠じゃないが、お前がこうして学校に来たこと。その勇気は間違いなくこいつら二人にとってプラスだ。こんな時でもなければ喜んでいただろう。……そこは勘違いするな」

「……うん、ありがとう」


夜。黒主家。

「……はあ、」

甲斐がリビングでため息をつく。精神科の医師を呼んで怜悧とついでに正輝も診てもらおうとしたが結局二人とも目を覚まさなかった。一応正輝の方だけは口頭での問診をした結果やはりPTSDとなっている可能性が高いとのことだった。

「お疲れ様です」

そこへ結羽がやってきて麦茶を差し出した。

「すまない。……子供達は?」

「怜悧さんと正輝さんは変わらず。せつなさんは既にお休みになられました。お疲れのようでしたので……」

「無理もない。久々の学校な上に怜悧と正輝がこれだからな。本当はもう少し休んでてもいいんだが、」

「せつなさんは自分に出来ることをやりたいそうなので」

「ああ、分かってる。……にしてもどうにかならないものか」

再びため息。

「……そう言えば今日矢尻は?」

「矢尻さんは娘さんを看ています」

「翼ちゃんを?何かあったのか?」

「それが昨日の件をやはり気に病んでいるようで……」

「……あー、」

思い出す。幻覚が見えているかのような怜悧の姿を目の当たりにして号泣していた。しかも確か翼はサイボーグ状態の歌音から攻撃を受けて一度正輝の前で心肺停止している。責任を感じているところもあるのだろう。

「……困ったものだな」

「……私は今までいろいろな世界を見てきました」

結羽が語る。甲斐は視線を向けた。

「魔法とか世界の命運とか。そう言うSFな世界が多かった。けど、それがほとんどないこの世界が私は一番心が苦しいです……。こんな、こんな正輝さんは初めてで……」

「……何が間違ってたんだろうな」

甲斐が天井を見上げた。






怜悧、これでいいんだよね?私、正輝達を守ってる。

怜悧、これでいいんだよね?私、小翠と戦って、剣道部最後の大会に出るんだよ。

怜悧、怜悧?どうしてそんな顔をしているの?怜悧、いつもみたいに笑って。

だって、怜悧がいけないんだよ?正輝や翼を悲しませたから……せつなに手を出そうとしたから。

でも、怜悧は私と違っていつも正しい。だからもしかしたら私がやったことは、やろうとしたことはいつも間違ってるのかな……?だから正輝があんなに……ねえ、怜悧。答えてよ。私と怜悧、どっちが正しいの?

私も怜悧もよかれと思った事をしてどうしてこんなに悲しいのかな?ねえ、怜悧?


「ここよ」

メナージュが潮騒の風を浴びながら指を指した。船で揺られながら研護が視線を向ければその先に大きな桜の木が見えた。

「10月なのに桜が咲いている……!?」

「初音島の枯れない桜の木。魔法で生み出された願望器のようなもの。最初はこれを作った魔法使いが自分の孫を支えるためのものだったけど、やがて人々の純粋な願いに反応してどんなことでも叶えてしまう呪いの道具となってしまった」

「何でだ?」

「純粋な願いならどんな願いでも叶えてしまうからよ。結局その孫娘の手で一度は枯らされてしまった。けどそれからも北欧から来た少女や、孫娘の手で何度も復活を果たしている。制御できるなら、と」

「制御できているのか?」

「厳しい話ね」

「……そんなものに俺達は今から世界の破滅を防ぐよう願いに行くのか」

まだいまいち現実味がない。自分自身や妹達すらその手の魔法で増やしているにも関わらずに。

「けど、大丈夫なのか?地球の命運すらどうにか出来るのか?その魔法の力は」

「……難しい話ね。枯れない桜の木の魔法が、本当に魔法によって為されているものなら可能性はあるわ。けど、音終島のようなその血に根差した力だった場合ヒディエンスマタライヤンが手を加えていないとも限らない。ヒディエンスマタライヤンは地球に根付いている。その上で今は地球の管理人がいない状態だから、ヒディエンスマタライヤンが好き勝手出来るのよ」

「なんだよ地球の管理人って」

「ザ・プラネットよ。いろいろな星に存在する管理人で、その星を管理している存在。星に籠もっての防衛戦なら騎士やパラドクス相手でも互角以上に渡り合える。けど今地球にはいないのよ」

「……つまりその枯れない桜の木で願いを叶えるのが地球の管理人の役割だったらそれは今ブランチが握ってるからブランチが起こそうとしている地球のリセットを防ぐって願いはそりゃ叶えられないって事だな」

「ええ。そう言ってるじゃない」

「わかりにくいんだよ、専門用語が多い上にスケールが段違いだから」

「そう。覚えておくわ」

「……ったく。……そろそろ港に着く頃か」

研護が降りる準備をしていると、視線の先にどうにも見過ごせないものがあった。

「……」

音終島。既に人の住んでいない水没した人工島。かつて自分が生まれた場所。

(……まさかまた見ることになるとはな)

やがて、船が港に着き、研護とメナージュが降りる。

「で、向かうのは枯れない桜の木か?」

「ええ。ここから結構歩くことになるわ」

「マジかよ」

それから二人が歩くこと数時間。詳しい位置はメナージュも把握していなかったためかなり迷った結果既に夕暮れとなっていた。

「ったくどれだけ時間が掛かったんだよ全く」

「仕方がないじゃない。地図持ってないんだから」

「……ん、誰かいる」

汗だくになって歩く研護。その視線の先に少年一人と少女二人がいた。

「驚いた。おばあちゃんが言ってたことはホントだったんだ」

アッシュブロンドの髪をした少女が告げる。

「別の世界から魔法使いが来るなんて、おとぎ話の中だけだと思ってたよ」

「……何の話をしているんだ?」

「……まずいわ」

「え?」

隣を見ればメナージュが顔色を変えていた。

「どうした?」

「あれは世界が忘れた少女……もうひとりのメナージュ・ゼロ……私が会うわけは行かないわ。それに、2016年にどうして……?まさか時間をいじられた……!?」

「お、おい、メナージュ?」

「撤退よ。あの桜の木に魔力は感じられない」

「は?」

急ぎ足でメナージュが撤退を始めた。研護は訳が分からないまま踵を返し、

「すぐ忘れちゃうと思うけど、一応名乗っておくね」

後ろ、大きな桜の木を背に少女が語る。

「あたしは、アイシア。よろしく」

(……あれ?普通に名乗ってる?メナージュ・ゼロって本名名乗れないんじゃなかったのか?)

「どうしたの研護?」

「いや、あの子。普通に名乗ってるけど……」

「ああ、あの子はいいのよ。意味がないから」

「意味がない?」

「あの子は世界が忘れた少女。あの子が何をやっても世界側があの子の言動を記録しない。そうすることで辻褄を合わせているのよ。あなたが私の本名を知っているようにあの子に関しても強い魔力の持ち主ならきっとあの子のことを覚えていられるわ」

「……あの子とは知り合いなのか?」

「いいえ。私が一方的に知っているだけ。……先を急ぎましょう。帰りの船がなくなるわ」

急ぎ足のメナージュ。研護も後を追いかける。しかし、

「……困ったわね」

港。既に最終便は発った後だった。

「お、おい、高校生にホテルとか泊まる金ないぞ……?」

「そうね。私も持っていないわ」

「……てか一応俺未成年でお前成人してるわけだから俺に何かあったらお前が逮捕されるぞ……?」

「それは困ったわね」

「……そうだ。魔法で何とかならないのか?」

「難しいわね。この前のラストとの戦いで私は無理矢理ナイトメアカードを使った。あの分の消耗がまだ回復できていない。今無理に魔法を使ったらどうなるか分からないわ」

「……マジかよ」

研護がうなだれて何度も船の予定を見るがもちろんその日の便は既になかった。

「はぁ、どうしようか」

「何だ?乗り遅れか?」

声。二人が振り向けば漁師らしい男がいた。

「え?あ、はい」

「そうかそうか。なら俺の家に泊まるか?」

「え、いいんですか!?」

「もちろんだ。港町に住んでたらこう言うのはよくあることだ。気にすんな」

「あ、ありがとうございます!!俺、赤羽研護って言います!!」

「長倉大悟だ。よろしく」

「長倉大悟……!?」

メナージュが小さく驚きの声を上げた。

「そっちのはお姉さんか?」

「えっと、みたいなものです」

「今日は妻がいないんだがまあ、一晩くらいなら大丈夫か。OK。一緒に来てくれ」

大悟がトラックに二人を案内する。そのトラックで揺られている間。

「おい、この人がどうかしたのか?」

小声でメナージュに問うた。

「……長倉大悟は矛盾の安寧の主よ」

「矛盾の安寧?今度は何なんだよ」

「昔、幼馴染みの女の子が死んだ時に音終島の桜の木に願ったことで世界は分岐した。彼女が死ななかった世界と死んでしまったままの世界に。この死ななかったイフの世界を矛盾の安寧と呼ぶのよ。分岐したイフの世界だからこそその世界で時間が進むごとに本来の世界は大きく歪んでいく。でもそれを知った長倉大悟は現実と向き合って元の世界を選び直したのよ」

「……またすごい話を突然するなお前は」

「……世界の裏側ではそこそこ有名人なのよ」

「けど、その話が本当なら妙なもんだな。ある意味では俺達も今から世界を分岐させるかも知れないのに」

「……」

メナージュは答えなかった。

やがて、トラックは一軒家に到着する。

「ここだ。まあ、一晩は好きにしてくれ」

「ありがとうございます!」

大悟が部屋を案内する。と、

「あれ、お父さん。お客さん?」

一人の少女が出てきた。年齢は研護よりやや年下の中学生くらいだろう。

「ああ。最終便に間に合わなかったらしい」

「そうなんだ。あ、私は長倉光って言います」

「赤羽研護です」

「……メナージュ・ゼロよ」

「めな……?」

「気にしないで」

「は、はい」

「メナージュさん。部屋が少ないから申し訳ないけど娘と同じ部屋で今日は過ごしてくれないか?妻の部屋もあるけど流石に勝手には使えないから」

「ええ。ありがとうございます」

「あ、案内しますね」

光がメナージュの手を引いて自分の部屋へと向かう。

「長倉さんは漁師なんですか?」

残った研護が大悟に訪ねる。

「ああ。元々は隣、音終島で生まれ育ったんだけど水没して住めない環境になったからな。そう言う人達用にこの初音島で漁師になるキャンペーンがあって。もう10年くらいやってるが中々いいもんだぞ、漁師」

「は、はあ……」

「で、研護君はどうして初音島に?」

「俺も実は音終島で生まれたんです。でも、沈んだって聞いたんでこの初音島に……」

「そうか。正直あの島にいい思い出はないけど、それでも故郷がなくなるのは嫌だもんな」

「……そうですね」

「……よし、暗い話はなしだ。これから夕食を作るから待っててくれ」

「あ、はい。ありがとうございます!!」

台所に行く大悟。

(……しかし、この少年。あのファンタズマ……カシワギサヨコと同じような気配を感じるんだがどういうことだ?)

