導入編

 ふいに目が覚める。二度まばたきをして、鈴子は顔を上げた。

 彼女は椅子に座っていた。少し動くだけでも、ギイギイと耳障りな音が響く。すうっと鼻で息を吸うと、生ゴミのような臭いがした。思わず鼻をつまむ。

 周りを見渡すと、妙に薄暗い。床も壁も天井も灰色で、窓はない。不規則に明滅する電球だけが、鈴子の頼りだった。

 ここは地下室だ。そう悟る。

「おはよう。鈴子」

 変声機を介したような、とても低い声が響いた。もちろん鈴子の声ではなかった。

「お目覚めはいかがかな。椅子で眠ると体が痛むぜ」

「ごきげんよう。鼻をくり抜いて洗濯機にぶち込みたい気分ですわ」

 鈴子は前を見た。長机を隔てた先には、全身黒い服の男が、足を組んで座っていた。顔を隠すためか、クチバシのようなペストマスクを着けている。

 鈴子も足を組んだ。パジャマだから動きやすい。

「僕のことは、そうだな、バードとでも呼ぶといい」

「あら、中学生みたいなセンス。漆黒のフェニックスでもよろしくて」

 平静を装いつつも、鈴子の胸は激しく打ちつけていた。昨日までベッドで寝ていたはずの自分は、なぜか古ぼけた椅子で目覚めた。明らかなる非日常。

 これから何が始まるというのか。寝起きの頭を最大稼働させる。

「鈴子。君に会えて、本当に嬉しいよ。握手しようか」

「勘弁してちょうだい」鈴子が苦笑いする。「握手券もないのに」

「ちょっと待ってくれたまえ。握手券なんてなかったじゃないか」

「それはデビュー当時の話ですわ。六年前のこと、よく覚えてらっしゃって」

「当たり前だね。六年前に初めて鈴子を見てから、もうゾッコンなんだな」

 自慢でもするように、バードはフンと鼻を鳴らした。

「魔法少女、特に鈴子のことなら、なあんでも知ってるぜ」

 この状況に慣れたわけではない。だが、鈴子は少しばかり落ち着きを取り戻していた。

 自分とバードの関係は、アイドルとファン。そうとあらば、こちらの要求や質問は多少まかり通るのではないだろうか。たとえば、あなたのことが知りたい、とか。

「バードのこと、教えてくださいまし」

「トークが下手だな。魔法少女の話題が出たんだから、それについて掘り下げるべきだろう。だからトークが滑るんだよ、鈴子」

 一瞬、拳を握りしめた。だが理性で堪える。伊達にアイドルをやっているわけではない。

「じゃあ……」鈴子が両手を机に置いた。「魔法少女史上初のミリオンヒットは?」

「『ポラリスガールズ』」

「立てば猫背、座れば下っ腹。歩く姿は?」

「最敬礼」

「私のデビュー曲は?」

「『快速特急電信柱』」

「名前、年齢、血液型、身長、ライブでの髪型、好きな大学群」

「伊勢原鈴子、二九歳、A型、一六二、ポニーテール、関東上流江戸桜」

「合格ですわ」

 自分が優位であると思わせるために、鈴子はあえて微笑みを浮かべてみせた。

「それで、バード。あなたの目的は? 賭け麻雀?」

「そこで待ってな。すぐに準備する」

 バードがすくりと立ち上がり、鈴子に背を向ける。黒色の扉まで歩み寄って、ドアノブの鍵穴に鍵を入れた。

 ゆっくりと、鈴子も立ち上がった。脱出を試みるためだ。

「ところで、鈴子」バードが振り返る。「僕だけが相手じゃないぜ。監視カメラがある」

 鈴子はそそくさと座り直して、辺りを見回した。扉の近くの天井に、確かに監視カメラらしき半球が設置してあった。

「下手に動いたら、何かが起こるかもな。刃物か、鉛玉か、あるいは……」

「詭弁ですわ。ゾッコンなアイドルの顔に、傷なんて付けられますの?」

 バードはほんの少しだけ硬直したが、誤魔化すように高笑いして、そのまま扉の向こうへと消えていった。

 鈴子はといえば、それとなく死を悟り、今までの思い出を振り返っていた。

「アイドル、ね」

 決して順風満帆な人生ではなかったが、それでも充実していたと声高々に叫べるほどには、伊勢原鈴子を楽しんでいた。

 幼い頃から、鈴子はアイドルを志していた。美しく着飾った女の子が歌って踊る、その光景。無謀ながらに憧れてしまったのだ。

 詐欺まがいの養成所に入り、アルバイトをしながら通い続けた。同期が養成所を見限り、次々と辞めていく中、鈴子だけが残った。

 当時から歌もダンスも稚拙であり、到底世に売り出せる人材ではなかった。しかし、何年も鈴子を見続けた大人たちは、彼女の泥臭さと粘り強さを評価した。

 長期に渡る下積み期間の末、伊勢原鈴子はソロアイドルとしてデビューした。だが人気は出なかった。

 数年後、篠崎加奈子と町田心を加えた三人で、アイドルグループ――魔法少女を結成。心と加奈子の人気にあやかる形で、鈴子は現在もアイドルを続けている。

