第3話 Berlinetta Boxer

 午後、薄氷のごとくうすきモバイル・パソコンをぞ鞄に収め、クライアントのビルへ参(まゐ)る。初めて参上せむクライアントなればスマートフォンのNaviアプリを使ひ、GPS機能にておのれの動きをぞ捉へ、そをディスプレイ上に反映させつ、方向の正しきを確かめつつ進むなり。


 同時にAR(Augmented Reality)を用ゐ、カメラにておのれのいましゐる處を映しつ其處に附加する情報を樂しみつ、歩むなり。さやうクライアント自社ビルに着きたれば、社屋を写しつ、ARにて自動に表示す社員数・基本金・財務諸表・上場されし株価の状況等々見るともなく確認し、自らのいま爲さむとすることを脳裏に短く復唱し、自動ドアをくぐらむ。


 打合せルームへ案内され、坐りてブリーフケースより資料を出だしぬ。

 スマートフォンにて音声録音機能さしむスイッチを押しけり。さまざま説明し、資料を指さしつ、又質疑に応へぬ。終はりき。午後三時、地下鉄に乗り、途中Caféにて休憩、社に戻りて五時から資料を整理し、データ化しレポートを作成し、社内LANにて上司へメール提出を終(を)へ、退社す。午後七時三六分。


 外へ出づれば街ははや相貌を変へたり。飲み食ひの店、俄かに時めきて華柳(はなやぎ)ぬ。ビルは窓の灯り未だ尽きねども、既に生気喪ひ、顔伏せるがごとし。駅に着きぬ。朝と異なる路線に乗り、大きな駅に降り立つ。繁華なる街の空気吸ひ、歩む。イタリア風の『Bar(バール)』に寄りてサンドウィッチ抓みつ、ブラッディ・マリー呑むなり。報復復讐、血にて贖うがごとく、今日に与へらゆるストレスの呪縛を放ちつ。二、三杯を重ねし後、スマートフォンにメール着きたりき。高貴柊斗(たかきしゅうと)。韋眞子の恋人なれども別れの文なり。しずかに睫毛を伏せぬ。

 予兆はあり。覺えつも今日至るまで心逸らし過ごし来にけり。終に来たる。心ゑぐりたり。え耐へらえずば、今宵は独り呷り呑むべかんめりと思ふも、速やかに帰るを択ぶは明くる日の仕事を慮るがゆゑもあり。


 虚勢といふべき、颯爽と、駅の改札抜け、車輛に乗り坐り、車掌のアナウンスとともに降り、駅まへにて慣習のまゝに、オリーブの実、チーズのオリーブ漬やらミックスナッツを買ひ、バス停留所に待つも、粒々(つづ)たる燦星は見ゑず。月光皓々たるも。雲玆(くもくろ)くしずかに流る。夢幻のごとし。地上を現世(うつしよ)といふは、定めし常世の写しと想へばこそなれ。現世は移らひ、崩れ、集まり、かたちを遷し変へいくなり。桜華爛漫に散れども蝉は殻を残し、芒は月に照らされさやさやと揺れ、伽藍に積む雪は凍て氷となり、陽射しに溶けぬ。。季節は深く哀しき。


 来たるバスに坐し、スマートフォンにて電子ブックを書見しつつも、心あらず。いくつかの家の灯見る。暖かき色家庭をぞ想像する。夕餉の人家の灯りはいつも懐かしくも哀しからずや。沈とす。寂しかりけり。小さき場末の小酒場とかやも。汚れたる電光看板、古き欧羅巴の鎧戸擬せる小窓、雨風に打たれ褪せし狭き花壇あり。そこはかとなく幻想廻る。想ひはムーラン・ルージュMoulin Rougeに、ロートレックHenri de Toulouse-Lautrecの描きしポスター髣髴し、『ディヴァン・ジャポネ"Divan Japonais"』、彼の哀しきVie想ほゆ。


 しばし揺らゆるうち、アールデコふう幾何學的なる装飾に作られし屋根と、透明の風防に広告のある停留所へ着きぬ。降り、歩道歩み、門を抜け、玄関にて暗証番号押し、エントランスに入りぬ。エレベーター乗りて昇り、廊下踏み、扉鍵を差す。開く。灯点ず。


 居間に入りてパソコンのスイッチを入れ、液晶画面を立ち上げ、壁紙Wallpaperあらはる。しばし眺め、嘆息し、薬液浸みしコットンを手に瞼や頬や唇をやはらかく拭き、化粧落としぬ。


 メールを確認す。


 疾く立ちて服を脱ぎ、シャワー浴び、寛衣に着替え、シャンパーニュの栓を開けぬ。ステムの附いた細長いグラスにすみやかに注ぐ。泡激しく亂れつ立ち上りぬ。乾杯す。黄金色に輝く液体、美しきかな。烈しく上る虚しき炭酸の泡沫、新しき詩、あゝ。いと愛(かな)しも。


 比して世のなどか醜き。

 浅ましき事限りなし。愚昧、卑小、下賤なる私利私欲あふれみだる。損失役得への狂著妄執、厭はしく悍ましき。人よりわずかも利を喪へば激しく喚き、口角泡、妬み嫉む。一厘の利を得て有頂天に喜悦す。とても飢餓収まらじ。

