第6話 あみ

 以来、韋眞子インターネットを用ゐ、璃厭の絵を探せり。さまざまに観るらし。眞神を画けると想へる風景多かれど、古き西欧の街など描くもあり。また歴史、神話とかやの素材も試みけむ作あり。


 龍神の図を覧ずれば、胸すくがごとく想ひ、いと好ましく思ほゆ。細密精緻に鱗の一つ一つの奥行やら構造やら素質やら手触りやらも晰らかにせり。鬚や鬣もしかり。視覺により解析せる科學のごとし。現実へ眞に迫る。眞実の魂魄に触るなり。現実を創るがごとし。


「これは哲學だわ。論理に拠らざる哲學。東洋的な、眞の哲學だわ」


 ツイッターにて璃厭のアカウントをぞ見附く。展覧会の告知などをツイートしてをり、当人に相違なしとぞ思ふ。フォロワーとなるもフォロー返しなし。時折ダイレクトメールせば返信あるも、当たり障りなき返事のみなりき。


 七月、展覧会の告知あるを見て、熱き陽射し、紫外線の肌を焼かむとすをも顧みず、往く。来たる廿三日、同じ画廊にて催さゆるらし。展覧会の名は『美(うるは)し、眞秀(まほろば)Evolution』なり。韋眞子、盛夏の候、額の汗ぬぐひ、白く炙らゆれ、気怠き静寂にあり。狭き路なるも街路樹豊かに木漏れ日ある其處に画廊、夜見しときとは趣き異にしてたたずむ。


 人僅かなるはあへなむ。それもさやかに思へ、豫想にたがひ、表情を強張らすもなく入る。璃厭ゐたり。会場奥にありたる肘掛付の椅子に脚組み頬杖突きて坐す。半ば翳りて都会に墜ちけむ堕天使ルシファーLuciferのごとし。


 ルシファーの名は明けの明星を意味せしラテン語(ルーキフェルLūcifer)に由来す(因みにフランス語・スペイン語‐いずれもLuciferと綴る‐にてはルシフェル、イタリア語はルチーフェロLucifero, ロシア語にてはリュツィフェールЛюцифе́р)。


 黒髪は幾分伸びかつ亂れ、眼窩には隈深くあり。瞼は二重といふよりか三重五重八重なるやう見ゆ。双眸茫然とし、焦点合はず視線の行く先、渺々たり。


 韋眞子、眉顰め訝しくぞ想ふ。


『いったい、彼に何があったのかしら? やつれたように見えるけど』


 歩み近づきぬ。


「こんにちは。貞観正國寺でお会いしましたよね」


 璃厭は定まらぬ焦点を急ぎ集めて見返すも、思考まとまらず、さやう唐突に話しかけし韋眞子が何者たるか記憶になき表情。女、大いに戸惑ふ。


「そうですか。すみません、憶えていません。どうぞごゆっくりご覧になっていってください」

「ありがとう」


 大いに失望するも、あへなむとぞ思ひ、心収めむ。已むなく画廊をそぞろ歩き廻りぬ。油絵とオブジェが多し。水墨は璃厭の他になし。されど少数派は璃厭のみならず。銅版画もさやうなり。ブラックボードに白きチョークで描けるもさやう。


 珍しきを楽しむも、韋眞子、或るオブジェに気懸かりするなり。

 人のかたちのオブジェなり。無表情なる昆虫のやうなりし顔の空莫がいかでか乾きたる寂しさにも見ゆる。手足細く、餓死せし人のごとし。さやうなれども鮮やかなる唐紅やオレンジや朽ち葉色やショッキング・ピンクにて染まり、肉や血色とも映えるなり。タイトルは『嘆きのアリアドネ』。

 なにゆゑ、さやう名附くるかゆかしくもさだかならず、それタイトルと実像にギャップあり、日常茶飯にあらざる深淵をぞ垣間見さしむる。


 隣には同じやう、人型ありて蒼碧や翠緑、焦げ茶色や黄橙色に染められ、長きドレッドヘアを靡かせ、黒き双眸大きく、泣きたるにも見ゆる儚し。『血の滴るヨハネスの首を提げるサロメ』と名あり。作家名を確認す。『いいさの あみ』とぞある。心に啓く雷霆の閃めきあり。

 頤を挙げ、首を回し、周囲をにらむ。それらし人物なし。獲物待つ狩鷹のごとく待つ。幾時も苦痛覺ゆるなし。


「やあ、できたのかい」

「持って来たわよ」


 交はす声聞こゆ。長き顎鬚の男と語るは、紅と桃色を交へたる薄明く柔らかき髪軽ろやかに波打たしめて肩も隠す若き女なり。フォーマルなる黒きジャケットにパンツにて、年のころ、韋眞子とさほど差異なしとぞ見ゆる。


「彼女に違いないわ」 


 さう確信するなり。違はず。璃厭は顔を背け更に俯く。女、男のしぐさを知りてか知らずにてか、一瞥さへ与へず、オブジェのまへに立ち、包みより黒きレースとゴールドのロザリオを取り出だしたり。『サロメ』に掛くるなり。


