第4話 璃厭(りおん)
霽天蒼穹雲薄く、風に薫あり。韋眞子、マンションを出づる。
歩道歩めば、さやかなるさ緑の萌え葉の候。桜樹の幹には薄き緑の斑紋、鬚長き濃き苔などを添へ、華咲き始むる。冬には欅に隠され忘れらゆるも、人春に驚きつ想ひ出だす。
歩きつ眺む。樂しまざるものかは。厳(いく)つき皺入る古樹にかくも鮮やかなる明かき桜華咲くの妙義、えも言はれじ、筆舌尽くせず、喩へなし。
バスに乗り駅に着きても、彼の女(ひと)の思惟も独り奔る。春は悩ましき哉。のどけき穹(そら)に、倦みたる夢想、朧月夜の猫のごとくに蠢き騒ぎて妄りに膨らみ、奇々怪々に爛熟し、腐敗のごとくも繚(めぐり)亂れ、氣怠し。
人入り亂れ混ざり雑ざる東京駅、新幹線に乗りぬ。
さて、韋眞子女(いさなこじょ)、春分の節にありければ里へ帰るなり。
天之家といふは眞神の里の舊(旧)家にて古くは眞神の貴族なりき。而して屋敷は眞神の邦の深き處、聖なる眞神の御山の入り口なる、杜の鬱蒼と繁りたる丘の上に建つ。集ひたる臣下の家の們(ともがら)と正装し、御社なる墳墓にて祖霊氏神を祀り、後に族郎党を率ゐて眞神山の大々御々社(おほおほおみやしろ)(眞神神社なり)を参拝す。桜下の盛宴あり。
翌朝、すべての儀を終へて復た東京へ戻るすがら、兼ねてより詣でむとぞ希ひたる畝邨(ほむら)(眞神郡畝邨村)の古刹、貞観正國寺(ぢゃうぐゎんしゃうこくじ)に詣でし。小型鞄よりペンタブレットを取り出だし、山門などスケッチするなり。スマートフォン用ひて撮影す。貞観と言へば唐にもありし元号なれども、日の本は八五九年より八七七年をいふ。歳月に相応しく古き薫り、斎々しく威厳あり。
「この聳える感じ、風格、魂を捉えるのは、とてもペンじゃムリね。じゃあ、筆で、って言いたいけれど、もっとムリね。わたしには」
敷石続く老樹大木の道往けば、法隆寺のごとく廻廊に囲まれたる伽藍の偉容見ゆるなり。スマートフォンの音声録音機能スイッチを入る。自らの言を記録す。
「凄いわ。そうね、蒼穹に伸び上がるような感じ。澄んだ偉(おお)きさと言うか、玄く沈んだような荘厳さ、あゝ、まどろっこしい。舌が縺(もつ)る。五重塔は東寺より大きく見えるわ」
韋眞子、門をくぐりて廻廊の中に入りぬ。男ありき。金堂の石段に坐し、五重塔をスケッチせし。眼鏡し、黒髪整へ涼やかなる顔立ち、指は細く長き。風情に惹かゆれ、しみじみ眺むる。
洗ひ晒せしリーヴァイスLevi's穿き、破れしコンバースConverseオール・スターAll Starぞ履く。左手首にパテック・フィリップPatek Philippe のカラトバCalatravaあり。
未だ春浅くも白きシャツのみにて、頻りに鉛筆を走らす。韋眞子、高さ五十五メートルといふめでたき塔を仰ぎつつ過(よぎ)りて金堂へ上がらむとし、その描きたるを見し。
見ればあやしき奇しきとぞ覺ゆ。大和葺の裳階屋根、高欄、雲形斗栱、頂上の相輪ぞ精しく描ける。
「昔の建築を研究しているんですか」
意せず韋眞子、かく問ひし。男、問ひに一瞥さへ与へず、あさみし言(こと)ざまにて、
「いいえ」
「あ、すみません、その、デッサンされてるかと思ったら、そうじゃなくてパーツの筆写してらしたから、ちょっと驚いて、思わず声掛けてしまいました。『ああ、敢えて写真じゃなくて、筆写で記録する研究方法もあるのか』とか思って・・・・・」
「デッサンです」
石のごとき表情にて抑揚なく言へり。韋眞子、棘々しき気持ち生じ、
「え、何よ、その言い方。そんな建築の図面みたいなパーツの絵描いてりゃあ、研究かなって思うの当然じゃない!?」
「いいえ、絵のためのデッサンです」
「はあ?
