第2話
翌朝カフェにやって来た彼と目が合うと、明らかにこちらに向かって歩いて来るのがわかった。昨日のこともあって、緊張でカップを持つ手が震える。
案の定、菜々子の目の前で立ち止まった彼は、何故か菜々子のランチバッグを持っていた。
「あの、それ……」
「昨日忘れていっただろ? 気付いてすぐに追いかけたんだけど、見当たらなくてさ」
ランチバッグをテーブルに置くと、彼がそう言った。
昨日カフェに戻った菜々子と入れ違いになったということだろう。
「あ、そうだったんですね。わざわざありがとうございます」
「あぁ、いや……」
彼が何か言いたげな顔をしているように見えた菜々子は、恐る恐る尋ねてみた。
「あのぉ……中、見ました?」
「いや……」
「あ、そうですか」
それを聞いてホッと胸を撫で下ろした瞬間、彼がぽつりと言った。
「鮭弁……」
――見られたッ!!
よりによって、一番見られたくない人に。
「い、いつもはもうちょっとまともなお弁当なんですけど……」
なんて言い訳をしても時すでに遅し。
それは、白飯の上に焼き鮭が乗っているだけの質素で色気のない弁当だった。
ネイリストなんていう、いかにも手先が器用で女っぽくて華やかなイメージの職業に就いている菜々子だが、料理の腕はからっきしだった。
「美味かったよ」
彼は屈託のない笑顔でそう言った。
それは鮭のポテンシャルだ。
いや、そうじゃなくて――
「た、食べたんですか!? 毒でも入ってたらどうするんですか」
「いや、君の弁当だってわかってるから、それは大丈夫だろ」
彼は事もなげにそんなことを言った。
「それはそうですけど、名前も知らない話したこともない人のお弁当を食べるなんて……」
「俺、
「平野さん……。あ、私は
釣られてつい名乗っていた。
「菜々子ちゃん、きちんとしてそうだし」
突然名前で呼ばれて、不覚にもキュンとしてしまう。
「そんなのわかんないですよ。私、手も洗わずに作ったかもしれないですよ?」
まあ鮭を焼いて乗せただけだけど、と菜々子は心の中で呟く。
「それはないと思うな。だって菜々子ちゃん、いつも席に着いたらまず手の消毒してるだろ?」
「え?」
職業柄、手の消毒が癖付いているが、そんなところまで見られていたことに菜々子は驚いた。
「あぁ……じゃあ食べてくれないかなぁ」と表情を曇らせた平野に、「どういうことですか?」と菜々子は尋ねた。
「鮭弁のお礼に弁当作ってきたんだ。良かったらどうぞ」
平野は菜々子のランチバッグを指差した。
「え?」
「ちゃんと手は洗ったよ。毒も入ってない。……惚れ薬は入れといたけど」
平野はニカッと笑うと、菜々子の斜め前のテーブルに着き、いつものように素知らぬ顔でコーヒーを啜った。
「お先です。また……」
そう挨拶して、菜々子はカフェを出てサロンに向かった。
また……なんだろう。思い返して恥ずかしさが込み上げた。
施術中も、平野の笑顔が頭から離れない。
弁当を勝手に食べていたことには驚いたが、礼と称して弁当を作ってくる彼の意図が全く読めない。そもそも彼に作った弁当ではないのだから。
一体どういうつもりなのだろうか。
平野の存在はここ数ヶ月ずっと気になっていた菜々子だが、これにはさすがに少し戸惑っていた。
が、しかし――
施術を終え、客を笑顔で見送った菜々子は、気になって仕方がなかった弁当箱を開けてみることにした。
見てみるくらいはいいだろう。
ランチバッグを開けると、ラブレターが――なんてことはなく、なんの変哲もない菜々子の弁当箱が入っている。持ち上げるとかなり重みがある。中身が詰まっているようだ。
テーブルに置き、ゆっくりと蓋を開けた菜々子は、思わず息を呑んだ。
そしてしばらく見入ってから、感嘆のため息を漏らした。
それは、こんな安物の容器に閉じ込められていることに違和感を覚えるくらい美しい弁当だった。
目を奪われるとは、こういうことなのだろうと思った。
色彩感覚が素晴らしい、なんて思ってしまうのは職業病かもしれない。弁当の赤といえばミニトマトしか思い浮かばない菜々子にとって、真っ赤なラディッシュが花を咲かせていたのが衝撃的だった。
そして、どうしても食べたい衝動を抑えることが出来なかった菜々子は、今日名前を知っただけの、何者かもわからない男が作った弁当に箸をつけた。
――う、ヤバイ……
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