「これよ。

 ここにおいて初めて気が附いたの。何か足りないってね。アトリエにいるときは完成だと思っていたのに。やはり外に出るべきなのよ。外の刺激で初めて生命が独立するんだわ。わたしじゃない何かが動き出すのよ。彼女が自分を主張してもっと生命が欲しい、って言うんだわ。藝術って、作家の所有物じゃないってことよ」


 さう言ひて、シガリロに火を点けにけり。禁煙とふを思ひ起こせど、意に介さず。

 韋眞子近附く。


「凄いわ。

 あなたの作品ですか」


 強く瞭かなるマスカラの眼を睜(みひら)き振り返り、韋眞子を見る。


「ありがとうございます。黒いレースをショールみたいに被せたかったのよ。何となくヒスパニア的であり、カソリック的でもあり、レクイエム的でもあって、缼けていた何かがこれで加わったのよ。

 とても刺激的。見飽きないわ。残虐で、エロティックで、空莫的で、乾燥的に非情なキャラクターとの組み合わせは本当にさまざまな連想を生む。イメージの宝庫よ。

 タイトルとの組み合わせもアートの一部なのよ。サロメの物語の文學性が異なるもう一つのソースになって、味わいを複雑に深めるのよ。深遠なシンフォニーだわ。精緻で微妙なHarmonia・・・魂のエクスタシー・・・

 そうよ、わたしの藝術はConceptualなのよ」


 双眸を輝かせて熱烈に語りし彼女は日本人のやうにあらず。この強き個性が璃厭を激しく惹きけむとぞ確信しける。されども炎と氷の叶はぬ恋にありせば、Sensibleなる彼の人、さやうにやつれき。その因、この女にあるを韋眞子悟るなりけり。


「素晴らしいわ。あなた、とても情熱的なのね」

「あはは。ごめんなさい。

 つい夢中になってしまうのよ。莫迦みたいでしょ? でもいいの。気にしないわ。わたしには世間一般の習慣の方が陰湿に見えるのよ。陰険にね。堂々自慢すればいいんだわ。心に思っているなら。隠すのは自分を善く賢く見せたいからでしょ? それって道徳的なの? 倫理的なの? わからないわ。わからないから考えたくもない。

 もし世間と肌が合っていればアーティストなんかにならなかったかもね。もし人が皆樂園に生きていれば科學も藝術も哲學もなかったと思うわ」

「あなたはとても魅力的よ」

「ありがとう。あなたは何か創らないの」

「わたしは自分の人生がArtなの。砂絵みたいなものよ」

「あはは。あなたも自信家ね。人のこと言えないわ。でもそんな気がしてた。あなたのファッション見てね。実はここに着いてから最初に眼に附いたのよ、自分の作品を差し置いてね。滅多にあることじゃないわ」

「光栄ね」

「ねえ、わたしがあなたを見て何を連想したと思う」

「わからないわ」

「少しくらい考えてよ。人物よ」

「誰かしら」


 韋眞子、『そりゃ人物でしょうよ』と思ひつつ、何とはなく誰を想ひしか想像さゆれど敢へてそを言はず。


「ジョルジュ・サンドよ」

「うれしいわ。サンドは好きよ」

「そう思ったわ」

「でも男に憧れているわけじゃないわ」

「それも思ったよ。説明できないけど」

「説明では何も理解できない。ただ言葉の羅列があるだけ」

「そうね。

 ああ、何だかお腹空かない?」

「スペイン風のバルBarが近くにあるわ。よく行くのよ。わたしもこれから食事するつもりだったの。行かない?」

「是非。わたし、茨城に住んでいるからこの辺はよく知らないのよ。方向音痴だしね」

「わたしもよ。でも食べるのって、大好きだから、そういうことだけは詳しいのよ。東京で暮らして一年くらいだし、東北の田舎育ちだから、わたしも本当はよくわかっていないわ」

「食べるのって大事よ。人間は最初に腸からできるのよ」


 そう言ひて周囲を顧み、


「じゃ、わたし、ちょっとこの人と出掛けるからさ」


 さやう言挙げて出で立つ。タクシー停め、行き先を告ぐ。

 バル『Una Sirena Bonita』に入りてビールとサングリア、ミネラルウォーター、パエリア、アンチョビの浅漬け、タコのガルシア風、豆の煮込みの小皿盛、イベリコ豚の生ハムのチーズ添へ、など注文す。


「さあ、乾杯よ。¡Salud!」


 あみがさやう声を上げ、呑み、頬張り、止めどなくしゃべるなりけり。


「そして、それでね、それが・・・・・・・・・・・」


 韋眞子、しみじみ女を見、これが璃厭の愛し人とぞ思ひ、bitterを嘗むるがごとし。されどもまた、アペリティフApéritifのシェリー酒を舐むるがごとし。いかやうにも人、人生を美味なるとせむ。さこそじねん(自然、爾然)の性なれ。