悪いけど、図面にしか見えないわよ。そうね、パーツの立面図か、展開図の部分みたいなものにしか・・・・・」
「別にこれをそのまゝ絵に使うわけじゃない。飽くまでも準備だ。資料だ。そういう意味ではあなたの言うとおり研究です。下地にするんです。
表に出ない部分も知らなくてはリアルな絵は描けない。すべての方向や角度から見た全体像を知らなくては生きた絵は描けない。生きた線は引けない。リアルな像を結ぶことができない。当然の話だと思うが。リアルはすべての細部の総和だ。見えないからと言って存在しないことにはならない」
「そう? 見えるってことが実在の根拠になるのかしら」
「見えないことは非存在の理由にはならないと言っただけだが」
「そうですか。そうでしたね。
失礼しました」
さう言ひ、頬膨らませ、金堂へ上がり、須弥壇上に仏・菩薩、諸天の像を拝み仰ぎぬ。仏や菩薩の螺髪、白毫、肉髻、尊し。宝冠や瓔珞(ようらく)、臂釧(ひせん)や腕釧、金箔の光背、炎の後背を恍惚と観る。
菩薩の裳裙(もくん)、その紋様、いと奇しく、正面中央部と左右各々の前後の計五箇所に襞を作り、石帯といふ紐にて結ぶなり。インド古典舞踊にても同様らし。細長い条帛(じゃうはく)を左肩より右脇下へ通し、背中より再び肩に回して左胸にてその布端(ぬのはし)を、左肩・右脇へ通せし布の下へとくぐらする。天衣(てんね)を肩に回し手に掛けるなり。
天女は唐代貴婦人のすがたなり。裙裳(くんも)の上へ、がい襠衣(とうい)を着、肩に背子(はいし)、まへに蔽膝(へいしつ)を垂らしむ。腕は長袂衣(ちょうけつい)、襯衣(しんい)、鰭袖(ひれそで)。腰に緒を結び、沓(くつ)を履くなり。
神将は胸甲、籠手、前楯(まへたて:腹甲)、脛甲(すねこう)、腰甲、肩甲などの甲冑とともに天衣、裳の下には袴を身に着け、沓を履くなり。
眺むるほどに天界の光景、眼のまへにひろがり、五色の雲やら光彩陸離にて、厭はしきこと数多ありてもやがて忘らゆる。ぎゃう(形)さまざまなりて飽かず覺ゆ。
藝術は心魂を癒やすなり。神聖崇高は心を霽らし、清らかに澄み明らめ、かろらさやかにすなり。これぞ生命の粋(すい)、精髄と知らゆる。
元来一切アートは祭祀なり。祭祀は現実の用なり。藝術は現実乖離せず。
ラスコー洞窟Grotte de Lascauxやアルタミラ洞窟Cueva de Altamiraの壁画を想へ。狩りたき想ひの実現、希ひの成就が行爲され、洞窟璧面に表象せらゆるなり。縄文の火炎土器、殷の青銅器を見よ。生活、儀礼儀式、神への崇拝、畏敬に美を求め、美を生む。
また曾て語り部の語りしすべての物語は歴史にしありて事実なりき。それゆゑ眞実の迫る情あり。人は涙し、勇気を鼓舞し、精神を涵養す。
人は現実を強く念ふ。架空を求むも現実を変へたき希ひなり。すなはち現実への欣求が動機原因なり。また現実逃避もしかり。現実への心深きがゆゑに心疵痕し、これを逃れむとぞする。
一切現実へのゾルゲSorge(関心。気遣ひ)なり。畢竟これ自らの未来への意識より生ず。自らの生命を尊ぶが原義なれど、すなはち子孫繁栄、またもや種属の存続への希求説に遂する話なり。
一頻り考へ、韋眞子は立ち尽くすおのれに気づけり。心既に清められ、清々しく善し。
「さあ、行こう」
堂を出でて階に戻れども、既にすがたなし。五重塔など眺む。柱に龍神の絡む、深きいはれあらむ、ゆかし。
再び想ほゆ。
藝術は樂し。祭祀なり。装飾なり。歴史なり。日々幸あれと望む生活、心昂らせ歓ばせる飲食衣裳家財道具、誇らかに魂高めし民族の事実、すなはちすべて現実への関与なり。
境内を廻り終へ、駐車場へ赴き、レンタカーに乗る。イグニッション・キー捻りき。
樹齢重ねし高き老木列する古街道を走るに、背後に天蓋のなきアンティーク車を見附けり。
「フルオープンにしたベントレーだわ。二〇年代か、三〇年代の古いやつ。この季節に幌外すのは早過ぎない?