「よいしょ、っと」

 扉が開いて、バードが入ってきた。手にはグラスが二つ。どちらにも少量の液体が入っている。水ではなさそうだ。

「ほれ、日本らしく水のサービスだ」

 グラスのうち、一つが鈴子に差し出される。彼女は受け取らない。

「交換しても?」鈴子が低い声で言う。「あなたが準備したのでしょう。毒の可能性がありますわ」

 バードが席に座る。「交換どころか、混ぜたっていいぜ。見ててくれよ」

 机の上に、二つのグラスが置かれる。そして片方の液体を、もう片方のグラスに入れた。バードがグラスを小さく揺すって、二つの液体を混ぜ合わせる。

 混ざった液体の半分を、空っぽの方のグラスに注ぐ。そして鈴子に渡される。

「何もないのですね」今度は素直に受け取ってみる。

「ああ、今は何もない」あざけるように、バードが笑う。

 それからバードは、服のポケットから、透明なポリ袋を取り出した。中には三つの錠剤が入っていた。それが机に置かれる。ポリ袋はまたポケットに戻っていった。

 水色の小さな錠剤。鈴子から見て、左からA、B、Cと書かれている。バードから見たら、左からC、B、Aだ。

「脳汁の準備はいいな? 一緒にハンバーグになろうか」

 バードが右手を差し出してきた。挑発のようだった。

「ちゃんと中まで加熱してくださいまし。生焼けじゃ楽しめませんもの」

 差し出された手を、鈴子が握った。

 冷たい感触がして、彼女はわずかに眉をひそめた。

「よく聞いてくれ、鈴子。僕は喋るのが苦手なんだ」

 何かが始まるらしい。鈴子は握っていた手を離して、素直に耳を傾ける。

「これからゲームを始める。とはいっても、簡単なゲームだ。三つの薬の中から一つを選んで、飲んでもらう。それだけだぜ」

「拍子抜けしましたわ。私では役不足でしてよ」

「鈴子が飲んだら、次に僕が飲む。それで何もなかったら、最後の錠剤を鈴子に飲んでもらう」

「ちょっと待ちなさい」鈴子が早口になる。「何もなかったら、って?」

「何かがあるってことだろうね」

 きっと毒だ。鈴子は深呼吸をする。手に当たる息が冷たい。

「ゲームだなんて、語弊がありますわ。あなたが、どの薬がハズレかを知ってたら、ゲームはゲームではありませんわ」

「馬鹿だな」バードが肩をすくめる。「君を殺す気なら、とっくに殺してる。これは余興なのだ。アイドルらしく振る舞いたまえ」

 監視カメラが、一瞬だけ赤く光った。

「踊り狂って死ね、ってことかしら」鈴子が呟く。「ブレイクダンスでも習っておくべきでしたわ」

「構いやしないさ。カメラの死角にさえ気を付けてくれたらね……」

 カメラの死角。同じことを、他の誰かにも言われた気がする。

 ふいに鈴子が思い返したのは、ライブ前の楽屋だった。

「今日のライブはブルーレイになる。現場のお客さんも大事だけど、カメラの死角にも気を付けること」

 そう語るのは、魔法少女の右ポジションを担当する加奈子。鈴子より八歳も若いが、どのようなパフォーマンスも完璧にこなす。

「違うよ、加奈子」

 割り込んできたのは、同じく魔法少女のメンバー、心だった。

「ブルーレイになるとしても、カメラが捉えてるのは、お客さんを喜ばせるわたしたちだよ。それに、チケットを買ってくれたお客さんに失礼じゃん」

「確かに、そうだけど……」

 心の歌は魅力的であり、魔法少女の一番人気を不動のものにしている。加奈子と同い年だが、馴れ合うつもりはないようだった。

「地下のライブハウスで『快速特急電信柱』歌ってた頃……デビューしたての頃から、会場に来てくれるお客さんだっているんだよ。いくら映像に残るっていっても、目の前のお客さんを疎かにしちゃダメ。お客さんファーストだよ」

 馴れ合いはなし。それは加奈子だけではなく、鈴子とも同様だった。三人ともソロアイドルで活動していた時期があったが、その頃のライブ映像を、三人とも見たことがなかった。

「鈴子さんも、気を付けて」

 偶像――アイドルとしてのプロ意識があったのかもしれない。たとえ同じグループだったとしても、昔の未熟な姿を見てはいけないという、プロ意識。

 そうだ、自分は今、カメラを向けられているのだ。

「楽しみですわ」

 鈴子は、口角を上げようとした。緊張を紛らわせようとした。

「ゲーム、引き受けましょう」

 ぎこちなく、それでも上がった口角。彼女が得意とする、不敵な笑顔を浮かべた。

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