第20話
その夜、京ちゃんに呼び出された。
『飾利、今から会えない?』
何をされるのか、何が目的なのかは全くわからなかったけど拒否ができなくてそのメッセージの通知を見た瞬間に『わかった。今行くね』と返事をして京ちゃんの住むマンションに向かった。
ただ持っていくのは罪悪感だけ。
イライラした京ちゃんの顔がいまだに頭から抜けなくて怖くなる。
京ちゃんの今の精神状態がどうなってるかさっぱり分からない。
ただでさえ秋の入口なのに夜の暗さがさらに深くなっている気がする。
感情を言葉に変換して噛み砕いて心を落ち着けようにも、輪郭が見えず言葉にできない不安を噛み砕くことはできない。
背筋が震えるのは寒さなのか緊張なのか。
今の私には区別がつかない。
「ごめんね、急に呼んで」
そんな感情で京ちゃんの家にあげてもらう。
もしかしたら京ちゃんのお母さんと会うことになるのかと思ったけれど、そんなことはなかった。
なにが起こるか分からない中で玄関でコートを脱ぎ、来客用に用意されているであろうハンガーへ掛ける。
すると
「飾利……!」
後ろから京ちゃんに抱きしめられる。
「っ!? 京ちゃん……?」
「少しだけ、甘えさせて……」
抱きしめる腕と、うなじにかかる息が少し震えていた。
「いつも甘えてない……?」
私は何も考えずに自然と口に出してしまう。
すると京ちゃんは後ろからこちらの顔を覗き込んで不満そうな顔を見せた。
「それ……今言う?」
「……ぷっ!」
そんな様子に私はつい吹き出してしまった。
この無邪気な京ちゃんは怒ってない。
私の中に罪悪感は多少なりあるけれど、イライラした京ちゃんのあの表情に対する恐怖は噛み砕かれ、心の奥底に押し流されていく。
今まで自分で勝手に心配していたけれど、それは現代文で試験に出た『杞憂』ってやつで、勝手に私が悩んでいただけかもしれない。
「なんで笑うの?」
「いや、ごめんごめん。ごめんね京ちゃん」
怒っていると思っていた。
けれどそんなことはない。
だから私は京ちゃんの長い腕を一旦解いて、改めて体の正面を彼女に向けて手を広げる。
「じゃあこっちの方がいいでしょ?」
「……飾利っ!」
するとこちらの胸に飛び込んでくる。
京ちゃんの方が身長は高いけれど私は受け止めた。
細く筋張ったような感触を全身で受ける。
力の弱い私以外が抱きしめ返したら折れてしまうんじゃないかと思うほどの、細い腕や薄い体からほんのりと熱を感じる。
そしてわずかに感じる女の子としての柔らかさと心地のいい香りが後から私の感覚を刺激する。
「飾利、ありがとう。少しお母さんに成績のことで色々言われちゃって……疲れちゃった」
「ううん大丈夫だよ。それより私も言わなきゃいかないことがあるから」
「なに?」
そうやってこちらを見る京ちゃんの顔を抱きしめられた下の角度から覗き上げる。
「ごめんなさい。私のせいだよね、お母さんに何か言われるの」
「えっ?」
もう少し私が大きかったらキスができてしまいそうなほど近い距離にある京ちゃんの顔は、柔らかいものからきょとんとした顔に変わる。
切れ長の目が大きく丸くなる。
「だって私が勉強に付き合わせなければ成績を落とさなくて済んだでしょ?」
「あー、まだ心配してたんだ」
それを聞いた彼女の表情は顔が緩む。綻んだ笑顔を視界いっぱいに捉えると幸せな気分になる。
「どういう意味?」
「あぁごめんね。そっか、そうだよね。それはね、問題ないんだよ。きっと成績上位のリストにいなかったから心配してくれたんだよね?」
「うん」
「お母さんにもその事で少し詰められちゃったんだけど、別に学力が落ちたわけじゃないんだ」
「??」
顔だけで伝わったのか京ちゃんはその後も続けた。