一瞬だけ振り返り、研護の様子を窺った。


朝焼け前。まだ瑠璃色が空を支配する朝早く。

「……」

制服姿の怜悧が玄関へと移動する。

「……」

玄関には竹刀袋がある。しかし中の竹刀は折れたままだ。

それを怜悧は持たずに靴を履こうとした時。

「どこへ行くつもりだ?」

声。振り向かずとも分かる。父親の声だ。

「……」

「怜悧。お前は自分が何をしているか分かっているのか?別に悪いことをしているわけじゃないし、咎めようとしているわけでもない。確実にお前の身に何か起きているのは誰も疑っていない。誰もお前が演技をしているなんて思っていない。むしろちゃんと、」

言葉は終わった。怜悧が折れたままの竹刀を甲斐に向けていた。

「……っっ!!」

その表情、目の色を甲斐は知らない。悔恨とも絶望とも憎悪とも違う。だが、行動の意味は分かっている。

「怜悧。今日はちゃんと休むんだ。一緒に病院に行こう。昨日のうちに連絡を取ったからお母さんも今日中には来る。また家族みんなで暮らそう。だから今は……」

「……じゃ……な、い」

「怜悧……?」

甲斐の前。必死に言葉と声を絞り出す怜悧の表情。

「みんな……じゃない……れいり……れいりが……れいりは……れいりは……」

「怜悧……」

「れいり……こえが、きこえないよ……れいり……れいり……れいり……」

「もういい、もういいんだ!!」

怜悧を抱きしめる甲斐。

「もういいんだよ……怜悧。お父さんが間違ってた……ごめん。ごめんよ、怜悧……」

「……れいり……ちがうよ、れいり……いないよ……れいり……」

怜悧はただうつろな目で必死に竹刀を握りしめていた。


リビング。朝が来て正輝が目を覚まし、そこへやってくるとやはり空気は重かった。

「あ、正輝様」

「アリス……おはよう」

いつもより数歩下がった距離でアリスが笑顔を見せる。

「正輝」

キッチンの方からせつなもやってきた。

「せつな……今日も学校に行くのか……?」

「結局昨日あまり授業受けられなかったから……でも、」

せつなの視線はソファの方に。そこには怜悧が座っていた。今でもまだ折れた竹刀を握ったまま、どこでもない場所を眺めている。

「……姉さん」

正輝が歩み寄ろうとしたところで雷歌がそれを止めた。

「雷歌、」

「掃除の手間をかけさせるな」

「……っ、」

正輝は少しの間、壊れた姉を見て自席に戻った。そして少し離れたところで電話をしている父の姿を見る。

「……まだいたのか」

「……流石に家族がこうなってるんだもの。仕事を優先なんて出来ないでしょ」

せつなが正輝にホットコーヒーを渡す。

「……悪い。ところで、美咲さんは?」

「矢尻家の方に行っていますよ」

「矢尻家?師匠のところに?どうして……」

「ここはお館様がいますから。それに今翼様も……」

「翼がどうかしたのか?」

「…………その、」

言い淀むアリス。正輝が近づこうとしてその足を止める。

「……くっ!」

動かない自分の足を小突く。しかし震えるばかりだ。

「……翼は少し責任を感じてるらしいの」

せつなが兄の背中に話す。

「自分が原因なんじゃないかって」

「そんな、翼が何をしたって言うんだ……」

「お前の前で一度死んだだろう」

雷歌の声に正輝の脳裏でまた蘇る記憶。

「……くっ!!」

必死に嘔吐を堪え、頭を振る。

「雷歌……俺達はどうしたらいいんだ……?」

「乗り越えることだ。何か別なことでも考えて、そうすれば時間がやがて今の全てを過去にしてくれる」

「そんな無責任な……!!」

「責任を追及した結果、家族をこんな目に遭わせた男を俺は知っているぞ?」

雷歌の視線は一瞬だけ甲斐の方へ。正輝はそれを追いかける必要もなかった。

「……どこに連絡をしているんだ?」

「精神病院だ。一度怜悧を医者に診せてこれからどうするのかを決める。今の怜悧はもはや正気じゃない。一般人の手には負えないからな」

「……けど……!」

正輝が拳を握りしめ、怜悧の傍に寄る。

「そうやって逃げるのかよ!!歌音を殺した事から……!!!」

「正輝……」

「おい、やめろ」

「姉さん!!そうやって現実から目を背けて……あいつが浮かばれるのかよ!!姉さんの代わりに今まで生きてて、そして死んだあいつを姉さんが覚えてやらなくてどうするんだよ!」

勢いのままに怜悧の肩を掴む。

「好き放題に俺を殴って蹴って投げ飛ばして、多分歌音にも同じ事をしたんだろ!?そんなあんたが何でそうやって被害者みたいな顔をしてるんだよ!!甲斐廉の娘である甲斐怜悧はそう言うのが嫌いだから本名を名乗り続けてきたんじゃないのかよ!」

「正輝……」

せつな達を背に、嗚咽と胃液をこぼしながら正輝は噛み付くように怜悧を睨み、迫る。

「俺は逃げない……あいつを助けてやれなかった俺自身の責任と、あいつを殺した姉さんへの憎しみから、絶対に逃げない……!この苦しみを絶対に忘れてなんてやるものか……過去になんて変えてやるものかよ!!」

襟首を掴みあげ、その虚無の目を睨んで叫ぶ。

と、

「……そう。正輝が覚えてるならそれでいいや」

「え……」

怜悧の口から弱々しい言葉が漏れた。

「……姉さん……」

「あーもういいや」

怜悧は折れた竹刀の柄尻で正輝を突き飛ばすと、まっすぐリビングを去った。

「……え?」

倒れ、仰天する正輝の顔面に折れた竹刀が落ちてきた。


学校。正輝とせつなが遠巻きに3年生の教室を眺める。視線の先には怜悧がいる。まだどこか元気がなさそうに見えるが、普通にクラスメイト達と接しているように見える。

「……姉さん何があったんだよ」

「分からないけど、正輝の言ったことに何か関係があるんじゃないの?」

「え、あれで?」

ドアに隠れながらコソコソ話をしていると、

「お二人さん」

「「!?」」

声がしたので振り向くとそこには男子制服姿の美少女が立っていた。即ち小翠である。

「か、会長……」

「怜悧が気になるんですか?」

「そ、それはもちろん……」

「確かに今日の怜悧は昨日までの怜悧ともまた違ってどこかおかしいように見えます。俺にもそう見えるんですからご兄妹にはもっと不自然に見えるのでしょう」

「……」

小翠の言葉にせつなが目を伏せる。

「剣道の稽古も普通通りにやっていました。でも、まだ昨日の怜悧の方が強かった」

「どういうことですか?」

「気をつけてください。今の怜悧はもしかしたら昨日までより危ういかも知れません」

「……昨日までよりも……?」

二人は話しかけることすら出来ずにただ怜悧の姿を見ているだけだった。




それはどこまでも続く暗い闇の水平線。黒の波の代わりに全ての曇天が揺れる天地無用の修羅場。

体に感覚はなく、目から見える暗黒の景色に神経と血管が萎縮する。ならばこれは悪夢という奴だろう。

「悪夢の明晰夢……最悪な奴だな」

自分自身の声で研護は目を覚ました。

見慣れない天井を見て経緯を思い出す。

「……大悟さんはいないか」

隣の布団を見る。既にこの家の主人は海に出たらしい。

「……このままだと大悟さんに何も言えないままこの島を出ることになるな。それは何とか避けたいけど、」

起き上がり、着替えてリビングに向かう。

「ってか泊まっちゃったじゃんか。一応父さんには言っといたけど仕事大丈夫か……?」

豆腐を作らない朝は思い出せないくらい久しぶりだ。時計を見れば朝はまだ5時半程度。いつもよりは遅いがそれでも普通の生活をしている人間からすればかなり早いだろう。

「しかも初対面の相手の人間の家。どうしたらいいんだ?」

日を跨ぐことになるとは思わずゲームの類いも持ってきていない。最近姿を見ないあの相棒に妙な遠慮が生まれる。

寝直すにしても完全に目が覚めてしまっている。

「……散歩にでも出かけるか」

鍵は持っていない。なので仕方なく庭から外に出ることにした。

「……初音島か」

まだ朝日が昇ったばかりの島を研護は一人で歩く。水平線の先にはやはり音終島の姿がある。

恐らく音終島を歩いていたとしても向こうから初音島は見えていたのだろう。

「……音終島か」

自分の生まれた場所というよりメナージュが長年封印されていた場所という認識が強い。

(……そう言えば大悟さん、世界をどうにかしたとかメナージュが言っていたな。俺に増やす魔法があるように大悟さんにも何か魔法があるのか?こんな不思議な力を持って大悟さんはどうしたんだろう……?)

いろいろ考えながら歩いていると、

「あ、」

港に一人の少女がいた。どこかで見た気がするが、思い出せない。

「ん……わ、珍しい。こんな時間に男の子がいる」

「え、あ、」

少女のルビーのような目がまっすぐ自分を見た。

「う~ん、幽霊じゃないよね?」

「えっと、その、」

「あ、ごめんね!話しかけちゃって。あたしは、船が来るのを待ってるんだ」

「船って……」

まだ朝は早い。この時間に動く船があるとしたら漁船だろう。当然この少女がそれを待っているとは思えない。だから本島か外国に行く旅船を待っているという意味だろうが、流石に時間が早すぎる。

「あ、もちろんまだまだだって知ってるよ?でも、行く場所がなくって」

「行く場所……?もしかして昨日のに間に合わなかったとか?」

「みたいな感じかな。それより君はどうしたの?いくら初音島でもまだクリパの時期じゃないから補導されちゃうよ?」

「クリパ?」

「あれ?この島の子じゃないの?」

「……生まれは音終島なんですけど。今回はちょっとだけ旅行に」

「そうなんだ。じゃあ君も船を待ってるんだね」

歩み寄ってきた少女。中学生くらいに見える。しかしその雰囲気にはどこか大人な感じも混じっていた。

(何だこの子……まるでメナージュと一緒にいるみたいな感じがする……。それに、以前どこかで会ったような気がするのに全く思い出せない……)

