第5話 知らない記憶と孫との約束

「父さんは認知症だったんだよ。ここ数年、俺やエリザ、エマのことなどすっかり忘れてしまっていて、話すこともままならないほど症状は進行していたし、医師からも老衰を待つだけと告げられていたんだ。」



アルベルトの言葉に俺の頭は疑問符だらけだ。

だが、一見深刻そうに、そして悲しそうにそう告げるアルベルトの言葉には嬉しさが滲んでいることは感じ取れた。それにアルベルトの妻エリザや孫のエマも涙を流してはいるが、それは悲しみよりも歓喜に近いもののようだ。彼や彼の家族は、全員が俺の復活を心から喜んでくれているのだと理解する。そして、そう理解した途端、頭の疑問符たちは消えていった。大病を患っていた訳ではないということだけでもわかってよかったし、治ったのだから今は素直に喜べばいいのだ。


しかし、まさか認知症とは。

それはさまざまな原因で記憶や思考などの認知機能が低下し、日常生活や社会生活に支障をきたす、ある意味で病のようなものだ。脳の神経細胞の減少や脳血管の障害など、その要因はさまざまではあるが、発症すれば治癒の余地はなく、親しい者たちとの記憶はもとより、自我すら失ってしまう。そんな恐ろしい病に俺は罹っていたらしい。

そんな状態の俺が突然「おはよう。」などと挨拶してきたのだから、家族が驚くのも無理はない話だろう。

俺はそのことを思い出して、皆にわからぬようクスリと笑みを溢す。


正直言えば、俺自身もショックは大きいし、かなりの不安も残っている。認知症から突然の復活だなんて、普通はあり得ないことなのだから。


少しだけ考えの渦に身を落としていると、部屋のドアがノックされて執事と共に医師らしき人物が部屋に入ってきた。彼はさっきアルベルトが連れてくるように指示した主治医だろう。彼も俺の様子を見た瞬間、混乱してしまっている。


どうしてこうなったか。それは彼らが知るわけもない。俺自身も理解できていないことばかりなのだから。そして、再び頭をよぎるある疑問。


認知症から回復した人間って、過去の記憶を忘れてしまうものなのだろうか。



アルベルトは主治医とともに、ああでもないこうでもないと話している。おおよそ、俺の認知症が突然治ったことについていろいろと議論し合っているのだろう。その横ではエリザもエマも、アルベルトたちの話を真剣に聞いていた。


かくいう俺も不安と疑念だらけである。やはり、記憶の欠落というものは、まったく気持ちのいいものではない。自分のことも家族のこともまったく覚えていないのだから、不安になるのも当たり前だろう。


小さくため息をつく。どうしたものだろうかと。まさか自分が認知症を患っていようとは夢にも思わなかったから、どうしていいのかわからないというのが、正直なところではある。これが不治の病ですと言われるよりは多少マシかもしれないが。

まぁしかし、思い出せないのだから悩んでいても仕方ないので、とりあえず今の自分の状況をもう一度整理してみるかと頭を切り替えて手をポンと叩いた。

この切り替えの速さは俺の良いところなんだろう。


だが、その瞬間だった。唐突に頭の中に流れ込んできくる大量の記憶と情報。そのせいで思考と体が停止する。




見たこともない服を身に纏う青年。そんな彼が聳え立つ見たこともない建物の間を、多くの人々を掻き分けて進んでいく。片方の手には鞄、もう片方には何か機械のようなものを持ち、それを耳に当てて忙しそうに駆け抜けていく。

かと思えば、今度は軍服のようなものを着て豪快に笑う精悍な初老の男性。彼は大剣を振り回して大軍に突撃していく。突っ込んだ矢先、彼の目の前の敵軍たちが砂埃と共に空へと吹き飛んでいった。


青年と初老の男性の姿がまるで走馬灯のように次々と、そして交互に頭の中を流れていく。その全てが記憶にない記憶であり、俺の意識はそれをただ呆然と眺めることしかできない。


朧げで、それでいて鮮明な記憶の数々。





「……ちゃん!お祖父ちゃんってば!」


「……んあっ?!」



どうやら現実でも呆然としていたようだ。エマの声によって現実に引き戻され、気づけば俺の顔を覗き込む彼女の顔が見えた。



「大丈夫……?」


「……ん……あぁ、大丈夫じゃ。」


「よかったぁ〜。またボケちゃったのかと思ってびっくりしたんだから……。」



彼女はそう溢して、目元の涙を拭う。エマは献身的に認知症になった俺の世話をしてくれていたと聞いた。だから、再び俺が認知症になってしまわないかと気が気でないのかもしれない。これが夢なのではないかと。それだけ慕ってくれていることには感謝しかない。


さっきの記憶のせいで、頭が少し疲れている。心を落ち着かせようとゆっくりと深呼吸をしてみると澄んだ空気が肺に取り込まれ、その爽快さが身に沁みた。俺は生きている。どうであれ生きている。その実感が体に活力を与えてくれるようだった。

いまだに自分が何者なのかよくわからない。88歳で認知症を患っていたのに、突然回復した理由も。それに突然頭をよぎった数々の記憶はいったい何なのか。だが、そんなことは今はどうでもいい。せっかく大病から復活できたのだ。これからゆっくり知っていけばいい。孫の笑顔のためにゆっくりと生きていけばいい。



「エマや。わしはもうどこへも行かんぞ。安心しろい。」


「お祖父ちゃん……。うん、絶対約束だからね。」



エマがそう言って俺を抱きしめてくれる。いい匂いがする。花の甘い香りが鼻を撫ででくすぐったい。

しかし、それ以上に俺の心を掴んで止まないもの。そうだ。それはエマの双丘だ。いい感じに俺に身を寄せる双丘のそのふくよかたるは……


(むほほいほい、良きかな良きかな!)



医師はすでにお手上げ状態であるようだ。しかし、アルベルトは2人の微笑ましい様子を見て気持ちの整理ができたらしい。その夜、クロフォード家では元当主の復活を祈って、規模は小さいが宴が開かれた。

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