第7話 ラスト(木型)
銀座の中央通り近くにありて、靴の木型(ラストLast)より起こし作成する店あり。韋眞子頻りに英国などへ発注し、木型より起こし靴作らしむも、不便ありて、国内に店を探し、うち一つに、頻繁に作製を依頼するやうなりたる。
今日は新しきブーツに新たなる木型を作るとて、さまを看、皮革の吟味も兼ね、銀座を訪ふなりけり。
「わたしを荘厳するにはさまざまな方便を用いなくてはならないわ。たとえば眞言宗の僧侶が塗香し、身密口密意密を整え、灌水して三鈷杵や十字金剛羯磨杵を手に念じ、魔を裂き、印契を結んで護摩壇を焚き、観想によって五色の雲や水晶や七宝や紫摩黄金で荘厳された道場を現象させ、その至高の空間で宇宙主宰の法身仏と合一するようにね」
3Dスキャンやら石膏による型取りなどにあらず、敢えて手作りせらゆる木型に拘るは、すなはち刹那のかたちを写せるとて、うつせみのフィットの感に繫がらざる、といふ現実理の妙義あればこそ。工匠職人の知識と経験の総和なるもの、すなはち勘に拠るしかあらざればなり。
韋眞子、靴屋に着きて小さき古き店の奥なる靴用ミシン置かれたる作業部屋に入る。油や墨に汚れたる、疵あまた附きし革の前掛けしたる職人の、キップ(生後6か月より2年くらいの牛からなる革。なを生後6か月に満たぬ仔牛よりなる革をカーフといふ。カーフは疵少なく、しなやかなれども、キップ革は強度と厚みに優る)に型紙を当て、革包丁にて裁断するを見ゆるなり。
「これですよ。ちょうど、ご注文の革を手裁ちしていたところです」
「グッド・タイミングね。さすがわたしだわ」
職人頭、眼を丸くし肩を竦めぬ。
革を手に取りて確かめ、また初めて見(まみ)ゆ木型を撫で、愛でたり。
「美しいわ。藝術ね。実用の藝術。眼を樂しませ、肌を樂しませ、鼻腔を樂しませ、歩みを樂しませる。あゝ、美しい。傀儡であろうとも。
そうよ、それでも敢えて果たすのよ。
生活を賛美し、生を肯定する、自分を飾り立てる本能は間違っていないわ。子孫繁栄の法則とも合致するし。ふふ」
さやう言ひて髪靡かせ、狭く種々雑多に物散らかりたる作業部屋を、身体より発する光輝にて照らす女王のやう、韋眞子女は振舞へり。
靴屋の用を済ませども帰らず、外堀通りに出でて、銀座6丁目交差点にて曲がり、並木通り(銀座7丁目)のルイ・ヴィトンLouis Vuittonに入りぬ。ヴィトンと言へば、モノグラムなるが人気と言へども、敢へてマルチ・カラーを選ぶ癖ありき。
マルチ・カラーのブラスレ・ラック・イットBurasure Rack It(仏:Porte-Burasure Il)をぞ以前購入せしことある。ブロン(白地)を買ひけり。されどもいまノワール(黒地)をしみじみ見入りたり。想ふ。装飾品や、装身具とかやといふもの、もともと神物霊鬼に係る意味あり。たとへばマスカラなど中近東などにて眼の災ひを避くためにぞ行ひにけるあり。
「そう言えば」
最近放映されしテロのニュースを思ひ出しけり。凄惨なりき。無辜の人(少なくも韋眞子には無辜と思ほゆる人)、その数十名なる生命の一刹那に失はれし暴虐、赦し難き残忍限りなき事なり。
この世は昏く復讐と憎悪怨恨に満ち満ちにてあり。ただただ空しく暴力ぞ猛威をふるふ。正論を言ふ心正しき者らは往々力弱く、眞實正義は儚し。善人皆暴力のまへに屈すなり。屈してしまわざるを得ざり。口惜しき事果てしなく、天涯を越へ叫び貫かむや。無念の情、切歯扼腕ならざらむや。韋眞子、考(かむが)ふるなり。
「復讐を肯定することに問題があるかもしれないけど、現実がこうである以上、少なくとも当事者が当事者に対して爲すというあたりまえな原則を守らなければ、恐ろしい血の報復の連鎖を生むわ。
加害者でない者が復讐され、被害者でない者が復讐を叫ぶ。理不尽が異常な残虐を産むのは火を見るよりも明らかだわ。加害していない者が復讐されれば、その憎悪は数万倍になる。人の憎悪の法則は怖ろしい。数千倍、数億倍になる。信じ難い、驚くべき凄惨と残酷とを生む。
それなのに、そういった暴虐は已む事を知らない。あゝ、何て恐ろしい世界。美しくもないし、眞実でもない。美とは百数十億光年もかけ離れているわ。日本だって他人事ではない」
さやうつらつら思ひつつも、ふと気になりしことありて、同じ8丁目中央通りなる本屋に入りぬ。
「そう、これだわ」
セビリャのイシドールスSan Isidoro de Sevilla(羅:Isidorus Hispalensis、五六〇年頃‐六三六年)に関する書籍なり。中世初期のセビリャ大司教なりけり。
ヒスパニアの文明をぞ蛮族の野蛮の氾濫より守りたる。神によりて遣はされし人なり。これによりて六五三年に開かれし第8回トレド教会会議にて、最高の賛辞にて讃へらゆれ、六八八年に開かれし第一五回のトレド教会会議にて、こなる大賛辞ぞ正式に承認せらゆる。偉大なり。
さて夕刻。秋葉原に寄りてPCを覧ずるなり。タッチパネルを試し、いま所有せるより良きレスポンスを択ばむとす。
去る量販電機店に入りぬ。広く絢爛、横溢しあざやかなりけり。
PCならぶコーナー見ゆ。未来を見むがごとき幾何學の明快。さまざまに触れ、観照し、鑑賞する。ふと気附く。
「あ、柊斗(しゅうと)だ」
思はず小さき声ぞ洩る。見紛ふこともなき、高貴柊斗たる姿あり。知性に研ぎ澄まされたる高貴の横顔。冷凛とも非情とも言ひ得る、いずことはなく爬虫類さへ連想さしむ無表情。心に疼くものあるやを、韋眞子、自らに問ふ。否や。なし。一切。不可思議なり。奚(なんぞ)や恋といふ。知らず。誰か何か知らむや。
「ふふ」
韋眞子は敢へて廻りて柊斗のまへに出でたり。
「久しぶりね」
男、咄嗟に冷淡装ふも眼は泳ぎにけり。やがて理性に拠りて定まりぬ。
「ああ。元気そうだね」
次ぐべき言の葉、繋ぐことなし。韋眞子、微笑み泛べぬ。
「そうね。だいたい元気ね、わたしは。で、あなたは、どう? まあ、あなたも元気そうよね。ふふ」
「そうでもないさ。忙しくてね。研究室はストレスが溜まるんだ」
「でしょうね。一杯飲みにいかない?」
彼コンマ一秒、途惑ふも、
「いや。残念だけど、時間がないんだ。さっきも言ったとおり、忙しくてね。いまも研究室で使う私物のPCを探していたんだ。すぐに戻らないと」
「あら、残念ね。じゃ、またね」
柊斗がさやう言ふと知りて敢へて訊きし問ひなり。自らその心余裕を悦び樂しむ。力在りし者力試して樂しむがごとし。探せども気に入りしタッチのPCなし。あたかも沙漠のごとし。
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