「あの、どこかで会ったことありますか?」

そう問うと、少女は一瞬だけどこか悲しい表情をしてから、

「ううん。ないよ」

笑ってそう答えた。


やがて、朝日が昇り少し。

研護が大悟の家に戻ってくる。

「あら、どこに行っていたの?」

メナージュが起きて朝食のトースターを食べていた。

「散歩にな。それで……えっと、何だっけ?」

「どうしたの?寝ぼけているのかしら?」

「いや、誰かに会ったような……」

「…………そう。何でもいいわ。光ちゃんに聞いたところ最初の便は後1時間後よ。光ちゃんは学校に行ったし長倉大悟は仕事。どちらも気にせずに帰って構わないそうよ」

「……そうか。じゃあ仕方がないけどこのまま帰るとするか」

研護は財布の中身を全て複製してテーブルの上に置く。

「これでいいだろう」

「…………研護、一応言っておくわ」

「何だ?」

「あなたのその力、もう使わない方がいい」

「どういうことだ?」

「私と会った頃のあなたならまだ彼女のことを数日は覚えていられたはず。その程度の魔力はあった。けど、今のあなたは一般人と大差ない。あなたのその力は回復しない力よ」

「……もし、限界まで使ったらどうなる?」

「あなたの存在は摩耗し、その果てに消滅するわ」

「……そうか」

「冷静ね」

「まあ世界の消滅がどうとか言われた後ならな。どっちにせよ変わらないなって」

「ならどうするのかしら」

「……」

「結果が変わらないかも知れない。それであなたは諦めるのかしら」

「……最後まで望みは捨てない。……なんて格好いいこと言えない。ただ、何かはし続けていたい」

「……勝手な答えね」

「俺は一般人だからな」

研護はメナージュの皿からトースターを一枚奪って口に放り込んだ。


それから数時間ほどして研護達はようやく見慣れた風景へと帰ってきた。

成果はない。ただ大悟への悔いを残したままの帰還。

「そう言えばラストはどうしたんだ?」

「まだ甲斐機関にいるわ。ヒディエンスマタライヤンが廉ちゃんをどうするか分からないもの」

「廉ちゃんね。……会うわけにはいかないんだよな?」

「ええ。迷惑はかけられないわ」

「……そうか。……じゃあ、やることは1つだな」

そう言って帰宅してから研護はラストパラダイスのゲームを起動した。

「何してるのかしら」

「いや、クリアしていないゲームを放置したまま世界滅亡なんて嫌だからな」

「……そのゲームは危険よ。間違いなく裏世界の手が加わっている。私ももう好き勝手するほど魔力は回復していないわ」

「それでもいいだろ。ただ、二人でゲームしようぜ。あそこでならお前を本名で呼べるんだから」

「……それが目的?」

しかしメナージュの目は笑っていた。


・最初の景色は今でも覚えている。もう炎の中に消えたあの立派な本社ビルのソファでうたた寝をしていた時の話だ。

「怜悧ちゃん、おねむかな?」

高校生くらいの少女の膝の上で眠たい目を上下させる様は幼きお姫様と言ったところか。

「ねえ死神さん。キーちゃん」

「そうだな、久遠。怜悧も最近一人で歩けるようになって嬉しいんだろうな」

「久遠ちゃんが面倒見てくれてるから安心だよね」

少し離れて仕事をする両親。多忙の隙間に我が子を見る顔はまさに幸せと言った表情だ。

「甲斐さん、キーちゃんさん。お荷物が届きました」

そこへやってくる別の少女。

「ありがとう、火咲ちゃん」

「甲斐さん?私はもう赤羽美咲ですよ?」

「あ、そうだったな……まだ慣れないな」

「僕としては最初から赤羽ちゃんだったから逆にその火咲ちゃんってのが慣れないんだけど?」

「久遠ちゃんもちょっとまだ慣れないかな。火咲ちゃんが美咲ちゃんになったなんて」

「戻っただけです。私としてはやはりこっちの方が……。あ、怜悧ちゃん。おねむですか?」

「みたいだな。まあ、ちょっと起きてる感じか?」

「久遠。起こしちゃ駄目ですよ?」

「分かってるって。ふふ、久遠ちゃんのお膝の上でウトウトしちゃって。ホント可愛いよね」

「怜悧ちゃんはやっぱり将来甲斐機関の社長さんになるんでしょうか?」

「まあ、怜悧がそれを望むならいいと思う。でも、」

「僕達は怜悧がやりたいことをやってくれればいいと思ってるんだ。それに、」

キーちゃんは少し大きくなった腹部をさする。

「この子ともよく相談してやりたいことをやって欲しいんだ」

「そろそろ三ヶ月ですね、正輝君」

「うん。怜悧もお姉ちゃんになるんだね」

「だってさ。怜悧ちゃん」

久遠に撫でられた幼い怜悧はついに目を閉じて眠りの世界に旅立つ。

それを見守る4人の笑顔。それが甲斐怜悧の最初にして一番幸せな記憶。

やがて。


「偽物の家族を用意する!?」

「そうだ。もうそれしか方法がない」

「あ、杏奈さんを妻役にしてまでですか!?キーちゃんはそれでいいんですか!?」

「僕は……廉君を止められないよ。本当は家族でずっと一緒に暮らしたい。でも、お義父さん達みたいなことはもう……」

「……じゃ、じゃあ、子供はどうするんですか!?怜悧ちゃんは!?正輝君は!?」

「怜悧はともかく正輝はまだ公表されていない。どこかから適当に孤児を拾ってくるさ」

「で、でも……」

「赤羽。怜悧や正輝を頼む。キーちゃんも顔が知られているんだ。一緒には暮らせない」

「……そんな……」

「……」

「久遠?どうした?」

「ううん。何でもない」


夜。

「久遠、お前自分が何を言ってるのか分かってるのか……!?」

「分かってるよ。この前の怪我で久遠ちゃんはもう永くない。死神さんと杏奈ちゃんは好き合ってるわけじゃないでしょ?でも、久遠ちゃんとなら……影武者の子供を作れる。大丈夫だよ。赤ちゃん産まれるまではなんとしてでも生きてみせるから」

「そんな……俺はお前をそんな目で見た覚えはない!捨て駒になんてそんな……!!」

「久遠ちゃんは……私は、死神さんのこと好きだよ?まだ16歳だけど、それでも、生きた証が欲しいんだ。最後に死神さんの役に立ちたいんだ」

「久遠……」

「この役目は杏奈ちゃんにも美咲ちゃんにも出来ない。あの二人には遠慮があるから。だから、私がやるんだ。死神さんなら生まれた子供のことを私と同じように優しくしてくれるって分かってるから。だからね、久遠ちゃんと最初で最後のえっち、しよ?」


数ヶ月後。

「……本当に生まれてきてくれたんだね」

ベッドの上で久遠は我が子を抱きしめた。それを見つめるものは甲斐と赤羽と杏奈だけ。

「久遠……」

「もう……美咲ちゃん。そんな泣かないで……ね?」

「でも……でも、でも……!!」

「杏奈ちゃん……この子のことお願いね……」

「久遠ちゃん……本当にごめんなさい……!!」

「謝らないで……。久遠ちゃんがやりたかったことなんだから……」

「でも……!」

「でもじゃないよ。美咲ちゃんも杏奈ちゃんも……そんなに泣かないで。久遠ちゃんは、もう、駄目そうだから……二人に託したいんだ。……歌音ちゃんのことを。死神さんのことを」

「……久遠、」

「美咲ちゃん……もし、また会えたらだけど……あっちの美咲ちゃんにもよろしく伝えておいてね……」

「……はい、必ず……」

「杏奈ちゃん……歌音ちゃんのこと、お願いね」

「……うん。絶対に優しい子に育てるから……!」

「死神さん……」

「久遠……」

「わたし、幸せだったよ……死神さんと出会って、空手の楽しさ教えてもらって……美咲ちゃん達とも出会って……こうして、死ぬしかない私に赤ちゃんが出来て……だから、自分の幸せもちゃんと見つけてね……?お願いだよ……廉さん」

そうして生まれたばかりの我が子を抱きながら彼女の短い人生は終わってしまった。


それからしばらくして、小学生になった頃の怜悧に父親からのビデオレターが来た。

「再生しますね」

まだ幼い正輝を抱きながら赤羽が通信を接続して映像を再生する。定期的に送られてくるそれが今日は少し違うと知りながら。

「あ、お父さん!」

怜悧が出てきた映像に反応すると、

「おんなのこ?」

父親は見たことない幼い少女を抱いていた。

父親が何を言っているのかはよく分からないがビデオに映っている少女の名前は甲斐怜悧と言うらしい。

「……わたしと同じ名前?」

まだ当時の怜悧は影武者のことを知らない。しかし、違和感はあった。やがて年月が進むほどに赤羽や達真の表情、テレビからの情報によりあの少女が自分の影武者として甲斐廉の娘としてメディアに出ていることを理解し始めた。

理解が進むほどに怜悧の中にモヤモヤが出来た。

「ねえ美咲さん。何であの子がお父さんのところにいるの?お母さんはどこなの?」

「……あなたのお父様はあなたや正輝さん、せつなさんを守るために今遠いところでお仕事をしているのです。あの子は、あなたの代わりに甲斐怜悧をやっている子なんです。……でも、あの子はそれを知りません」

「……」

突発的な怒りというのは今までも経験があった。でも、心の底からの怒りは初めてだった。冷静になることなんて出来ず、怜悧はテーブルを破壊した。

「何で、何で!!何で!!!」

「怜悧さん……!」

赤羽が止めるのも構わず怜悧は暴れ続けた。が、正輝やせつなが泣き始めたのを機に怜悧はやっと冷静さを取り戻した。

「そうか、怜悧が……」

その夜。赤羽は甲斐と連絡を取った。

「はい……。やはり、無理があったのではないですか……?」

「……とは言え俺にすれば怜悧も歌音も大切な娘だ。今更この生活を変えるわけにはいかない。赤羽もつらいかも知れないが、怜悧達を頼む」

「……分かりました」

それから。


ある日、小学校から呼び出しの連絡を受けた赤羽が出来るだけ年齢相応に見えるように外見を整えてから向かう。担任からの電話で、怜悧がクラスメイトと喧嘩して窓ガラスを破壊したとのことだ。

「申し訳ございません!」

職員室で赤羽が頭を下げる。

「あの、領収証をいただければ私の方で弁償いたしますので……」

「あ、いえ。しかし、その、本当に怜悧ちゃんの保護者の方なんですか?」

「はい……。彼女のご両親は現在お仕事の都合で家を長期にわたって留守にしていますので……私がその間の保護者を任されています」

「失礼ですがおいくつでしょうか?」

「に、25歳です」

「25歳……」

担任だけでない何人かの職員が赤羽を見やる。格好こそスーツを着ているが外見だけで言えば中学生程度にしか見えないので疑いの視線を持つのも無理はない。

「と、とりあえずこれが領収証となります」

「申し訳ございません……!!」

再度頭を下げる赤羽。それを廊下から怜悧が見ていた。


「何で……何でよ……何で美咲さんが……」

早退した怜悧が家のソファで体育座りをして身を縮めている。

「どうして……!?どうして私が怒られるの!?どうして美咲さんが謝らなきゃいけないの?どうしてあの子が、怜悧が怜悧なの………!?」

近くでままごとをしている正輝とせつな、翼が何か言いたそうにしているが何も返せない。理解できない年齢なのだから仕方がない。

それは分かっていても怜悧にまた怒りが漲る。買い直されたばかりのテーブルをまた破壊しそうになって、しかし、拳を納める。代わりにテレビの電源を付けた。ちょうど甲斐機関に関してのニュースが流れていた。

そこには父の姿と、自分の影武者であるあの少女の姿が映っていた。

「どうして、怜悧が……」

涙で歪む視界の中で自分と同じ名前の別の少女が幸せそうに自分の父親と並んで歩く姿が思考を停止させる。

「どうして……どうして、いいんだ……どうして、どうして怜悧が……怜悧……怜悧……」


やがて、数年ぶりに父親が日本にやってきた。見たこともない幼い少女を連れて。

「また、拾いものか?」

出迎えた達真が視線を鋭くさせる。

「そう言うな。この子は火村小雪という。海外のとある村で災害に遭って一人のところを保護した。赤羽、矢尻。この子のことも頼む」

「甲斐さん……あなたのやっていることは正しいのかも知れません。でも、やっぱり引き返すことは出来ないんですか?歌音さんの映像を見るたびに怜悧さんがどんな顔をしているか分かりますか?何回も何回も癇癪を起こして学校でもそろそろ限界だって……」

「……すまない。赤羽には本当に迷惑をかけていると思っている。けど、今アジアで一番義体の技術に優れていて大規模な工場を持てるのは甲斐機関だけなんだ。小雪だけじゃない。何人もの子供達が親を失い、体を壊し、彷徨って、死んでしまう。あの頃の俺達のように拾ってくれる学校も存在しない」

「……だけど!」

「だけど、先輩。今のあんたのやり方よりかはまだ先代の方が温情だぞ。多忙とは言え子供達をちゃんと傍に置いている。危険度は違うかも知れないし、実子であるあんたを置いてけぼりにしていたって言う違いはあるがそれでもあんたの妹達は寂しい思いはしていなかった。あんたのやろうとしていることは正しいかも知れないが、やり方に関してはもう少し考え直した方がいいんじゃないのか?」

「……俺には他にやり方なんて思いつかないよ。矢尻、引き続きお前の口座には資金を送っておく」

「……一介の道場主宛とは思えない額を毎月出してくれるのはありがたいと思ってる。それで怜悧が壊したものとかを弁償できる。けど、子供に必要なのは金なんかじゃないだろう……!」

「……すまない」


年下が増えた。毎日のように癇癪を起こす怜悧に悩みの種が増えた。

アリスと名付けられた少女。詳しい事情は知らないが正輝達よりもさらに年下。怜悧からすれば6つも年下になる。ここまで来ればほぼ育児だ。

「はい、アリスさん。ご飯ですよ。あ、正輝さん。おトイレは汚さないで。せつなさん、熊さんのぬいぐるみなら洗濯に出してます」

特に赤羽が忙しそうだった。大変そうな表情は見せずにどこか嬉しそうなのがよく分からない。

「……美咲さん」

「怜悧さん?どうしました?あ、今度の授業参観なら私と達真で行く予定なので」

「そうじゃなくて、私にも出来ることないかなって……」

「怜悧さん……。ありがとうございます。では、アリスさんにご飯をお願いします。私はおトイレの掃除をしてきますので」

「はい」

それから何故かイライラした時には赤羽の手伝いをして弟妹達の世話を見ていた。そして一息つく時にビデオチャットの相手と会話をする。そんな小学校生活。いつの間にかもう一人の甲斐怜悧との会話が楽しみになってきた。

テレビの映像を見る。実際にチャットで本人と会話をする。少しだけだけど父親とも会話をする。

(あの子が甲斐怜悧でいいんだ。あの子こそが本当の甲斐怜悧……)

やがて怜悧はその名前以外は自分自身を諦めた。家族のために。


怜悧が学校に戻ってから一週間が経過した。

「行ってきます」

怜悧、正輝、せつなが一斉に家を出て学校に向かう。

「行ってらっしゃい」

甲斐と赤羽がそれを眺めてわずかに声色を震わせる。

「こんな日が来るとはな」

リビングに戻り、甲斐が安堵の息を吐く。

結局あれから精神科医に怜悧を見てもらったが本格的なところは分からなかった。

甲斐は既に怜悧が治っているのではないかと感じているが、正輝とせつなは違うようだ。

「まだ解決したわけではありませんよ。私にも怜悧さんはどこかおかしいと思います」

「やっぱりそうか……。実の父親の俺だけが分からないのかな」

「廉君もやっと元の生活が出来るようになったのにね」

キッチン。そこには甲斐の妻である三咲がいた。夫に呼ばれて急いで戻ってきたのだ。

「キーちゃんの目にもやっぱり怜悧は……?」

「うん……。やっぱりどこかおかしいと思う。無理しているともまた何か違う」

「……そっかあ」

紅茶を飲みながら、

(あの竹刀を向けてきた時。あの時の怜悧の目が俺にはまだ分からない。あれがヒントなんじゃないかと思ってる。折れた竹刀で俺を睨んだあの瞬間。あの目は何なんだ?)

