オールスパイス

凛子

第1話

 菜々子ななこには気になる人がいる。毎朝仕事前に寄るカフェで見かける男性だ。

 時々目が合う。いや、毎日何度も目が合う。けれど互いに会釈すらせず、何事もなかったように目を逸らす。彼の気持ちは読めないが、この違和感には恐らく気付いているはずだ。

 挨拶してみようか、と考えているうちに三ヶ月も経ってしまい、完全にタイミングを逃していた。


 菜々子は自宅から程近いマンションの一室を借りて、一年前にネイルサロンを始めた。念願叶って自分の店を持つことが出来たのだ。

 必死に学んで身に付け磨いた技術は、誰にも負けないと自負していた。

 顧客を着実に増やし、仕事は順調そのものだったが、プライベートはといえば、気付けば二年間彼氏がいない。

 そんな菜々子が胸をときめかせているのが、カフェで見かける彼だった。



 午前九時。今日も彼がやってきた。

 そして菜々子の視界に入る席に着いてコーヒーを啜っている。


 長身で手足が長く、髭とマンバンヘアが目を惹く。エスニックなファッションは、そんな彼にとてもよく似合っていて、独特なオーラを放っている。どこかのショップ店員だろうか。

 不意に天井を見上げたかと思うと、何か思い付いたような表情をして、ポケットから取り出したメモ帳に書き込む彼の姿を、菜々子は何度も目にしたことがあった。

 もしかするとあれはネタ帳で、彼は芸人なのかもしれない――なんて思ったこともある。


 今日はやけに目が合うと感じるのは、菜々子が彼を見すぎているせいだろうか。逸らした視線をもう一度彼に向けると、まだこちらを見ていた彼と再び視線が絡んだ。

 何故か彼は目を逸らさず、菜々子の心臓が早鐘を打つ。そんなことを数回繰り返し、動揺して落ち着かなくなった菜々子は、早々にカフェを後にした。


 サロンに着いたところでランチバッグを忘れたことに気付き、菜々子は急いでカフェに戻った。なんとなく彼と顔を合わせるのは気まずいと思っていたが、店にはもう彼の姿はなかった――が、菜々子のランチバックも見当たらなかった。

 カウンターで店員に尋ねてみたが、届いていないと言う。ほんの数分だったのにおかしいとは思ったが、ないと言うのだから仕方がない。諦めてサロンに戻ることにした。


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