第3話
翌朝、菜々子はカフェに姿を見せた平野に声を掛けた。
「あの……」
「あ、菜々子ちゃん。おはよう」
そのゆったりとした笑顔は、昨日よりも親しみがこもっているように感じる。
「薬……効いたかも、です」
「え?」
平野は首を傾げている。
「――惚れちゃいましたッ!」
「えぇっ!?」
平野のトレーが大きく揺れ、菜々子は慌てて立ち上がってそれを受け止めた。
コーヒーは無事だ。
「良かったら……」
菜々子が自分の向かいの席を勧めると、平野はふわりと微笑んで腰を下ろした。
「お弁当、美味しかったです!」
「えっ、食べてくれたんだ」
平野が目を見開く。
「はい。食べるつもりはなかったんですけど、あれ見ちゃったら……」
「良かった」
平野は満面に笑みを広げた。
冗談のように言ったが、菜々子は本気で平野に惚れてしまったのだ。
「俺さぁ、この近くで創作料理の店やってるんだけど、もしよかったらおいでよ」
「あ、そういうことですかぁ。道理で……」
食べるつもりはなかったなんて、料理人に失礼なことを言ってしまった、と菜々子は反省した。
「私はこの近くでネイルサロンやってるんです」
「あぁ……ネイルサロンは行けそうにないかなぁ、ごめんね」
平野は申し訳なさそうな表情を見せてから、照れたように白い歯をこぼした。
その日仕事を終えた菜々子は、早速平野の店を訪れた。
「あーっ! 菜々子ちゃん、来てくれたんだ」
ドアを開けるなり、カウンターの向こうの平野が声を上げた。
「来ちゃいました」と笑顔で応え、「空いてる席どうぞ」と促された菜々子は、窓際の席に腰を下ろした。
「マスタ~ァ、レシピ教えてくださいよぉ」
甘い声で女性客が平野に絡んでいるのが見える。
「それは例え常連さんでも無理っすねぇ。企業秘密ってやつです」
「えぇ~、私達めちゃくちゃ通ってるのにぃ、まだ駄目ですかぁ?」
「教えることは出来ないっすけど、食べて味を盗むのはオッケーっすよ」
平野はカウンター席に座る常連客らしき女性二人を笑顔で躱して、菜々子のテーブルへやってきた。
「菜々子ちゃん、お待たせ。何食べたい?」
「あの……カウンター席の綺麗なお姉さん達が食べてるのって何ですか?」
「ああ、どっちもうちのオススメだよ。タンシチューと、デミグラスソースハンバーグ」
「あ、じゃあ今日はハンバーグにします」
菜々子の大好物だ。
「今日は、ってことは、また来てくれるってこと?」
平野が覗き込んで尋ねる。
「毎日来ちゃうかも」
「嬉しいなぁ。じゃあちょっと待っててね」
菜々子の心を擽るような笑みを浮かべて、平野はカウンターに戻っていった。
「マスタ~ァ、じゃあまた来ますね~」
語尾にハートマークを付けて、先程の女性客はほろ酔いで帰っていった。
彼女達も、平野の料理に魅了され、彼に惚れ込んでここに通う客だろう。
「菜々子ちゃん、こっちおいで」
平野に手招きされ、菜々子は空いたばかりのカウンター席に移動した。
テキパキと調理する平野を眺める。
目が合い、口元を緩めた平野に、菜々子も笑みを返した。
――幸せ過ぎる……
きっと先程の女性客と同様、菜々子の瞳もハートになっているはずだ。
「ん~っ、めちゃくちゃ美味しい!」
満面の笑みを浮かべた菜々子を見て、平野は満足げに微笑んだ。
サラダにはラディッシュの花が咲いている。
「マスタ~ァ、レシピ教えてくださぁい」
今度は悪戯な笑みを浮かべながら、菜々子は先程の女性客の言葉を真似てみた。
「教えたら作ってくれる?」
平野が菜々子に顔を寄せ小声で言う。
「え?」
「作ってくれるなら、教えるよ」
更に小声で言った。
「え……だ、だって平野さん自分で作れるじゃないですか」
「俺は、菜々子ちゃんが作ったのを食べたい」
思いも寄らない平野の言葉にどぎまぎした菜々子は、咄嗟に返す言葉が見付からず、ぎこちなく笑って視線を逸らした。
デザートのアイスを食べ終えると、菜々子はバッグから財布を取り出した。
「お勘定お願いします」
「来てくれてありがとう。今日は俺の奢り」
「えっ、そんなの困……」
言いかけると、平野は人差し指を口の前で立てた。
傍に客がいることに気付き、菜々子は口を噤んだ。
「気を付けて帰ってね。また明日」と、カウンター越しに微笑む平野にキラキラの笑顔を返し、「ご馳走さまでした」と挨拶して店を後にした。
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