「廉君?」

「いや、何でもないよ。とりあえずしばらくは黒主零とかって名前で仕事でもするかな」

「怒られますよ?」

赤羽がため息。

「私にもよく分かっていませんが、あっちの私達はあなたにその名前で活動させないために必死で動いていた訳なんですから」

「……けど少しだけジェラシーだな。あっちの俺は何でもかんでも変えられる力があった。それがないのが悔しいよ……」

甲斐は義足のズボンを握りしめた。


剣道場。いよいよ3年生最後の大会まで一週間を切った日だ。

「……」

小翠が男子更衣室にいる。小翠が何をいうでもなく男子達はさっさと着替えて出て行ってしまっている。

(……大会出場選手を今日発表しなければならない。俺は前提として問題は怜悧。確かに会話が出来る状態ではあるし、元通りの腕前を取り戻してもいる。……けれど、)

着替えを終えて更衣室を出ると、

「小翠」

「怜悧」

女子更衣室から怜悧が出てきた。

「……正直まだあんたが男子更衣室から出てくるの慣れないわ」

「何言ってるんですか?俺は男ですよ」

「……そう言い張るんだったらせめて胸くらい改造しなさい。私より大きいじゃない」

「俺だってこんなものちぎりたいくらいです。女子のそれならともかく俺自身についてても気持ちが悪いだけ。俺は怜悧くらいのちょうどタイプですよ」

「うわ、セクハラ。大体私は……」

「怜悧?」

「……私の予約はもう締め切ってるから」

「ほほう、彼氏でも出来たって事ですか?」

「そんなんじゃないわよ」

剣道場までの道のりをいつも通りの会話で過ごす二人。小翠の目はたまに怜悧の目を追うが、

(……俺の目でも違和感を感じるくらいしか出来ない。正輝君達に頼るしかないですかね)

「で、一応確認するけど、私今度の大会出ていいんだよね?」

「まあ、確かに俺に次ぐ実力を取り戻しています。資格はあるんじゃないですか?」

「ならいいけど、」

「……ただ、俺は全力の怜悧と戦ってみたいですけどね」

「はぁ?いつも全力でやってるじゃない。それでボコボコにされてるんだから」

「出来ればもう一度俺に一本入れるくらいは見せて欲しいです」

「もう一度?」

「……ええ、あの時のように」

「…………」

怜悧は何も言わない。

(……記憶にあるのかも分からない。言葉すら失って俺と戦ったあの朝。真剣だったら俺が殺されていた。それに怜悧は確かに喜びのような、やりきった表情をしていた。一体誰を仮想敵にしていた?何故?)

「小翠?」

「何でもありませんよ。さあ、今日の稽古を始めましょう」

そうして二人は剣道場に入った。

それからいつも通り大会前の試合が多めの稽古が始まった。いつも通り怜悧は小翠以外には無敗を貫いた。

「では、今度の日曜日。言うまでもなく俺達の目標である大会が行われます。参加メンバーは遅刻することなく!」

小翠によって稽古が締められる。当然小翠も怜悧も出場メンバーだ。

「……」

小翠は怜悧を見る。タオルで汗を拭いながら他の部員と和気藹々と話している。

(まるで以前までの怜悧と同じ。もしや俺の感覚が間違っているだけ?思っていた以上に怜悧の心が強くてもう回復したって事ですか?だとしたら周囲がどうこう言動すべきではない……しかし)

「どうしたのよ小翠。また私にセクハラでもしたいわけ?」

「興味はありますが、先約が入ってるなら仕方ないですからね。俺は日々の怜悧を眺めるだけにしますよ」

「うわ、今度はストーカー?」

他部員と笑い合うその姿は今までも怜悧そのものだった。


電子の世界。現実ではあり得ない。まるで雪のように無数のカードが降る街。

「ここがナイトメアカードの世界」

研護がカードを拾い集める。

「そうね。ヒディエンスマタライヤンによるリセットが行われた後に起きてしまった第三次大戦。その後に来たる聖騎士戦争の幕開けとなった世界」

メナージュはカードに目もくれず研護のやや後ろにいる。

「聖騎士戦争が終わったらライランドの世界が来るんだな」

「ええ。……あなたも私もこのカードを現実で使うことはもう出来ない。精々ゲームの中で楽しみましょう」

「そうだな」

研護が用意された腰の剣を抜く。空から降り注ぐ無数のカード達を除けばそこはまさにテンプレ通りな剣と魔法の世界に違いなかった。

やがてそこでどれほどまでかの時間を注いでログアウトしてくる二人。

時計を見れば真夜中だった。

「思った以上に時間を忘れてたな」

「そうね。生身の肉体がポキポキするわ」

「歳?」

「殴るわよ?」

言いながら二人はカレンダーを見上げた。現在の日付は2016年11月3日。

「……いよいよ11月になってしまったわね」

「そうだな。なあ、ブランチのリセットっていきなり世界が終わるのか?」

「……いいえ。地上の文明を何らかの方法で破壊するのよ。だから突然世界が終わるように感じることもあればもっとパンデミックみたいな形で終わらせに来ることもあるわ」

「やっかいだな」

「……」

メナージュは押し黙り、俯いた。

「メナージュ?どうした?」

「……いずれのやり方にせよ、もうほとんど時間は残っていない。私、もしかしたら間違えたのかも知れない」

「どういうことだ?」

「一ヶ月前。私はあなたをラストの世界から無理矢理引きずり出した。けど、仮にあそこでなら本当にあなたが無事に天寿を全うできると言うのなら、私はあなたを死なせてしまうだけの決断をしてしまったのかも知れない……最近そう思うことがあるのよ」

「……何言ってるんだ。あそこでお前が来てくれたから俺はお前の本当の名前を知ることが出来たんだ。こうして一ヶ月、楽しい生活が送れたんだ。仮にこのまま消滅したって悔いなんてない」

「……私は今までいろいろな人の最期を見てきたわ」

「……」

「何も出来ない自分が嫌だった。何度も何度も繰り返しリセットされていく世界、殺されていく命。それを変えたくて私は魔法を学び、何らかの手段で再び現世に戻って来れた。でも、結局はまた何も出来ない……!!」

震える背中。これまで何度見たか分からない彼女の絶望。研護にはまだ片鱗すら理解できているかも怪しいその意味。ただ、その背中を抱いてやることは出来た。

「俺がいる」

「……」

「たとえまた時空の闇とやらに落ちようとも、俺が一緒にいる。一緒に死んでやる。お前はもう一人じゃないんだ」

「研護……」

「だからさ、一度行ってみようぜ。少しでも望みがあるなら俺はそこに賭けたい。でも、お前がどうしても嫌なら仕方ない。最期の時まで一緒にいてやるだけだ」

「……行くって廉ちゃん達のところに?」

「ああ。どんな理由で世界が滅びるかは分からないけど、生きたいって気持ちが踏みにじられていいわけがないんだ。自分の気持ちを言ってみるだけ言ってみていいと思うんだ」

「……」

「もちろんあの二人を見るのがつらいって言うなら俺ももうこれ以上言わない。けどここまで一緒にいて何となく分かるけど、お前本当に自分がやりたいことほど隠すからさ。誰かにこうして支えて欲しいって言うならそうじゃなきゃ勇気が足りないって言うなら俺がその役目になるから。だから、」

「……プロポーズのつもりかしら?」

「は?いや、おい。今そんな話は……」

メナージュは振り向き、静かにその唇を重ねた。

「……メナージュ……」

「ごめんなさい。本当はこんなことするつもりはなかったの。でも、怖かったの。あの二人に今更会って、忘れられてたらどうしようとか。それでも私が自分を優先して、せっかくあの二人の最後の時間を奪うようなことをしてしまったらどうしようとか。いろいろ考えてしまって……。その、」

「……いいんだぜ。その理由に使っても」

「……研護……」

その目に涙が浮かぶ。それを見た研護は意を決した。

「メナージュ、いや、美夏。俺はまだ美夏のこと全然分かってないかも知れない。でも、一緒にいた時間は確かに嘘じゃない。お前のことが少しは理解できたと思う。だから、使っていいんだ。俺はお前と一緒の未来を歩みたい。たとえこの先、リセットされたとしても。だから、」

拳を握る。

「だから、お前が先に進む勇気がどうしても出ないって言うなら俺を使ってくれて構わない!俺は、これ以上お前のそんな姿を見るのが切なくて仕方がないんだよ……!!浦島太郎みたいに自分が知らない時間が過ぎてしまった気持ち、俺にだって少しだけ理解できるから……!臆病になるのも分かる。周囲の人間に、一緒に時間を進めなかった間にいろいろな経験をした人間に嫉妬をするのも分かるんだ!本当は大好きで仕方がないのに自分の勝手な気持ちでそんな人達を傷つけてしまうかも知れないのが怖いのも……分かるんだよ!!」

「研護……」

「だから、美夏!俺と一緒に、先に進んでくれ……一緒の未来に……一緒に……!!」

「……ありがとう。……これは私の最後の魔法」

「え?」

メナージュの手が光る。そこから光が部屋に伝播した。

「これは……?」

「防音魔法……外に音が漏れないように、ね」

そうしてメナージュは研護を思い切り抱きしめた。

「美夏……?」

「…………っ!嬉しかった。私の名前をまだ呼んでくれる人がいる……こうして一緒の思いを感じて叫んでくれる人がいる……私の、私の弱さを受け止めてくれる人がいる……!いきなり、いきなり変なところに閉じ込められて……私を忘れた人達が幸せになる未来を見るのが嫌だった……その先でまるで私が望んだかのようにあの人達が悲しい未来を進むのを見るのが嫌だった……何度も何度も、新しい世界が出来て、そこに、どこにも私だけがいなくて……廉ちゃんも、三咲ちゃんも一緒にいない……そんな世界ばかりで……、そんな世界も消えてなくなって……もう一度……もう一度あの二人に会いたい……会いたいよ……でも、会っても私は、私は勝手な女だからきっと迷惑をかけてしまう……未来が、未来が変わってしまうかも知れない……!!でも、じゃあ、どうしたらいいのよ!!!また会いたい……でも迷惑もかけたくない……、どっちの思いも本当なのに、どうしたら、どうしたらいいのよ……!!今、どっちも出来る……どっちも出来てしまう……本当ならもっと、もっと早くに会いに行きたかった……今度くらい、私が幸せになる世界が来たっていいじゃない!!!でも、でも、駄目なのよ……こんな、こんなひどい私の勝手で、本当に、本当に幸せそうなあの二人の邪魔なんて出来ない……出来ない……出来ないよ……出来ないんだ……出来ないんだよぉぉぉぉ!!!」