「ほら、今回の日本史って全部選択だったでしょ? 解答をね、ひとつズラしちゃってたみたいなんだよ。私はテスト返ってきても見直さないし分からなかったんだけどさ、見てみたらズレてて日本史の点数10点だった。面白いよねこんな点数」
クツクツと笑って見せるけど、そんな京ちゃんに私の心の奥底では3つの感情が渦巻いている。
安心と戒めと驚き。
私のせいで成績が落ちたわけじゃなくて良かったって安心。
とはいえこんなケアレスミスを引き起こしたのは、やっぱり私に付き合わせて疲れさせたからって戒め。
10点なんて恐怖の点数を取ってしまってるのに笑えるんだって驚き。
色々混じったせいで、どう言葉を返していいのか戸惑った。
それをまた読み取ったのか京ちゃんは言葉を続ける。
「まぁでもだから大丈夫だよ。心配しないで」
そんな風に京ちゃんは優しく耳元で言ってくれた。
ただ……やっぱり、私はあの時の電話が気になった。
「でも……京ちゃん、お母さんに何か言われてるんじゃないの? それはやっぱり私の——」
私のせいでケアレスミスをしてお母さんに突かれてしまったのは変わらないし、あの時なにか実家に戻れとか言っていたのを聞いてる。
そこが心配だった。
「あぁそれも大丈夫。ウチはお父さんが経済支えてるからさ、お母さんの一存でなにか決めたり出来ないんだよ」
「そうなんだ……じゃあなんで……」
「……イライラしてたかって?」
恐る恐るそんなことを聞いてみようとした瞬間、京ちゃんはそう言ってさらにギュッと抱き寄せる力を強める。
奥底を見透かされて、少し距離を置きそうなる私の心を掴むようだった。
「飾利さ、聞いてた……というより見てたでしょ。階段で電話してた時」
「えっ……?」
「……正直言って今回は失敗。だから話すんだけどさ」
京ちゃんの中では色々と感情や流れに決着がついているのか、淡々と説明しているように話を続けて理解が追いつかない。
ただそんな京ちゃんは、少し残念そうな表情でこちらを見た。
「聞かせるまでは上手くいったんだ。きっと飾利は自分のせいだって思ったでしょ?」
聞かせる。その意味が遅れて理解できて、あの流れは京ちゃんの”確認作業”の一環だったのだと分かった。
「じゃあ……京ちゃんは私が電話を見てるってずっと分かってたの?」
バレバレだよ。なんて京ちゃんは笑う。
いつも通りのカラリとした笑いに戻っていて、少しピリっとしていた背骨が温かくなっていく。
「あのイライラしてたのもわざと……?」
「うん、電話越しでイライラした顔しても仕方ないし。飾利が慌てるかなって演技してみた」
「またそんな大掛かりな……」
「慌てる顔が見たかったから。実際すっごい可愛い顔が見れた」
凄いあっさりと言う京ちゃんに私はそれ以上の言葉が出ない。
というか……。演技の理由がひどすぎる。
慌てる姿が見たいってだけでそこまでやるなんて……。
シンプルにそう思った。怒ってるとかではないんだけど……。
呆れや諦めとは少しズレているけど、一番近い感情を表すならそんな感じ。
彼女は子供が虫を可愛がって殺してしまうのと同じような感覚で私を試してるような気がする。
なんというか……将来が心配になる。
これからもずっと一緒にいたいし、私はいるつもりではある。
だけどそんな相手の将来を私は受け止め切れるだろうか。
自分にそんな魅力があるのだろうか。
立ち返ってみると愛の”確認作業”なんて言い方をしてるけど、これに意味はあるのかな。
私から京ちゃんへの愛が消えることが無いなんてことは確認するまでもないけれど、京ちゃんから私への愛はどうなんだろう。
京ちゃんはいつも困ったり怒ったりした私の顔を「可愛い」と言ってくれる。
ただ自分の顔は鏡でも見ない限りリアルタイムで確認できないわけで、なにが可愛いのかいまひとつ分かってない。
だから不安になるし怖くなる。