 アブサンラ・クールAbsenta La Courの杯を重ね、韋眞子、遂に言へり、


「たぶん、あなたは知ってると思うけど」

「璃厭のことね」

「やっぱりわかってた? あなたは自分で言うほどあけすけじゃないわ」

「あはは、そうね。企みのない人間はつまらないわ。愛憎は人生にとってシナモンや畢撥(ひはつ)のようなものよ。魅力的な香辛料だわ。グローブ、山椒、ローリエ・・・、美味しいでしょう? 美味しかったと言うべきかしら?」


 さやう言ひ、さやかに笑みて片目閉じ、睫毛のヴェールを眸に翳すウィンク。さらに言の葉を繋ぎ、


「でもね、彼はまだわたしに告白していないわ。きっと、わかっているんでしょうね、イエスっていう返事がもらえないことを」

「そうかもね。あなたは彼を好きになりそうなタイプじゃないわ。彼にもそれがわかるのよ」

「そう。・・・たぶんね。

 でも人生はどんな奇蹟が起こるかわからないし、好きなら驀地(まっしぐら)でいいと思うんだけど。彼はそういう人種じゃないのよ。ま、だから、わたしみたいな女に好かれないんだけどね。フュシスφύσις(自然)の摂理ね。自然淘汰だわ」

「そうとは限らないんじゃない。雌雄が分かれているのは遺伝子をシャッフルさせるためなのよ。異なる遺伝子を混ぜるのが自然の摂理の目的だわ。むしろ、あなたが彼を好きになれない、彼には恋することができない、ってのは近しいからかもしれないわ。逆に言えば、わたしが彼を好きなのは遠い存在だからなのよ、きっと。

 ・・・・・いまわたしがあなたと合うようにね」


 あみ女(じょ)、髪振りて大らかに高らかなる声上げて笑ふ。


「恋は知性を曇らせるのね。あなたらしくないわ(会ったばかりでこう言うのも何だけどね!)。人間ってそんなに単純なの? 共通点や共通の趣味がある者同士が惹き合うのは、なぜなの? 一緒にいて樂しい人が好かれるのは、なぜなの?

 わかり合えることが愛し合うための大きな要因になるからだわ。人は強い絆と繋がりを求める。それはそれで生きるために必然的なものなのよ。人が社会的な生き物なのは、集団で助け合わないと生きていけないからだわ。

 だから理解し合うと脳内に快感物質が分泌されるのよ。それを餌に、その行為を頻繁に行わせるためなのよ。

 厭世的かもしれないけれど、事実だわ。無慈悲な事実は、大航海時代にヨーロッパで金よりも高価だった胡椒のようなもの、あるいは最上の鹽、強い香辛料のようなものなのよ。

 ニーチェも理性を本能のうちに数えるべきと言ったわ。愛も生存の原理に支えられた本能なのよ。脳内麻薬に餌附けされて、それを欣求しているだけなのよ。あゝ、素敵だわ。獣よ。

 そうよ、結局、人が愛を尊ぶのも、そういった理由からだわ。愛はけして崇高でも美しくもない。天上のものでもない。

 ねえ、これって、わたしよりも、むしろ、あなたのような人のセリフじゃない?」


 韋眞子、まことさやうなりとぞ思ふなりける。


「そうね。本当にあなたらしくない、厭世的な、懐疑的な科白ね。

 でもさ、それがAmbivalenceなあなたの魅力の深さなんだわ。彼はきっとそれも好きなのよ」

「それって嫉妬? あゝ、樂しいわ。タンニンの強い葡萄酒のようにね。生牡蠣のように美味だわ」

「それを樂しみたくて食事の誘いを仕掛けたんでしょ。わかるわ」

「そうよ。あなたの企みが見てみたかったの。だから『お腹が空いた』って言ったのよ。まあ、けして嘘じゃないんだけれどね。ふふ。

 ねえ、会った瞬間から、何か恋愛がらみだって感じていたのよ。なぜだかは知らないけどね。でも、まさか璃厭のことだとは想像していなかったわ。

 まあ、ここで少し話すうちに、すぐわかったけれども」

「あたり! ・・・って、言いたいとこだけれど、正確には少し違うわ。わたし、あなたとこうして食事して、話して、それでどうするつもりだとか、どうしたかったとか、全然わかんないのよ、いまだに。ただ、衝動で、あなたに触れずにはいられなかった」

「わかるよ。でもさ、彼があなたを好きになるかどうかは、まだ全然わからないのよ。だってまだ知り合っていないし、何もわかっていないでしょう、お互いに? もしかしてわかっちゃったら、あなたが彼をふっちゃうかもね。あはは。

 未来はまだないわ、 L'avenir n'existe pas encore.」

「そうね。それにLe passé n'existe plus.(過去は既に存在しない)。

 何でフランス語なの?」

「経緯(いわれ)なんかないわ。そんなもの、現実じゃ役に立たないじゃない。強くて美しいことがすべてなのよ。あはは」


 その呵々大笑こそ古代希臘のアポロンἈπόλλωνの耀く車馬のやう空を凌駕し、天翔るなりけれ。


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