「……」

「お母さん……お父さん……会いたい……別の世界で私じゃない子供を産んで幸せそうな未来を進んでいった。それを見るのが嫌だった、怖かった、会いたかったのに……会いたくないって思って、時にはひどいことだって思ってしまう……誰もいないところで騒いで、本当に身勝手で……身勝手で、情けなくて……そんな、どうしようもないほど大嫌いな自分を、誰かに……誰かに、誰かに慰めて欲しかった!!!」

「……」

「何で、何で、何で私なの!?私が一体何をしたって言うの……!?私の、何が悪かったって言うの!?誰か……教えてよ。だれか、誰か、私を助けてよ……私を救ってよ!!!」

「……ごめんな」

「……え?」

不意に研護の声がきこえた。涙で崩れたメナージュが見上げたその顔は自分と同じだった。

「ごめん……ごめん……ごめん……!!!俺は、俺は、俺には!!!お前を助けられない……お前を救えない……お前の叫びを聞いてやることしか出来ない……!!!どうして……どうして、どうして俺は……俺には、お前を救ってやることが出来ないんだ!!!!」

「けんご……」

「みか……」

言葉は続かなかった。ただどこにも届かない二人の叫びが夜に響いていた。

そして。

「……いいんだな?」

「……お願い、私の未練を全て奪って」

二人はその身を重ねた。これまでとこれからの全てを諦めないために。


「怜悧」

それは誰の声か分からない。誰を指す言葉なのかも分からない。

「怜悧、すごいね。怜悧は誰にも出来ないことが出来るみたい」

それは多分本心からの、そして何でもない無意識な願い。

「でも、それに応えることが出来なかった……。今度は、間違えない。今度こそ……今度こそ……!!」

唇を噛みしめる。

「今度こそ完璧な甲斐怜悧を演じてみせる。そして、あの子を……」


早朝。いつもは正輝が空手の稽古のために使っている和室。

怜悧はただそこで正座をして瞑想していた。

やがて立ち上がり、素振りを始める。

「怜悧」

視界と脳裏にわずかに映る幻影を振り払うように竹刀を振るう。

「怜悧」

必死に竹刀を振るう。全力で握りしめた竹刀を振るう。魂の灯らないそこに炎を燃やすように。

「怜悧」

「……はあ……はあ……はあ……!!」

まるでいつでも逃げてしまえるかのように用意されたその幻影に自分が逃げてしまわないように。

「はあ……はあ……はあ……っっ!!」

深い地獄の闇に葬ってしまった彼女への身勝手な想いに飲み込まれてしまわないように。

「……」

そんな様子を正輝と赤羽が見ていた。

「……いくら大会前だからって少し張り切りすぎじゃないか……?」

「……私にはあれが稽古には見えません」

「え?」

「久遠を失った私はそれでも甲斐さんから託されたあなたたちを守るためにと、こうして稽古と称して一人で暴れていたこともありました。そうしないと自分を保てなかった。……他にすがるものがなかったんです」

「……美咲さん」

「怜悧さんにも今はこれしか方法がないのでしょう……。逃げてしまわないようにするには、これしか……」

「……俺達を頼ることは出来ないんですか……?」

「……私も甲斐さんも怜悧さんも不器用なんですよ。だから、誰かが用意した自分になりすます事しか思い浮かばない。……怜悧さんの場合はもしかしたら違うのかも知れませんが」

「どういうことですか?」

「……甲斐怜悧は自分だけではないと言うことです。怜悧さんにとっては」

「……歌音ですか」

メディア向けの甲斐怜悧として生み出された馬場歌音寺。

「覚えているかは分かりませんが、怜悧さんはまだ小学生になったばかりの頃。酷く荒れていました。無理もありません。自分は両親と一緒に暮らせないのにテレビを付ければ実の父親が自分の知らない自分と同じ名前の女の子と一緒に映っているのですから。それも決して望まれる形ではなく」

「……」

正輝も記憶のどこかにある。10年以上も前、姉によって何度もテーブルが破壊された記憶。当時は訳も分からず怖くて泣いていた。今は何となく分かる。

「……理由にされちゃたまったものじゃないですよ」

「正輝さん……」

「俺達きょうだいのためって言いながら姉さんは本当の自分に気付いていないなんて、俺達のためって言いながら自分の本当に大事な存在を奪って、それで今度は自分が誰でもない何かになりすまそうなんて、きっと間違ってる……」

「……正輝さん。正しいだけで人の心は救えないんです。誰も皆、正しくあれと思いながらふとした事で誰かを傷つける。そして何が正しいのか間違っているのかを迷い続けるんです」

「けど、俺達が見ている姉さんは……」

「そんなに人間は強くないんです……!!」

「……美咲さん……」

「……今日の稽古はなしにしましょう。今怜悧さんに必要なのは自分自身を整える時間ですから」

そう言って赤羽は自室へと去って行った。

「……俺は、どうしたらいいんだ」

「全部壊しちゃえば?」

声。見るとすぐ横にルネがいた。

「うわあああ!?出た!!」

「何よ。妹をそんな化け物見たいに」

「ば、化け物じゃなかったら何だってんだ!?」

「妹だって言ってるでしょ?どいつもこいつもみーんな面倒くさいったらありゃしないわ。何で我慢することがあるのかしら」

「……人間にはいろいろ事情があるんだよ。お前も一応人間だって言うなら分かるだろ?」

「人間扱いしないで。私はゼノセスター。天使界で勝手に作られたあんた達の末っ子。勝手に生み出されて勝手に200年も封印されて、勝手に誰とも知らない人間の妹にされて、だから勝手に世界を滅ぼしたのよ」

「……世界を?」

「お陰で私は自由になった。兄も姉ももういない。でも、自由は退屈だった。一人は退屈でそれ以外だと窮屈で、本当つまらない生き物よね」

「……」

「だからあんたも好きにすれば?黒竜牙は果名が持ってるけど、それに近い力なら盗んでくるわ。一緒にこの退屈な世界を壊しましょう?お兄ちゃん」

「……そんな勝手なことは出来ない。お前が何を知ってどんなことをしてきたのかは分からないけど、人間ってのは好き勝手にやったら周りの人間が、大切な人達が苦しむんだ。そういう風になってるんだよ」

「……だから退屈なのよ。他に方法がないって知りながらそれを選ばないなんてどうかしてるわ」

「あるかも知れないから俺達は足掻くんだよ。勝手に暴れたら勝手に愛想を尽かされる。誰のためになんていいわけを用意したところで結局誰も望んでないことは誰になりすましたところで誰のためにもならないんだ」「……下らないわ」

ルネはため息をつき、触手で円を描くと虚空に穴が開く。

「お前……」

「退屈な話をありがとう、お兄ちゃん。でも、そんなの、ためになりたい誰かがいる幸せ者の考え方よ」

そう言ってルネは虚空へと去って行った。


2016年11月4日。甲斐機関。

「……」

研護とメナージュはそこへやってきた。

「いよいよ行くんだね」

ラストが出迎える。

「ラスト、今までありがとう。一人きりにさせて悪かった」

「どうしたの研護。……ふふ、僕にお任せあれだよ」

「……研護。急ぎましょう」

「ああ」

震えた足で先行するメナージュ。研護はラストとハイタッチをしてからその隣に並ぶ。

(……研護。一皮むけたみたいだね。メナージュも少しだけ迷いが消えたみたいだ。僕がいない間に何かあったみたいだけど、妬けちゃうな。僕も二人の力になりたかったよ……)

二人の背中を見守るラスト。わずかな空気がその口から漏れた時だ。

「どうやら時は来たようだな」

「!?」

声。同時にラストの胸を何かが貫いた。

「……な、なんで……」

「イレギュラーが起きる前に潰すのみ」

ラストの胸から腕を引き抜き、その男はラストの翼を踏みにじる。

「だ、だれだ……」

「わざわざ名乗る必要があるか?」

血反吐を吐くラストを踏みにじりながらその男は手に集めた火炎を球体に変えて、

「や、やめろ……!!」

「奇跡を終わらせる時間だ」

火炎弾は今放たれた。

「!?」

突然の爆音と灼熱が甲斐機関本社ビルを襲う。防火シャッターも役に立たないまま建物が炎に包まれる。

守りたかったものが、いつまでも続くと思っていたものが、今目の前で惨たらしく燃えていく。


「……ぁ、」

声が漏れる。本当の名前と姿を封じられた女の声が。

遠くに燃える全て。その明かりに照らされた小さな闇の中で。

「ぶ、じか……」

大事なものを庇う少年の背中が見えた。

「研護……!」

「……悪い。ちょっと無理そうだ……」

背中の向こうから聞こえる声は、肺を壊していた。枯れた声が暗闇に小さく届く。

「研護……!い、今怪我を……」

「俺のことはいい……逃げるんだ……」

「どうして……!?いま、魔法を使ってそんな怪我くらい……」

「それじゃ駄目なんだ……美夏!!」

「!!」

失われたはずの女の名前が今炎にとどろいた。

「お前がすべきことは、俺のために捨てることじゃないんだ!!違うか!?お前は、もっと大きなものを救うために先へ進むんだ……未来に生きるんだ……!!」

炎に枯れた叫びが響く。吐血の混じった少年の叫び。

「研護……」

その程度では炎は消せぬと、理解していながらメナージュの涙は終わらない。

「……いつか、俺ごと救ってくれ……世界を、お前が守りたかった世界を……!!」

炎に照らされた暗闇に笑みを浮かべる少年の顔。その瞳に映る自分はあまりに無力な涙に溺れていた。

「何だ、生きていたのか」

それをあざ笑うかのように男の声が生まれた。

「!」

二人の視線が闇に生まれた声へと向けられる。

「誰!?」

「俺か?俺はファルタスク。ヒディエンスマタライヤン様より使わされた滅びの使者よ」

「!?」

「この世界に奇跡など不要。それをもたらそうとするなど許すはずがないだろう?滅びの運命を知っているのならば大人しく滅んでしまえばいいのだ。偽物の命よ、メナージュ・ゼロの女よ!!」

その太い腕が研護の首を掴んだ。

「がっ!!」

「研護!!」

「この男が希望か?ならお望み通り挫いてやろう。賤しくも心のどこかで望んだ諦めのままに」

首を掴む腕に力が加わり、骨が軋む音が響く。

「やめて……やめて!!!」

叫びながら魔力をためるメナージュ。たとえ今の全ての力を放っても敵わないと知りながらも。

「終わりだ」

下卑た笑いがこだまする。だが、邪悪な力は何者をも砕かなかった。

「馬鹿、な……!?」

炎の中で、ファルタスクは切断された己の腕を見やった。だが、驚愕の視線はそこではない。先ほどまではそこにはなかった炎の形。

「馬鹿な、何故貴様が……干渉する!?」

「昔の友の声がきこえたから」

「あ、あ、」

崩れ落ちた研護を抱き寄せるメナージュの前。逆巻く炎が一人の男の姿を生み出し、ファルタスクを後ずらせる。

かつてより成長したその背中は、以前一度だけ見たあの騎士の背中。

「俺はこの時、何も出来なかった。するべきでもないとさっきまで思っていた。だが、運命がいつだって悲劇だけを生むと思われているならそれを灼熱の騎士が許しはしない……!!」

