第5話 画廊にて

 さて、その日こそ韋眞子大いに期待し、独り犀の角のごとく赴くなれ。午後六時に表参道駅を降り、外苑へ向かひて南青山を少々歩く。店の外観、ユトリロの白の時代を想起さしむるなり。されど近づきて身の凍り固まるを覺ゆ。


 ガラスの窓にキャンドル、ゆらゆらせし炎にシルエットなすは高貴柊斗、韋眞子の知らざる女と談笑し、食事せるを見ゆればなり。一刹那、帰らむと想ふも、敢然と歩を進めるなり。名を告げ、ウェイティング・バーにてキール・ロワイヤルを舐め、気高く冷厳なる女王のごとく威を崩さず。


「お待たせいたしました。お席のご用意ができました」


 銀髪慇懃なる給仕来たりてさう言ふ。


「案内してください」


 歩み入るも柊斗は気が附かず。傍ならざれば不思議なし。席は彼の方より見れば陰なる場所ゆゑ見らえぬ安堵と見らえぬ不満と双方を覺ゆ。


「こちらでございます」

「ありがとう」 


 白く眩きテーブルクロスの丸き卓、給仕が椅子を引く。坐す。バカラ社製のクリスタル・グラスならび、手まへより白ワイン用、シャンパーニュ用、赤ワイン用、ミネラルウォーター用の4種類なり。

 フォーク、ナイフ、スプーンなど銀器の類や、セーブル焼のあでやかなる器、アルジャンティエによりて寸分の狂ひもなくならぶ。卓上に花添へられ、テーブルクロスの絵柄美しきハルモニアなす。崇高なる完成なり。


 韋眞子、満たさゆる深き笑みを泛べ、それらを眺む。而して柊斗の方を盗み見す。見らえず。焦燥を覺えつつも、見むと努むるべき義務を免れたるかのごとき安堵あり。アンビバレンスambivalenceなる情(こころ)。


 前菜はフォアグラにシャトー・ディケム。ボルドーの貴腐ワインの逸品、柔らなめらなる甘口にて、フォアグラとの組み合わせは絶妙なりき。心天に舞ふ。藝術は美し。柊斗などいかばかりにあらむや。

 シャトー・ディケムをひとくち口に啣(ふく)みき。フォアグラをナイフとフォークにて切り、噛みしめ、とろけるがごとき味の妙に恍惚さへ覺ゆも、かつてこなる貴腐ワインをぞノルマンディー産なる仔羊と合わせしとき、同じ感覺せるを想ひ起しし。

 海に近き草を食みし肉汁は海鹽の旨み豊かにて、シャトー・ディケムと組み合はすこと善事の極みなり。


 メインディッシュはカナール・ア・ロランジュCanard a l'orange(鴨胸肉のオレンジソース添へ)なりき。濃厚なる鴨肉にさやかなるオレンジかな。


 首にメダルを下げたる白髪のフランス人ソムリエが笑み浮かべつつ訪ひしとき、韋眞子はサン・テミリオンにすべきか、ポムロールにすべきかを迷ひたり。いずれもボルドーbordeauxワインの雄にて、ドルドーニュ河の北にあるなり。


「さて。ローマ人も愛したボルドー。その数あるワインの中にて、力強く、香り高く、タンニンを多く含み、ボルドーのブルゴーニュとも言われる両者のうち、どちらにしようか。難しい問題ね。

 ふーん、いいわ。きめ細かく芳醇なブーケ、濃いルビーのポムワールも捨てがたいけれど、今宵は八世紀の修道僧、聖ミリオンに敬意を表して、麗しきガーネット色に勝利の凱歌を歌わせましょう」


 慇懃なる給仕が銀の皿に載せたる料理をワゴンにて運び来たるなり。鴨まるごとの形せしそれ、キャラメルベースのオレンジ・ソース、肉の焼き色と合はさり、濃き飴色に輝けり。眼のまへにて切り分けしそれ、セーブル焼の華麗な絵皿に盛る。