て言うか、昔のイギリス空軍みたいな革のヘルメットに、ゴーグルって、何なのよ。典型的なAnglofile(イギリスびいき)ね」
スマートフォン鳴る。マイク附イヤホンを片耳に差し込む。差し込むと同時に通話始まりぬ。
「もしもし?」
「あー、韋眞子か? そうだろ? 昨日、そのヴェイロンBugatti Veyron 16.4におまえが乗っているのを見かけたんだ。BBはどうした?」
「誰?」
「早蕨(さはらび)だよ、いまおまえの後ろを走ってる」
「え? ベントレーの男、彝佐(いさ)くんだったの? そっちこそ買ったの?」
「ああ、そうだよ。スピード・シックスBentley 6½ Litre & Speed Sixさ」
「って、マセラッティMaserati GranTurismoはどうしたのよ」
「あるよ、東京に置いて来た。2台乗って来られないからね」
「ええ! 両方とも東京で使ってるの? てっきりこっち(眞神郡)で乗るための車かと思ってた!」
「想い込みだね」
「ふつうだよ。何で交通の発達した東京でそんな車2台も持つ必要があるのよ、不経済じゃん。駐車場とか高いでしょう」
「価値観の相違が思い込みを生む。おまえ、すっかりヤマトに染まっちまったな」
「世界共通の価値観よ」
「僕らは眞神の部族だぜ。他の連中とは違うんだ。あゝ、これはくだらない選民意識さ。そういうおまえこそどうなんだい」
「わたしのはレンタカーよ。こっちで借りたのよ」
「僕はその方が驚く。どこにヴェイロンのレンタカーがあるんだ」
「あーら、此處は眞神よ。ヤマトとは違うのよ」
「ふざけるなよ、そうか、天之家に自動車販売している家があったな」
「そう、哥舞伎くんが世話してくれたわ」
「あゝ、カブキって、天之哥舞伎先輩か! それでわかった」
「ところであなた、その車で来たってことは東北地自動車道で帰るんでしょ? わたしとは方向が違うわ。海の方へ行くから。安房市で返すのよ」
「そうか、じゃさよなら。次の信号でお別れだな」
「2㎞くらい先よ」
「わかってる。それよりおまえの運転が荒いのが気になってるんだ。何かあったか?」
韋眞子、息やや止まるも、
「ああ・・・・さっきちょっとムカつくことがあったのよ」
説明す。
「へー、大したことじゃないじゃん。
たぶん、そいつは甃璃厭(いしだたみ りおん)じゃないかな」
「リオン? うーん、甃って聞いたことあるわね」
「そりゃそうだろ。眞神族の一家だぜ。平衛家の臣下の赤門家の臣下が甃家だ。武門の家柄だぜ。僕らより二つくらい年上のはずだ」
「あまり見かけなかったわね」
「イタリアに絵の勉強で留學していたとか聞いたけどな。詳しくはわからない。小さな展覧会にも出品しているらしい。眞神のあちこちで写生してるって聞いたよ。同じ私立眞神校だったから學生時代に見かけたことがある。おまえの言うような、そんな風貌だったはずだよ」
「へー」
「じゃあな、また」
「うん、どっか美味しい店教えてよ」
「フレンチで、つまりラ・キュイズィーヌ・フランセーズla cuisine françaiseで、いいとこがあるよ。青山にね、『アジュール・ド・プルイAzure de pluie』ってのさ」
「わかったわ」
「ご馳走さん」
「独りで行くのよ。決まってんじゃん」
「独りの食事なんて最低だな。何事も心啓いて通じ合い、共感できる友がいるから樂しいのに。
人生は樂しむ事が目的さ、快感を齎す神経伝達物質を脳から分泌させること、それが人生の目的だ。物的で、無味乾燥な見解だと思うかもしれないが、事実は事実だ。悟りも解脱も正義の崇高感も、愛の高揚感と充実も、自己犠牲の潔い気持ち良さも、あらゆる満足も、科學や哲學に於ける達成の歓びも、すべては結局、そこへと収斂されてしまう。
事実は曲げ難く、異論はあり得ない。
・・・以上、Q.E.D(証明終了の意。ラテン語。Quod Erat Demonstrandum)」
「だから何? そういう気分なのよ。それがすべて。じゃあね」
「らしいな。どうやら機嫌が悪いのは璃厭のせいじゃないようだね。どっちかって言うと、彼はとばっちりを喰らったみたいだな。じゃ、また、今生で」
安房市にて車返却し、秋田新幹線に乗りて秋田駅へ。盛岡駅へ向かひ、東北新幹線に乗りぬ。旅行鞄ポケットよりタブレットPC出だす。メールチェックし、会社へ二、三通報告書送りき。やがて企画書作りして一時間過ごし、終へてそのまゝタブレット用ひて読書を始むるなり。耽りぬ。車輛の静かなるなめらかな揺れ、樂し。ふつと思ひ立ち、スマートフォンに検索す。タブレットにて『美味礼讃』を読み耽りつつ。言はずと知られたる美食學Gastronomieの大家なる、ブリア=サヴァランJean Anthelme Brillat-Savarinの名著。
教(をし)へらえし『アジュール・ド・プルイAzure de pluie』ぞインターネットにて調べにける。
いはゆる新フランス料理以前の料理を扱ふ料理店なり。すなはちヌーベル・キュイジーヌnouvelle cuisine(伝統的なる重厚ソースのフランス料理を、素材の組み合はせの妙によりて飽きのなき、従前に比し軽めなる味にて仕上げる他に、伝統的には使はれざりし素材やら料理方法やらを用ひて作るフランス料理)や、キュイジーヌ・モデルヌcuisine moderne以前の料理を出だす店なり。
「ははん、面白そうね」
東京駅に着く。着くや否や、スマートフォンをぞプッシュする。アジュール・ド・プルイを来週火曜に豫約す。
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