炎の中から一本の槍……紅蓮の槍を引き抜き、男は構えた。

「ナイトバーニング……甲衆院優樹……!!いい加減くそったれな運命にはうんざりしているんだ!!!」

その叫びが暗闇を終わらせ、邪悪な炎を輝く炎で燃やし直す。

「馬鹿な……十三騎士団がこの世界の終焉に干渉するだと……!?」

「間違えるなよ……俺は飽くまでも古い友人を助けるだけだ!」

紅蓮の槍が時より早く放たれた。その一撃だけでファルタスクは見たこともない色の流血を放ちながら吹き飛ばされていく。

「優樹君……!」

「梓山!俺に出来ることは足止めだけだ!それ以上の奇跡は自分の手でつかみ取れ!」

バーニングは一瞬で研護の怪我を治し、時空に穴を開けた。

「させるか!!」

ファルタスクが氷と雷とを魔法で繰り出す。それを見ないままにバーニングは手を出す。

「間違えるなよ……お前ごときに俺を止められると思うな!!!」

放たれた二つの攻撃を素手で受け止め、握りつぶし、

「遊びでやってんじゃないんだよ俺はぁぁぁぁぁっ!!!!」

炎に燃える拳がファルタスクの顔面にねじ込まれ、

「ぐあああああああああああああああああああああああ!!!!」

ファルタスクを永劫に燃やしながら時空の彼方へと殴り飛ばした。

「……さて、どうなるかな」

光り輝く炎の中でバーニングは一人呟いた。


燃えさかる甲斐機関本社ビル。その外。

「こ、ここは……?」

研護とメナージュはそこに飛ばされた。

「メナージュ、今のは……?」

「ナイトバーニングよ。ついでに廉ちゃんの幼馴染みでもある。私は少しだけ面識があったのよ。そんなことよりも……」

視線の先。惑う人々の中。見慣れた姿が倒れていた。

「ラスト……!」

急ぐ二人。

「……研護……メナージュ」

「どうしたラスト……!?」

傍に駆け寄る。しかし既に理不尽なまでの血液がコンクリートを染めていた。

滴る量は危険な水準を超えている。普通の人間ならば既に命はないだろう。

「へ、変な奴に襲われた……」

「まさかファルタスクか……!?」

「け、研護達はどうして……」

「いろいろあったのよ。そしてごめんなさい。今の私達にあなたを治す術はないわ。魔力がどうしても足りない」

「……いいよ。僕は普通の人間じゃないから、簡単には死なない……」

「でも、すぐ死ぬ」

「!?」

新たな声。響いた瞬間に一人の少女の姿が視界に突然現れた。

「な、な、」

「興味あったんだよね。ゲームのキャラが現実世界で死んだらどうなるのか。ゲームのキャラの力を現実世界で使ったらどうなるのか」

その少女はラストと研護、二人の肩に手を触れていた。瞬間。

「増殖のGEARとゲームマスターのGEAR、二つとももーらいっと!!」

「あなたは!?」

「僕はキュリアス。ヒディエンスマタライヤン様の使徒だよ」

「ファルタスクだけじゃない!?」

「ファルタスクならさっきドジってマントルに落ちてたよ。僕はそんなドジは踏まないけどね!」

言いながらキュリアスは懐から1枚のカードを取り出した。

「それは……!!」

「転移のカード。メナージュ・ゼロの女……お望み通り奇跡の世界に送ってあげるよ。ただし、望まざる時代にね!!」

「や、やめ……」

「ばいばーい」

「!」

一縷の光が瞬いた。

「美夏!!」

研護の前で名前を呼ばれたその女は、時空の彼方へと消えていった。

「さて、ここに残ったのは何の能力も持たないクズだけ!殺してあげてもいいけど、精々消滅までの間絶望で遊んでいるといいよ?きゃはははは!!」

笑い、キュリアスと名乗った少女はどこかへと走り去っていった。


右も左も上下もない。ただ光だけが流れる無の空間。

「……ここは、光トンネル……」

メナージュはただ無力に光の中に身を任せて流れていた。

「……私はまたここに戻ってきたのね……何も出来ないまま……」

悔恨の念に襲われる。だが、心に開いた穴があらゆる感情をも無に誘う。

「……研護はどうなったのかしら……」

あらゆる感情が消えた胸の内。記憶の中最も自分の心に触れてきたあの少年の顔だけが残り続ける。

「……私は何も出来ない……どうすることも出来なかった……」

無力感が体を支配する。だが、消えていったはずの感情達がまだ体のどこかで脈を打つ。

「……この感情、これが切なさ……私、何も出来ないの……?」

震える手足。燃えるような心臓の鼓動。自然と漲る力。これまで感じたことがない場所がうずく。

「……そう。私、新たな命が……なら、ここで諦めるわけにはいかない……この子のためにも……たとえどんな時空に落ちても私は……私は……!!」

「じゃあ、可能性を見せてよ」

「!」

声。気付けば目の前にはエレベーター。

「これは……まさか……!?」

地に足がつく。視線がエレベーターを向けばその扉が開く。メナージュが迷わずに中に入ればそのエレベーターはどこまでも上に上っていく。緊張が続く中、やがてエレベーターが開かれる。

「……」

人ならざるものによって作られた石造りの道をメナージュは迷うことなく歩き続ける。

やがて。

「僕のことを知っているのによく進んできたね」

一人の少女がそこにはいた。

「……最果ての扉の先で待つもの。黒咲歩乃歌」

「へえ、よく勉強してるんだね。そんなことまで知っているとは」

「導いて。私はどんな犠牲を払っても構わない。だから、私と、研護の生きた証であるこの子だけは……」

「別に取って食うつもりなんてないよ。ただ、僕なりの運命を作らせてもらうだけだよ」

「え……?」

彼女の目が光る。すると、メナージュの腹が突然大きくなり、そして腹をすり抜け生まれたばかりの幼子が誕生した。

「せっかくだから名前を付けてあげなよ」

「……名前」

何も考えていなかった。その腕に抱くことも出来ない、性別すら分からない我が子の名前。

ただ、自分とあの少年の間の子供なら、同じ感情を抱いた二人の子供ならば。

「せつな……赤羽せつな……!!」

「いい名前だね。赤羽……なら、あの子に託そうかな」

「……赤羽美咲」

「そう。ちょうど暇してる個体がいるからね。……何かあげないと僕のところにまで来てしまう」

「それはあなたにとって都合が悪いことなの……?」

「別に?邪神でさえ僕には手出しできない。調停者ですら届かない概念に僕はいる。まあ、どちらも僕が生み出したみたいなものだけどね。で、そろそろいいかな?」

「……構わないわ。ただ、一度だけ……」

メナージュはせつなと名付けた我が子を魂込めて抱きしめた。涙を流し、希望を託し、悔いを残して。

「……もういいわ。これ以上は情が移ってしまう」

「そう。じゃあこの子は赤羽美咲に預けるから」

赤子がメナージュの胸からすり抜けて彼女の元へと移り、そして姿を消した。

「……」

「寂しそうな、嬉しそうな顔だね」

「あなたが言ったそのままよ。……私はこのまま時空の闇に落ちるのかしら?それとも完全に消滅するのかしら……?」

「どうだろうね。それは、運命の埒外のことさ」

その言葉を最後にメナージュは意識が遠のいていく。それは初めて時空の闇に落ちた時と同じ感覚。

「……そう、私はまた永遠に戻るのね……」

我が体を抱きながら彼女はまた永い眠りについた。


その筈だった。

「……ここは、」

「目が覚めたようね」

目を開ける。見慣れない場所。しかし恐らくは平和な現代日本のどこか。

「あなたがメナージュ・ゼロかしら」

一人の少女がいた。それは、

「……最上火咲……!?」


2040年。秋の夜空。気付けばそれまでよりもずっと早くに暗くなる空の下。

「……」

怜悧は空手の稽古を終えて家までの道をたどる。かつては歌音と共に歩んだ道。一人で歩くことに慣れてしまいそうな自分が憎い。

「怜悧」

これくらいならばいいだろう、と彼女の名前を呼ぶ。周囲には誰もいない。もう少し声を上げても誰にも気付かれはしないだろう。そんな弱さが心を捻る。

「……怜悧、」

弱さを誰もいない夜の下に吐き出す。これが最後だと、これでもう二度と彼女には頼るまいと、自分の弱さに正直になれる……それを強さだと認めたくない。どこまでも自分勝手な捻くれた感情。

そんな自分を誰が頼るのか。ならよりもっと甲斐怜悧を演じなければならない。

「怜悧、私は……」

「もう一人の自分にすがるのかしら?」

「え、」

正面。街灯の下。一人の少女がいた。その赤い髪はどこか赤羽美咲を彷彿とさせる。しかし大分背が低い。そしてとんでもない胸の大きさ。

「あなたは……?美咲さんのお知り合いですか?」

「私は……最上火咲。あなたが甲斐廉の娘でしょ?」

「……わたしは、」

その質問に答えてはいけない。その理屈で、自分にその資格はないと思いたい感情を無意識に塞ぐ。

「別に誰に触れ回ることもないわ。ちょっと付き合ってよ」

「……は、はあ……でも、知らない人とは……」

「……あの人の血縁は皆、こうなんでしょうか……」

「え?」

「何でもないわ。私はあのひ、ふ……」

「ひ、ふ?」

「へ、変態師匠とは昔からの知り合いなんだから!」

「変態師匠?」

突然何を言っているのだこの少女は。しかしどこかで聞き覚えのある言葉でもあった。確かごくごく稀に赤羽が父のことをそう呼んでいたような気がする。実際父は赤羽の空手の師匠だったらしいのだから間違いではない。そしてその言葉を知っていると言うことは赤羽の知り合いではありそうだ。

(でも、誰?ぶっちゃけこの前のルネって子以来見ず知らずの女の子と話すのはちょっと避けたいんだけど)

「えっと、父の知り合いですか?それとも美咲さんの知り合いですか?」

「両方です!……両方よ!いいから家に案内なさい!」

「は、はぁ……?」

何だかルネと比べるまでもなく安心できそうな気がした。今はこの謎な元気ムーブが助け船になってる気もした。

「……こ、こっちです」

なので仕方なく案内することにした。後ろからついてくる気配には気付かないまま。

そして黒主家。

「帰りました」

怜悧が少し大きめの声を上げて帰宅する。

「お帰りなさい、怜悧さん」

リビングの方から赤羽が姿を見せる。手には珍しくどら焼きを持っていて、そして怜悧の背後の人物を見てそれを落とした。

「あの、美咲さんのお知り合いの方ですか?」

「また会ったわね。赤羽美咲。と言えばよろしいですか?」

「な、な、な、な、何で!?」

赤羽らしからぬ大声。雰囲気も大きく異なる。

「あの……?」

「れ、怜悧さん。こ、この人はいいので……!着替えてきてください。私の知人です……!」

「いいえ。怜悧さ……怜悧。あなたは今から空手着に着替えてきなさい」

「は、はぁ?」

「ちょっとあなた……!」

「へ、へ、へ、変態師匠……の代わりに私がちょっと稽古を付けてあげます……あげるから!」

その少女は赤面していた。


怜悧が着替えている間。リビング。

「……お、おう……どんな状況だこれ……」

甲斐が冷や汗を流す。目の前には赤羽美咲と最上火咲。

「どうも。お久しぶり……って言えばいいかしら?」

「ダウトです。私はそんなツンデレみたいなしゃべり方ではありません」

「それならあなたの方もダウトです。私はそんなよく分からないしゃべり方をしていません」

「な、私が私を間違えるわけないじゃないですか!」

「それなら私だって私を間違えるわけありません」

「あなたが間違えてるのは赤羽美咲じゃなくて最上火咲の方!!そんな敬語混じりの最上火咲気持ち悪いわ!」

「こら!ちゃんと赤羽美咲を演じてください!何ですかいくら初代だからってそんな歯の浮いた言葉遣いは!最上火咲の癖が強く出すぎです。見ていて恥ずかしいのでやめてください」