「ぅうん、最高ね」


 ひとくち啣み、満面笑みなるもその刹那、 


「ぁはは」


 常ならぬ高らかなる笑ひ聞こゆ。あさましと思ふも、韋眞子のフォーク、ナイフの動き止む。聞き覺えありし声にしあれば。紛ふことなし。柊斗なり。訝しく思ふ哉、彼の男、さやう喜怒哀樂を示す事稀にしあれば。度し難し。止めたるフォーク、ナイフ、小さき音立たしめ、皿の上に擱くなり。心に炎(ほむら)生ず。


 韋眞子とともに過ごせるときいかなる折にありても、かやうなることあらざれば、胸郭に焼けるやうなりし熱く苦きもの奔りけり。苦く黒き血がどす黒き噴煙のごとく全身を駈け廻るなり。


 人、笑ひたる因なくば笑はず。因あらば果あり。すなはち柊斗の笑はざりしは笑ふべき因なければなり。これを恨むは頑是なきなり。幼少児のわざなり。さやう知りたれども、心滾り已まず。焔獄の火叢のごとし。切なきこと限りなし。

 席を立ちたり。手洗ひへ行くやう歩み、横眼に見むとするも儚し。ただしずかに相見つめ合ひ睦み合ひて食事せし二人あるのみなりき。


 かつて、其の場處にて睦みたりしは自分なりとぞ想へば儚し。勘定済ませ、其處を出でたり。樂しみに想ひて今日を迎へ来たれども、徒(いたずら)なりけり。


 愚昧を爲すべからずと想ふも、心は念ひに従はず、涙頬に伝ふ。外は寒くなりけり。風冷たく、雨なりて桜華散り舞ふ。心に留めるなく、歩む。行方知らず。


 憮然(こころおち)して雨に打たゆれ叩かゆるまゝずぶ濡れ、公園に悄然と坐す。まへ髪額に張り附きて流るる雫、鼻筋に伝ひ、唇曲がりて顎に溜り垂れつつ落つ。虚し。


「どうしたんですか」


 面を上ぐれば警官なり。


「いいえ、何でもありません。大丈夫です。失礼します」


 韋眞子急ぎ立ち上がりて眼を伏せ俯き去る。

 高貴柊斗は東京大學大學院数理科學研究科の學生なり。韋眞子は数理といふを、世俗を超へ清冷なる純粋論理たると想ひあくがれ、知り合ひし日に恋するなりけり。彼の女のまことならざる想ひ込みに奇蹟のやうに合致せる男なりしかば已むを得ずとすべしや。


 さ迷ふまゝに午後九時も半ばなりき。寂しき路なり。狭き道なり。街燈あるも、昏き道なり。我が身いずこにあるやを知らず。ただ異界を眺むごとくアパートや果物屋、酒屋や本屋を眺む。さなる中に小さき画廊あり。


 サイケデリックなるガラス傘附き照明に惹かれ、寄るも、よく見ればさにあらず。エミール・ガレCharles Martin Émile Galléのごときアール・ヌーボーArt Nouveau様式なり。複数名の無名なる若き藝術家らの展覧会らし。


 油絵やオブジェや写眞さまざまある中に、水墨画あり。没骨法にて、すなはち水を引き濃淡の墨を滲ませぼやかし、巌に、鬱たる杜に、岩迸る清流、墨痕のごとき藁屋根の納屋や籠(こ)盛(も)れ上がれる岡を描けり。澄みたる景色なり。吸ひ込まゆるがごとく、しずかに心布地に沁み逝くこそ癒さゆれ。清涼の寂莫さやかすがしき。従前より見えし没骨の妙との相違、すなはち精緻にあり。およそ没骨と細密画とは水油のごとく合はせらえざるものにしあれども、墨調のきよらかすかの幽玄の妙に拠りて、合はざるものが合ひ、奇蹟のハルモニアぞ生(あ)れ在りし。美なり。


「素敵だわ。凄い。いったい、」 


 その名を見遣れば、あな、


「甃璃厭・・・・」

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