 悪意と欲望の大帝国無限大宇宙なり。虚し。儚し。生くるがゆゑの象りに若かざるも強し。無空なる虚しき影にて力なきなる者に打ち破らゆる吾ら無智劣愚蒙昧なり。架空・形骸・夢幻に若かざるといふに。

 愛も。

 

 

 愛は子孫繁栄の本能なり。

 恋のため、愛し子のため、己が命さへ捨て怖れぬは、愛といふが子々孫々への望みなればなり。元糺せば、雌雄の別とは遺伝子を混ぜ、ウイルスに対するがための方便なり。型合ふウイルスに遭ふ率を減ずる方便なりけり。皆同じ型なる遺伝子にありしあらば、一つ型合ふウイルスあらはれしとき、一斉に滅尽す。さまざまなる型混在せば、いずれかが生き残り得るなり。

 これ生命の意志なりと智覺す。生きやうと希ふが生命のベクトルVektor(独)なり。生物が命を惜しむは個体存続がためなりと雖も、個体の存続といふは、畢竟、子孫を遺すが便宜なり。子孫の繁栄は種の存続なり。種の存続とは宇宙を構成せし要素の缼如を防ぐ。大いなるまろらのたまをまったきまゝ保たむとするものなり。

 存在とは個体の存続を案ずる気遣ひより起こる意識(五蘊)にあれば、五蘊は人を生へ結びつけむがための方便、此れに導かゆれ、紡ぎ結ばゆる空架にしかず。一切価値はこれに拠るなり。すなはち正誤善悪優劣良悪当否是非など一切判別選定然り。世界かくあり。

 ・・・・・・・・かくブログに記して寝(い)ぬ。かろらなる、あたたかき羽毛の布団をかぶり、シルクの艶、滑り心地よき、囁く衣擦れ。プロテクターなるかのごとく身をくるめり。時過ぎ魂魄癒やさゆるときを持ちなむ。

 さやう他力本願にて想ふは虚しからむや。さりとも、昏き夜は移らひ、星廻り、朝(あした)は来にけり。


 2日後、土曜、朝、青天晴。某ガレージへ赴く。整備員に声かけらゆる。


「仕上がっていますよ。奥にあります。絶好調ですよ、BB 。吹けもいいし」


 其處にゐる一匹の獣を愛づ。

 ベルリネッタボクサーBerlinetta Boxerといふ。フェラーリ社製Ferrari水平対向12気筒4390ccエンジン積み、トリプルチョーク・ウエーバー40IF3Cキャブレター4基備へ、360HP/7500rpmなり。ミッドシップ・マウントす。いかなる哲學も死滅す乾燥地帯なり。コンピュータ電子制御などデジタル類一切在らざりき。インジェクション(燃料噴射装置)にあらずキャブレター仕様なるはいまやうならず。既に絶へし伝統なり。

 モノコックのシートに坐し、ドアに手を掛け閉めればかちりと嵌まる。四点式シートベルト締め、サングラス掛く。イグニッション・キー差し、捻る。轟くエンジン音、アクセル踏めば乾きたるエグゾースト・ノート響く。地も揺れずかは。受取書にサインす。


「ありがとう。じゃあ、貰っていくわ」


 工場を出(いで)る。排気音のカンツォーネCanzoneを鳴り響かしめ、駈け上がりたる首都高速道路ぞ走りたる。左右に切る太きステアリング、かやう猛々しき獣を操縦するは女手には難儀ならむや。されども韋眞子、暴る獣を制御し、ウィンドウ開け、風に吹かえたり。エンジンの回転上ぐれば音高く歌ひ、彼の女の耳に管樂器のごとく聞こゆ。スピードが上ぐれば重力離れ、解き放たるれ、飛ぶがごときsensationあり。心を解き放ち、昂らしむ神聖ありき。

 これアドレナリンを噴出し、喜び湧き出でらゆるにしかずや。知らず。されど善し。とても崇むべき価うすると思はざりき。さりとてもこれの爲に生くとも、悪しきものかは。


 天上の超越なる肯定をぞ爲されたるやの感覺に導かゆ。ゆゑ知るものかは。快ありて抗ひ難き。天祥飛躍の清爽感覺、たかくひろくすがし。天のごとく自由なる快樂、深淵なる萬充、高遠なる静謐。及ぶなし。美(うま)し。比すべきなし。畢竟、脳内にて快樂促す神経伝達物質分泌さしむこそ人生究め極む目的にしあれ。美ぞ尊き。虚しくも人の眞あり。争ひ難し。

 東名高速道路に入り、心空しう走るなり。富士の御嶽が紺青を塗りたるやう映へ、あり。雪白く眩く、更級日記にいふがごとし、色濃き衣に白きあこめ着たらむやう、あはれに見ゆるなり。


 人の思惟にあらざるうつせみのまこと、神の天寵(いつくしみ)たまひし実在せらゆる眞理にしあり。いまこの瞬(とき)こそ完成にあらずや。現今究竟の涅槃にしあらずや。生の意義、一切原理、最も偉大なる公理、最も甚深高遠なる眞奥義、究極眞実、最強最烈にて睿らかなる眞実・・・・・こなる感覺ぞ事実存在たる。実存といふ。

 実存の他何を択ぶや。燦めき輝く蒼穹、永久(とこしへ)の鐘音響かせつ。


「あゝ、春爛漫も近いわね」


 かく独りごちぬ。

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