「あなたに言われたくありません!」

「って言うかこんな重たいものを持っているのにどうしてヒエンさん相手に全く異性として思われてないんですかあなたは!?」

「全力で師弟関係に努めていたからです!!それなのにあんなことやこんなことがトラブルで……!!」

「あー、そろそろいいかな?赤羽。火咲ちゃん」

「甲斐さん!どっちに対して言ってるんですか!?」

「ヒエンさん!?」

二人同時に真っ赤な髪を逆立たせて甲斐に噛み付くような視線を向ける。

「……はあ、」

深いため息。そして甲斐は来訪者の方を見た。

「君、俺とこの世界で空手の稽古をしていた方の赤羽美咲だよね?せつなを届けてきた方の」

「はい。お久しぶりです」

「何で火咲ちゃんの姿になってるの?」

「赤羽美咲とはそう言うものです。本当はもうこの世界には干渉しないつもりだったのですが、どうしても果たさないといけない約束がありましたので」

「約束?」

「でもその前に矢尻さんから怜悧ちゃんが大変なことになっていると聞いたのでこちらに来ました」

「……怜悧の状況を知っているのか?」

「はい。どっかの誰かさんがせっかく任されていた久遠の娘を死なせてしまったらしいですね?」

火咲の強い視線が赤羽を貫く。

「う、」

「火咲ちゃん……いや、赤羽?ああ、ややこしい……!!とにかく、歌音のことはあまり言ってやらないでくれ。多分今この家では一番デリケートな話題なんだ」

「ヒエンさん。あなたがそれだから駄目なんです」

「え、俺?」

「悲しいなら悲しいとちゃんと態度で示してください!あなたが強がってるから子供達が真似して、どんどん人の心を失っていくんです!最上さん、あなたもです!」

「……その顔で言われたくないのですが」

「調子が狂いますね全く。本当は誰より赤羽美咲なのにどうしても最上火咲としての印象が強い」

ため息をつく火咲。と、そこへ、

「あの、えっと、お茶ですけど……」

三咲がお茶を用意してきた。

「あ、はい。どうも……どなた?」

「……妻だ」

「へえ………………………………ええぇぇっ!?」

「ど、どうした?昔も会ったことあるだろ?」

「……あ、ああ、そう言えばそうでした。……あ、どうも。赤羽美咲です」

「え、あ、えっと、甲斐三咲です」

三咲は同じ顔の二人を見比べる。

「れ、廉君……」

「俺にもよく分かってないんだけど、こっちの赤羽美咲が昔最上火咲で、こっちの最上火咲が昔赤羽美咲だった」

「って事は、この人がせつなを……?」

「そう。16年前のあの日、せつなを託してきた別の世界の赤羽美咲。何でか知らないけど最上火咲の姿になってる」

だんだんと目眩を覚えてきた甲斐。

「けど、怜悧と組み手したいなんてどういうことなんだ?」

「自分を見失った時にはその手足でぶつかり合うのが一番ですから。なので初代さん。あれ、返してください」

「……あなた、またズル勝負するんですか?」

「お互いが傷ついたらまずいでしょう?それに……」

火咲の視線が鋭くなる。

「嫌な気配もします。この気配は……まさか」

「火咲ちゃん?」

「「はい?」」

「あ、悪い。別世界の赤羽の方」

「何でしょうか?」

「いや、どうかしたのかなって。そろそろ怜悧も稽古場に行ってると思うが」

「そうですね。なら行きましょうか」

涼しい夜の道を歩く大人達。

「そう言えば、和佐の奴はどうしてる?」

「和佐さんなら最近は歩乃歌さんやルネさんと一緒に過ごしていますよ」

「……う~ん。聞き覚えのある名前ばかりだな」

「何だかアイドル事務所開いたみたいでいろいろな世界の女の子をプロデュースしてるそうです」

「……何やってるんだあいつは」

「あの、以前から聞きたいことがあったんですが」

赤羽が火咲に対して。

「何でしょうか?」

「甲斐和佐さんって私の時にはいなかったのですがそれはどういうことなんですか?」

「その通りですよ?」

「え?」

「最初はいなかったんです。でも、メナージュ・ゼロの代わりに運命によって生み出されたんです」

「……そうだったんですか」

「だから火咲ちゃんはどこかあいつを信頼していなかったのか」

やがて、リビングやそれぞれの部屋がある場所から離れた先。道場へとたどり着く。

「あ、」

既に胴着姿の怜悧がそこにはいた。正輝やせつなも一緒だ。

「……誰だ?」

正輝が火咲を見る。対してせつなはどこか違和感を得ている。

「あの、美咲さん。そちらの方は……?」

「彼女は最上火咲さんです。私や甲斐さんの古い知り合いで私の……まあ、姉妹のようなものです」

赤羽からの紹介を受けてから火咲は咳払いをして、

「最上火咲よ。今日は特別にあなたの腕前を見てあげる。感謝しなさい」

「は、はあ……」

気の抜けた返事の怜悧。頭を抱える赤羽。少しだけ笑いを堪える甲斐。

「さあ、へ、へ、変態師匠!時間を計りなさい」

「……本当にそのキャラで行くのか」

言いながら甲斐はスマホを出してアプリを起動する。

「……よく分からないけど、」

構える怜悧。

(初対面の相手でも私は甲斐怜悧を演じてみせる。それくらい出来なきゃ……!)

(甲斐怜悧さん。あのアドバンスの母親。私が知るのはそれくらい。構えもヒエンさんとは全然違う)

火咲もまた構える。その構えはかつての赤羽美咲そのもの。

「とりあえず120秒ほどで。お互い怪我しない程度に。……久しぶりだな。はじめっ!!」

甲斐の合図と同時に両者が踏み込む。

畳でなく、フローリングを踏み入れ、体重を速度で運ぶ。

「せっ!」

前に出した足。わずかに足裏で摩擦を作ってからつま先の力だけで火咲が前に跳ぶ。

「!」

距離感を間違えたかのように、突然火咲の右足が怜悧の眼前にまで伸びる。寸前で防ぐ。

その蹴足が地に戻る前に怜悧が一歩前に出る。体格で有利な分怜悧が一歩すれば火咲の形勢は不利となる。

筈だった。

「っ!」

殴るには少し届かず、蹴るには近すぎる距離に怜悧は体を運んだつもりだった。だが、火咲はまるでそれを見越していたかのように蹴った足とは逆の軸足でわずか背後にだけ跳んでいた。

距離を誤ったと怜悧が重心だけでもと背を反らした瞬間に、

「せっ!!」

再び軸足だけで火咲が宙を舞った。下半身全体を独楽のように空中で回転させ、軸足だった左足で怜悧の側頭部を蹴り飛ばす。

「!?」

反応できない衝撃に脳を揺らしながら怜悧が後ずさり、体勢を低くする。

(何……今の動き……完璧に私の動きに合わせてきた……!?どれだけ経験値があるの……!?)

(ヒエンさんより少し背が大きい分、ちょっとだけ計算狂いましたね。久しぶりの空手、いい空気です)

着地した火咲は、右に左に重心をずらしながら怜悧へと接近する。動く距離そのものは短く、しかし、重心の動きはかなり精密で過激で捉えがたい。

怜悧が勢いのままに、しかし決して無邪気ではない前蹴りを放つ。体格差を考えればこの一撃で決着がついてもおかしくない。況してや怜悧の怪力だ。救急車沙汰になってもおかしくはない。

だが、直撃はしない。相手の腹を狙った蹴足はまるで氷の上を滑るように掠めてしまう。

「くっ!」

次に振り下ろすは手刀。空手の試合で使われることは稀だが、体格差があるならば時に単純な殴打よりも威力が出る技。最も体重が乗る角度で振り下ろされた手刀。しかし、火咲は左の拳で真っ向から怜悧の手首に打ち込んだ。

「!」

手刀の最大の弱点を突かれ、激痛に怯む怜悧。

(嘘でしょ!?今の手刀まで完璧にカウンターを決められた!?どんな達人よ!?)

(朱雀で焦らし、玄武で完璧にカウンターを決める。久しぶりにうまく決まりました)

わずかに口角を上げる火咲。しかし踏み込まず。怜悧の視線を正面から見据える。

自分より頭一つ分よりも背の低い小柄な少女にしか見えない相手に完全に手玉に取られた怜悧は、

「うあああああああ!!」

考えなどない猛攻を仕掛けた。その怪力故一度でも直撃が通れば間違いなく相手はバランスを崩しそのまま押し切られるだろう。理屈ではない理屈が怜悧を動かし、そしてその攻撃は火咲には掠りもしない。

拳の攻撃はその手首への衝撃でずらされ、足での攻撃は脛を押さえて止められる。

足による回避も防御も行わずに握り拳だけで全ての攻撃を対処される。その動きは20年以上前なら誰でも知っている拳の死神の常套手段だが怜悧には知るよしもない。

そうまでして、しかし火咲は未だに攻撃へと移る気配を見せない。

(何が……したいのよっ!!)

次に放ったのは回し蹴り。下がらねば回避は難しく。その威力は防御を許さない。たとえ拳の死神であっても拳だけでは対処できない一撃。しかしそれを火咲は膝で受け止めた。

「!?」

相手の脛が火咲の膝に吸い込まれるように当たり、再び威力の天秤が生半に折られる。

「くっ!!」

痛覚と焦燥が加速する。ただ一度当たりさえすればいい。それだけなのにそれすら叶わない。

「……あの子、怜悧を焦らせて何をしようって言うんだ?」

甲斐の疑問。その視線をかつてとは違う目線で受けながら火咲は再び小さく笑う。

「このっ!!」

正面からの力ずくの拳、前蹴り、側面に回っての回し蹴り、一気に距離を詰めてからの膝蹴り。

それらが全て火咲の制空圏に阻まれていき、ついには一度も直撃を許さないまま120秒を告げる電子音が響いた。

「はあ……はあ……はあ……」

「この程度ですか?……こほん。拳の死神の娘がこの程度とは呆れるわね。わざわざこちらから攻める価値もないわ」

「……私、そんなでしたか?」

赤羽がため息。少しだけ甲斐が笑う。

対して怜悧は、呼吸を荒くしている。小翠が相手でももう少し抵抗は出来る。しかしこれだけ攻撃を完全にいなされ、流され、手加減されているというのは癪だ。

(……どうする……?ここで折れる……?)

頬を垂れる汗。逡巡する思考。脳裏に一瞬浮かぶ彼女の顔。躊躇しながらも踏み出した足。

「っ、怜悧!!もう終わってるぞ!!」

甲斐が叫んだ時には怜悧が踏み出し、火咲に向かっていた。

「うあああああああ!!」

「……」

怜悧の拳。それに合わせて火咲もまた拳を繰り出した。

「あれは……!!」

甲斐と赤羽が同時に驚きを表した。互いに拳を相手の胸に打ち込み、全ての力を注ぐ。

「……青龍激突……」

赤羽が思わず胸を押さえる。

「くっ!!」

思わぬ激突に怜悧が歯を食いしばる。体格でも力でもこちらが上の筈なのに全く下がる気配がない相手。

何よりさっきまでなら回避することも出来たはず。なのに何故……?

