第5話
「なんで……こんな……」
4月末の日。梅雨入りはまだ先だというのに雨が降っていた。
冷たい雨の中で、後悔する。
私が毎日のように来たからあの猫は毎日のように来るようになった。
私が来なかったら多分今日は来なかった。
あの高架下には見通しの悪い交差点を抜けないといけない。
この子はきっと、それを抜けて高架下に来ていたんだ。
私が毎日来るから車の危険を超えて来てくれてた。
しかし今日は超えることが出来なかった。
いつもいるはずの時間にも来なかったから何かあったのかと思って猫を探した。
すると、どこかから放り投げ出されたように、頭の一部が吹き飛んだ状態で特徴的な黒い斑の尻尾の猫が歩道の上で死んでいた。
あの猫が車にはねられて死んだ。
周りの人間が不気味がって離れていく中、私はそこに駆け寄る。
きっと私が来なければこの子はそのうち高架下から、別の場所に住処を移したかもしれない。
もしこの子がこうやって命を落とすことが遠くない未来で、これが自然の摂理だとしても、私が毎日来なければ「私のせいで死んだ」という負目も私は負う必要はなかったし、こんな死に目に遭うこともなかったんだ。
この猫だってこんなところで人間に気味悪がられながら死んでしまうことも、きっとなかった。
どちらにも不幸な結末だ。
涙が溜まる。
辛い、辛い、頭の中で噛み砕く。
可愛がっていた猫が死んでしまったら辛い、当たり前。
それでも焼けるように涙腺は刺激されて目に涙が溜まっていく。
流石にこんなところで泣くのはみっともない。
人前で泣いてはいけない。
色々と頭の中を言葉が駆け巡るけど、とめどなく流れてしまう感情の抑え方が分からなくて胸が痛くなる。
そもそも私がこの猫を呼びつけていたようなものだったんだ。
なのになんで被害者のように泣くんだ。
でもどうしようもなく悲しくて、罪悪感を受け止めきれなくて瞼から溢れるように流れ落ちる。
ダメだ。こんな人通りの多い場所で泣いちゃダメだ。
はしたないからダメ。頭の中が自動で整理をつけようとしてせめぎ合う。
「私のせいで……」
全身が冷たくなる。
あぁ、そういえば雨だったな。
4月の雨は冬の気配を引きずっていたのか、勢いを増すと私を刺すように鋭く強く冷たく降りしきる。
今なら泣いても分からないかな……。
「ごめんね……」
アスファルトに無惨に転がったその子を抱きしめようと手を伸ばした瞬間。
「ダメだよ、汚れちゃう」
後ろから腕を掴まれた。
誰かと思って見上げるとそこには……紗柄京がいた。
「君は同じクラスの……?」
「紗柄さん……?」
そう呟いた瞬間に溢れた涙がまた頬を伝う。
安心でもなんでもないのに涙がこぼれ落ちる。
そんな様子に彼女は目を剥いて驚いた。
「泣いてる……?」
「泣いてない、これは……雨だよ」
「傘差してるのに?」
その言葉に何も言えなくなっていると、紗柄京はズブ濡れの私に微笑みかけた。
「ウチ、近いからおいでよ。着替えないと風邪ひいちゃうし」
そう言われて連れられるままに腕を引かれて私は彼女の家へ向かった。
彼女の家に立ち寄り、私は着替えを借りて全てを話した。
あの死んでしまった猫のことを。
「だからきっと、私のせいだ。あの猫が死んじゃったのは」
「……なるほど。まぁ大体わかったけど、ひとまずは気持ちも落ち着いたんだね。いつも通りって感じ」
彼女は話を聞いて、うーんと伸びをする。
それに対し私は話を終えてしまったせいか、悲しいけど涙の出る地点を通過している。
あぁ……もう泣けないな。
そんなことを思っていると、小さなテーブルを挟んだ向かいにいる彼女がこちらの目を見つめた。
「にしてもまぁ、あの七星飾利さんが泣いてたからびっくりしたよ」
「……忘れて、あれ」
私は静かに要求する。見られてしまったことを忘れたかったから。
ただ目の前の彼女はそんな私に対しケロりとした態度で返してくる。
「なんで? 大人ぶったクールキャラしてる普段より全然良かったよ?」
「うわ、そんなこと思ってたんだ……私は上手く感情を出せないだけ。別にキャラとかじゃないから」
棘のある言葉に対して少しだけ強めに返す。
「じゃあなんで泣いてたこと忘れた方がいいの?」
「だって……あまり良いとは思えないし」
人前で感情のままに泣いたりしちゃダメだ。お母さんの教育に加え、私は人生経験でそう決意して生きてきた。
とはいえ私の心はそんなクールじゃない。
ちょっとしたことでモヤモヤするし、泣きたくなることも、プンスカと思い切り怒りたくなることもある。
表面が風のない湖のように穏やかなだけで、その下にはしっかり人間的な感情がある。
水面を刺激しようと湖底でなにか起きようと、溢れようとする激しい感情は表に出る前に、私の中の無意識が機械的に押さえ込む。
さっきまでは泣いちゃダメだと頭で自分に言い聞かせていたのに、今では泣く時は泣くんだなんて心が主張している。
心と頭の感情が噛み合ってないことを認識する。
そしてそれを認識することで、私は心を落ち着けた。
「でもさ、泣きたい時に泣けないなんて辛くない?」
私のそんな心の動きを読み取ったのか、紗柄さんは静かなトーンこちらへ投げかけた。
「辛くても泣いちゃいけないって心のどこかで勝手に思っちゃうんから泣けないの。甘いものを食べようとする時に今朝測った体重を思い出して食欲が減るのと同じ」
「よくわかんないなその例えは」
……羨ましい。
そしてそんな羨ましい彼女はミニテーブルに両肘をつき、身を乗り出してこちらを覗き込む。
「んーでもさ、さっき自分のせいであの猫が死んだって言ったじゃん? 別にあなたのせいじゃないと思うんだよね」
彼女は私の目を通り越して何かを見るような視線で淡々とそう言葉にしてきた。
「なに急に……そうとしか考えられないでしょ? 私があそこに通わなければ猫だってあんな危険なところに来ないし」
「あーそっか。じゃあ君のせいで死んだんだね。あの猫」
「そう……だね」
「君が来なければあの猫は死ななかった。あのへんは車が結構なスピードで飛ばすくせに見通しが悪いから危ないんだよね」
「……うん」
「君が来なければあの子の死体は見ずに済んだ。自分の目の届かないどこかの自然の摂理で済んだ。けど君は来た。来てしまった。猫の自然の摂理を歪めてしまったわけだ」
演説じみた言い方に少し心の奥がイラ立つ。
「……だからそうだって」
「なのに泣かないんだ? 泣いてあげることをしないんだ」
「……っ?」
「悲しかったら涙が出る。それは自然だと思うんだよね。君だってさっきまでそうだったのに今はもうそれをしようとしない」
「……さっきからなにが言いたいの、泣かないといけないの?」
グッと歯に力を込める。
何か嫌なことを言われるんじゃないかと直感した。
「いや? それは自由だけどさ」
スゥと息を吸って、ゆっくりと彼女は言葉をつなげる。
「私が思ったのは、君の涙はパフォーマンスだってことだよ。結局は心のブレーキが常に働いているのに私の前で泣いて見せた。けど今は泣けないってことは、君はあの時、弔いとかじゃなく泣くべきだと頭で思ったから泣いたんだ」
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