これがうまくいかなかったらどうしようとか、拒絶されたらどうしようとか。
私が彼女の期待に応えられなかったらどうしようとか。
メイクとかそういうもので着飾れない、私の生の感情がどれだけ魅力的か私には分からない。
実際に京ちゃんのイライラした表情を見た時には少し怖かった。
その時の怯えたり慌てている顔を可愛いと思ったのか、もっと別のものなのか。
この京ちゃんの穏やかな視線と笑顔を向ける先が常に自分でいてもらえるだろうか。
そんなことを深く考えてみると……怖い。
「相手のために頑張ったけど、それが相手のためにならなかったら切ないよなーって思って」
そんな体験をした飾利が見たいと言わんばかりに、今度は悪巧みがバレて恥ずかしがるような顔をする。
そんな京ちゃんを見たら喉から力が抜けて返す言葉もない。
複雑に絡まった感情をため息と一緒に吐き出す。
「まぁとはいえさ? もう少し重い話をして、もーっと心配してもらおうと思ったけど失敗しちゃった。だからこの”確認作業”は失敗」
失敗、なのだろうか。
実際その間に私はやるせなさから来る罪悪感に押しつぶされていた。
別に失敗なんてことはないんじゃないかなと少し目線を外すと、それを逃さないように京ちゃんは顔を近づける。
「でも結局飾利に甘えちゃってる。そばにいてくれてありがとう」
青と黒が混ざったような色素が薄く透きとおる瞳は、こちらを見て離さない。
今回の現代文の試験で出た題材である『影送り』みたいに、強く見つめられる。
彼女からの視線の強さが体を抱きしめる強さと一緒に伝わってくる。
私を見続けて、どこに行っても私の面影を見えるんじゃないかと思うほどに彼女はこちらを見つめて離さない。
私もそれに応えるように見つめ返す。
「私も……京ちゃんがそばにいてくれたから頑張れた」
「よく頑張ったね。私も飾利の力になれたのがすごい嬉しい」
ズルい。
好きな相手にそんな風に言われたら、こちらの罪悪感を楽しんでいたとしてもなぜか許してしまう。
マリンバの上をガラス玉が転がるような綺麗な声で囁かれると、許してしまうんだ。
こういう行為に不信感が湧かないわけじゃない。
どんなに好きでも不安になるし、わざとそんなことをしているとなると、私だって少し距離を置いた方がいいのかな。なんて思ってしまうことはある。
でも好きでいてくれた安心感が、私の名前を呼ぶ京ちゃんの綺麗な声が、私の不信感のようなものを上塗りする。
好きでいてくれればそれでいい。
そばにいてくれるならそれも愛情表現だと思って受け取る。
確認されることで好きでいてくれるんだって思える。
「あと一応聞くんだけどさ」
「なに?」
「もしかして……悪い点をわざと取ったってことはないよね?」
「えっ……? どっちだろうね。わざとでしょうか、偶然でしょうか」
目を丸くした京ちゃんはごまかすようにまた笑った。
こういう時の京ちゃんは読めない。どっちもありえるのが怖いところ。
どっちだろ。まぁいいか、そんなこと。
思考放棄の私を京ちゃんは見つめる。
ギュッとされて温もりを体で感じて、目だけでキスをするように見つめあう。
放課後までのトゲトゲしかった皮肉の悪魔はいない。
「大好きだよ、飾利」
そんな天使よりも優しく暖かいふわふわとした一言だけが耳に届く。
そんな風に思いながら私は京ちゃんに顔を寄せ、唇を軽く重ねるフレンチキスで気持ちを切り替えた。
「ん……そういえば海外ではキスで仲直りするって言うよね」
ふと京ちゃんは言う。
「喧嘩してたのかな。私たち」
「誰も怒ってないし……してないね」
ハハっと笑うと私は自分の体重を少しだけ京ちゃんに預けて2人の時間に浸った。
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