「全て、吐き出しなさい!」

「え、」

「中途半端な思いじゃ、あなたは押し負けて……死ぬだけよ!!」

「死ぬ……?私が……?」

「外に出したい何かが、誰かに聞いて欲しい言葉があるのなら、それを吐いて力に変えなさい!!」

怜悧の体がわずかに宙に上がる。胸への圧力が加速する。わずかに蘇るルネに襲われた時の感覚。

そしてあるはずがない、粉々にされた彼女の最期の瞬間。自分で砕いた彼女の肉体の感覚。

「うああああああああああああ!!」

奮起する。力を込めて足を前に進める。火咲の拳が突き刺さったこちらの胸が変形し、いつ千切れ跳んでもおかしくないまでに潰れて擦れる。心臓の音が相手の拳に乗る。かつてとは逆の禍々しい記憶。

「わたしは……わたしは……怜悧を……怜悧を……」

「……っ!」

「わたしは、怜悧を殺さなきゃいけなかった……でも、殺したくなかった……だって、だって、だって怜悧は私の……一番の……一番、一番大好きな……大好きな人だったんだからぁぁ!!」

額と額がぶつかり、全ての体重が火咲を押し戻す。

「ずっと傍にいたかった……ずっと、ずっと……本当の甲斐怜悧として……私が夢見る甲斐怜悧として……怜悧は……生きてて欲しかった……私が、怜悧の影になったっていい……代わりにテロに遭って死んだってよかった……でも、でも……だったら誰が正輝達を守るのかって……」

「……姉さん」

「考えて考えて……どっちがいいのか分からなくって……気付いたら……わたし、怜悧を……怜悧を……」

退く拳。体重が軸足にのしかかり、腰骨が唸る。

「本当の甲斐怜悧だったらこうする……皆の甲斐怜悧だったらって……そうして、怜悧をわたしは……わたしが信じてた甲斐怜悧になりすまして……けど、けど、けど……!!」

軋む両足の筋肉が隆起する。全ての力を爆発させる。

「甲斐怜悧になって、皆を助けて、守って、それで、それで、甲斐怜悧は誰が助けてくれるの……?怜悧のことを誰が守ってあげられるの……?わたしが、怜悧を助けてあげなきゃいけなかったのに……!!」

拳に相手の心臓の音が重なる。同時に思い出される血だらけになった彼女の姿。

「なのに、なのに、わたしが怜悧を殺したんだ……わたしが、わたしが……わたしを!!!」

「……人はどんなに姿が変わろうが、名前が変わろうが、別の誰かになることは出来ない!」

「!」

「悔やんでもいい。悲しんでもいい。けど、自分で自分を否定したら、そんなあなたを信じて愛する人達を裏切ることになる!!誰かに偽ったとしたなら、違う自分を見せてしまったとしたら、それを否定できないのなら、それでも偽った自分を意地でも貫きなさい!!自分をしっかり持ちなさい!!」

「でも……でも……怜悧が!!」

「あなたも怜悧でしょうが!!」

「……っ!!」

「悲しんで全てを解き放って、そうしてまた自分を見てくれる人に誇れる自分を取り戻しなさい。そのために必要なら信頼できる人に胸を貸してもらいなさい!自分の弱さを誰かに見てもらうことは悪いことじゃないから……!!」

「……そんな、の!!」

やがて、両者の拳は相手の心臓を捉えたまま、胸の摩擦と弾力に滑り、二人は前に倒れ込んだ。

「拳の死神譲りのこの馬鹿力。中々正面から受け止められる人はいないでしょう。ですが、今はこうしてあなたの前に確かにいる……時間なんて気にしないで力の限り泣き叫びなさい。少女にはそれが許されています……!」

火咲が怜悧を向き、にやりと笑う。その表情は甲斐も赤羽も見たことがないものだった。

「わたし、は……」

泣きじゃくりながら怜悧は火咲を、甲斐を、赤羽を、正輝やせつな、三咲を見る。

「わたし……うううう、わたしは、怜悧を殺したくなかった……でも、でも……怜悧が何を考えているか分からなくて……ううん、本当は分かっていた。怜悧は、わたしに怜悧を倒させるためにわざと、悪役になったんだって……テロを起こしてお父さん達の邪魔をする奴らを少しでも減らそうとして、そんな……そんな、そんな怜悧の願いを叶えてあげたくて……間違ってるって分かってたのに……分かってたのに……殺したくなかったのに……でも……でも……ううううう、うああああああああああああああああああん!!!!」

床に拳を打ち付ける。何度も何度も。喉と拳が壊れんばかりに。

「……姉さん」

正輝は姉に歩み寄った。その手には見覚えのある眼帯が。血で汚れてしまった彼女の眼帯。最期まで彼女を守り続けた眼帯。

「……ううううう、怜悧……怜悧……ごめんなさい……ごめんなさい!!ごめんなさい……!!!」

泣き崩れた姉を正輝は優しく抱きしめた。わずかに蘇った悪寒を全力で押さえ込む。

「俺も、もう負けない……。守れなくて怖かったあの時のことを忘れない。忘れない上で負けない……!!」

「……私も」

せつなもまた歩み寄る。3人が揃うのを見て甲斐達が息をのんだ。しかし、

「!この気配……!!」

火咲が勢いよく立ち上がる。と、

「!?」

突然怜悧が正輝とせつなを弾き飛ばした。

「ね、姉さん!?」

それは先ほどまでとは比べものにならない力。

「な、なに、これ……からだがうごかない……」

「怜悧!!」

甲斐が向かおうとするのを火咲が止める。

「赤羽!?」

「予想外の出来事が起きました……」

火咲が眼光を鋭くする。その先で怜悧の体が黒く染まっていく。

「憎しみを捨てるとは、馬鹿な奴め」

口ではない場所から謎の声が響く。

「何者です!?」

火咲が声を飛ばす。

「我が名はクライム。ヒディエンスマタライヤン様の使徒」

「ヒディエンスマタライヤン……!?」

火咲が驚き、その単語を受けた甲斐が突然頭痛に苦しむ。

「廉君!」

「あ、頭が……!!」

「ふん……ブフラエンハンスフィアの唾棄か。もはやその器に何の価値もないのはこの娘の中で知っているぞ」

クライムの笑う声だけが響く。

「姿を見せなさい!!」

「ふん。スライト・デスの輩が求める遺伝子の持ち主か。しかし貴様ごときに何が出来る?」

「その子の体から離れなさい!!」

「ふん。誰が貴様などの……」

クライムの声が笑うと、怜悧がまるで操り人形のように動き出した。

「あ、あ、」

「力を解放しろと言われていたな?どれ。私がやり方を実演してやろう」

突如。怜悧が尋常ではない速さで地を蹴って距離を詰める。相手は火咲だ。

「!」

気付いた時には既に火咲の体が宙を舞っていた。

「赤羽!!」

叫ぶ甲斐。その眼前に火咲が倒れ、吐血する。

「しっかりしろ!!」

「……ぐっ、ヒエンさんは……下がってて……」

「け、けど……」

「何のために私や和佐さんがこの世界に来たと思ってるんですか……?あなたをもう二度と黒主零にしないために……ぐっ!!」

しかし火咲の吐血が止まらない。

「あ、あ、あ、」

怜悧が涙を流す。それでも体の自由は一切きかない。憎むべき相手はその姿さえ見せることなく。

「ね、姉さん……」

立ち上がる正輝。しかし揺らぐ脳が体の自由を奪う。

「無様なものだな。このまままとめて始末してやろう」

笑うクライム。涙を流しながら怜悧が甲斐達へと迫る。その時。

「……っ!!」

甲斐の脳を酷く揺るがす光が彼我の間に降り注いだ。

「これは……」

同時に三咲も激しい目眩を起こして膝を突く。両者の前で降臨した光はやがて紫色の電光を表す。

「……あなたは……!!」

赤羽と火咲が同時に驚きの声を出す。

「……貴様……!?」

クライムもまた初めて笑い以外の声を出した。

怜悧の前に立つのは紫電の花嫁……即ちパープルブライド。

「あなた、何を……」

「……許さないから」

「え?」

「この敵を許せないから……!!!」

パープルブライドの仮面の下の眼光が怜悧の背後で笑う闇を貫く。

「貴様は、まさか32柱目の……!?」

驚く闇。対してパープルブライドがその手を掲げると、

「な、何だ!?」

甲斐、赤羽、火咲の胸が一瞬輝き、そして赤羽の中から出た輝きがパープルブライドの手に飛来する。

「あれは……まさか零のGEAR……!?」

「そうか……今ここには零のGEARの歴代持ち主が……!!」

「……この力は本来、こうやって使う……」

パープルブライドが光を帯びた目でクライムを睨む。すると、突然虚空が破けて怜悧を纏う闇がそこに吸い込まれていく。

「馬鹿な……!?なんだこれは……!?」

「姿を見せないのなら世界から消えなさい……調停者の使徒!!」

「馬鹿な……!!騎士と言い貴様と言い、何故本来干渉しないはずの存在が……!!」

焦燥と絶望の声を吐きながらクライムは虚空へと消えていった。残ったのは泣き崩れたままの怜悧だけ。

「……」

「え……?」

パープルブライドは三咲の手を引くと、まっすぐ怜悧へと投げ飛ばす。

「な、何が……」

「……」

パープルブライドは何も言わず、自ら開いた虚空の中に消えていった。何も言えずにいると、

「お母さん……」

「怜悧……!」

すぐに怜悧の方へと向き、娘の体を抱きしめた。

「お母さん……わたし……わたし……」

「もういいの……もういいんだよ……怜悧……」

「うううううう、うわあああああああああああああああん!!!!」

再び壊れたかのように怜悧は泣き叫び始めた。それを邪魔する者はもういない。

「……と言いたいところですが、」

火咲が立ち上がる。流血に変わりはないが、表面上の呼吸は整えている。

「どうしたんだ?」

甲斐が尋ねると、

「さっき言いましたよね。約束があると」

「あ、ああ。そう言えばそんなこと言ってたな」

「私は今日この日のためにとある時空からある方をお連れしてきたのです」

そう言って火咲の傷だらけながらも強い目はせつなを見た。

「え……?」

せつなの目の前。火咲が指を鳴らすと、道場のふすまが開き、

「……せつな……?」

そこにメナージュが姿を見せた。同時に再び甲斐と三咲に強い頭痛が襲う。

「え、こ、この人は……」

初めて見るはずなのに、理由も分からずせつなは目から涙を流していた。

どこから沸くのか分からない意味の分からない情動に何故か涙が止まらなかった。

「……もしかしてこの人が……」

甲斐の質問に火咲は首肯する。

「この人の名前は梓山美夏さん。赤羽研護さんと結婚して娘を産んだ。でも時空の中、娘だけでもどうしても生かしたいとそう思って私に託したんです。そうして長い間体を休め、今やっとこうして姿を見せることが出来るようになったんです。その娘の名前は、赤羽せつな」

「赤羽せつな……」

「黒主せつなさん。あなたの本当のお母さんですよ」

火咲が優しく言うと同時。メナージュは全ての感情を吐き出しながら我が娘を抱きしめた。

「せつな……せつな……!!やっと、やっと、やっと会えた……!!」

「……お母さん……?わたしの、わたしの、本当の……」

抱きしめられながらせつなは涙を流す。今まで押し込めてきた感情が流れ出す。

隣で涙する姉に負けないほどに大きな涙を叫び果たす。

周囲はその目にどこか感動と寂しさの涙を込めながら安堵の息をつきつつ二組の親娘の姿を見やった。

「……やっと会えたな」

甲斐もまた久方ぶりに涙を流す。その甲斐に火咲が歩み寄る。

「赤羽せつなさんは、ある意味私達赤羽美咲の始祖に当たります」

「え?」

「初代赤羽美咲は本来以降の赤羽美咲とは関連がありません。何故なら初代赤羽美咲そのものに特別な遺伝子は持っていないからです。それに初代赤羽美咲が初めて最上火咲になったのはこの奇跡の世界です。それまでいろいろな世界に赤羽美咲と最上火咲はいました。……彼女はその赤羽美咲と最上火咲の始祖に当たる存在です」

「……せつなが赤羽の始祖……!?」

「あの人、梓山美夏さんはとある理由があってあなたの傍にいられなくなった人なんです。初代含めて赤羽美咲があらゆる世界であなたと一緒だったのは、あの人の後悔や希望と言った願いが込められていたのかも知れませんね」

そう言う火咲の目にも確かな涙があった。


やがて、深い夜に。怜悧とせつなが泣き止んだ夜の縁に。

メナージュが語る。

「……改めて。梓山美夏です」

「……何だかはじめましてじゃないな」

「いいえ。はじめましてでいいんです。でも、ひとつ。お願いを聞いてくれませんか?」

「お願い?」

「今までせつなを、私の愛しの娘を育ててくれたこと。本当に感謝します。でも、でも、私が元の世界に置いてきてしまった大切な人を、赤羽研護を助ける力を貸してください……!!あの人は今、滅亡を迎える世界にいます……!どうか、私にあの人とまた会うための力をください……お願いします……!!」

2040年10月1日。メナージュ・ゼロは甲斐廉に出会った。大切な人を、助けるために。|

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