第3話 契約

「あれ?」


 私の目の前では、お祖父様の石像が私を見下ろしていた。ここは霊廟の最初の場所。私は急いで石像の後ろに回り込む。


「ない!」


 文字が書かれていたはずの部分には何も無かった。まるで初めからそこには何も書かれてなかったかのようなつるりとした石肌だった。


「姫さま! このようなところにいらっしゃったのですか。ああ、良かった」


 振り返ると礼儀作法の教師、マーゴットが立っていた。


「ごめんなさい……」


 慌てて私は謝罪する。彼女には先に申し訳無さそうな顔で謝っておけば何とかなることを、私は知っていた。


「いいえ、それよりも大変なことになっております」


「大変なこと?」


「一刻も早く逃げるのです。城にトラキアの軍勢が……」


「えっ、帝国が攻めてきたの!?」


「そうです。すぐに王のもとへ」



 階段を上がるとお城の様子はいつもと違っていた。なんだかくさい。それにみんな走り回っている。私とマーゴットのことを見つけた騎士さまたちが集まってきた。


「姫様はご無事か! 我々が命を賭けてお守りいたします」


 女の騎士さまに私は抱きかかえられて、混乱するお城の中を進んでいく。


 人が斬られ、血が飛び散り、倒れていく。いつも私の大好きなデザートをこっそり作ってくれる料理長さんも、私と遊んでくれる侍女さんたちも、みんな倒れて動かない。矢が頭に刺さった人、首がなく誰だか分からなくなった人……。あっ、あれはグスタフ!


「団長……」


 女騎士さまの呟きが頭の上で聴こえた。たくさんの矢が体中に突き刺さっているグスタフは剣を振り上げた姿勢でもう動くことはなかった。ああ……、ああ。なんてこと……。さっきまで現実じゃない夢の中にでもいるようで私の頭はぼうっとしていたけど、大好きだったグスタフの死を理解して急に体中から体温が奪われる気がした。


 襲いかかる敵の兵士と戦う騎士さまたちの剣の甲高かんだかい音が聴こえていたけど、王の間の扉の前にたどり着いた時には、私を抱える騎士さまとマーゴットだけになっていた。扉を開けてその中に入ると騎士さまの身体が強張こわばったのを私は感じた。


「がはっ!」


 彼女は膝を折り、何とか倒れないように踏ん張った。私を静かに降ろすと後ろを振り返る。


「マーゴット、貴様……」


 そこには血のついた短剣を握ったマーゴットが無表情で立っていた。


「この短剣には猛毒が塗られています。さすがのあなたでも抗うことはできませんよ」


 騎士さまはそのまま前に倒れてしまった。


「ああ。ああ……」


 私は恐怖でそれ以上、声を出せなかった。逃げようと振り返るとその先には、赤絨毯を赤黒く染めた血の海の中にうつ伏せに倒れているお父さまとお母さまの姿があった。


「見つけたか、マーゴット。お手柄だな。その娘を帝国に連れて帰れば褒美は思いのままだ。陛下がなぜこの娘にご執心しゅうしんなのかは分からんが」


「偉大なる皇帝陛下のお考えを邪推じゃすいするものではありませんよ。あなたも目障りだったミズガルドを落としたのです。これは誇るべきことですよ」


 敵? マーゴットは裏切っていたの? 彼女と話していた大男が私に近づいてくる。私はその場にしゃがみ込んだまま動けなかった。


「いや。こないで……」


 怖くて悲しくて、涙も鼻水も止まらない。



 『小娘、いや、セレス。聴こえるか?』



 頭の中に直接男の人の声が聴こえてきた。これはクジラ……。あれは夢じゃ無かった。


『俺の質問に答えろ。返事は、はいかいいえだけでいい』


 はい。


『悲しいか?』


 はい。


『苦しいか?』


 はい。


『お前の両親を殺したその男が憎いか?』


 ……、はい。


『王を王妃を、お前を。そしてこのミズガルドを帝国に売ったその女が憎いか?』


 ……。……、はい。


『お前に優しかった城の者たちを惨殺したトラキアの兵士が憎いか?』


 はい。


『平和で自然に囲まれたこの美しいミズガルドを滅ぼしたトラキア帝国が憎いか?』


 はい。


『俺と【契約】しろ。そうすればそのすべてを滅ぼしてやる』


 はい。


 私は言われるままクジラのすべての問いに返事をした。


『我が【真名】は、リール。かつての親友ティリダテス・ミズガルドの血筋、彼の最愛なるセレスティア・ミズガルドと血の契約を結ばん』


 熱い。私の全身の血が沸騰したように熱くなり激しく駆け巡る。その勢いを抑えることができずにこれでは私が爆発してしまうと思った瞬間、視界が真っ暗になった。

 

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