プロローグ(3)

 夜の九時。


 自室の机の椅子に座ってリョウに電話をかける。祈り者について情報を共有するためだ。すでに先輩には帰り道で伝えてある。


 プルルっと無機質な呼び出し音が長く続き、やっと八コール目で通話が繋がった。


『もしもし』

「もしもし。リョウ、怪現象のことで少し話したいんだけど今大丈夫か?」

『…………』

「リョウ?」

『……あ、そっか。そういやお前、今は女の子だったな。遠也とおやからの電話で可愛い声が聞こえてきたからびっくりした』

「……今日何度も会話しただろ」

『いやぁ顔が見えてればアレだけど、さすがに声だけじゃ脳がバグるな』

「ったく。それで今、話しても大丈夫か?」

『おう。お風呂中だからちょっと声が反響して聞き取りづらいかもだけど』


 だからすぐに電話に出れなかったのか。かすかにちゃぷちゃぷと水音が聞こえるから湯船に浸かっているようだ。


「あー、べつに緊急じゃないから上がってからでもいいぞ」

『オレ長風呂だからこのままでいいぞー。それともオレの裸を想像して集中できないかぁ?』

「そうだな。じゃ、切るわ。話はまたこんど……」

『じょーだん、じょーだんだってば! ちゃんとオレにも教えてくれ!』

「はぁ。じゃあこのまま通話を続けるぞ。結論から言えば祈り者を発見できた」


 今日の放課後にあった出来事を大まかに話した。


『──なるほど。入学式の事件が関係してるから遠也とおやに変化があったわけか。花咲はなさきみゆりさんって言えばA組のあの小柄で守ってあげたくなるキュートな子だな』

「友達か?」

『いやじかで喋ったことはないなぁ。クラス合同体育とかで見かける程度。傍から見た感じだと少し消極的でマジメなイメージだな』

「……消極的ねぇ」


 真面目というのはなんとなく分かるが、上級生の彼塚かなづかを脅迫する様子からして気弱な印象は受けなかったが…………あの時は怒りに突き動かされていただけなのか。


『それで、花咲はなさきさんは入学式の事件を根に持ってて加害者の彼塚かなづか先輩が謝らないことには怪現象が解決しないわけか』

「ああ。どうも花咲はなさきは俺以上に彼塚かなづかのことを恨んでるみたいなんだ」

『んー。なんか話を聞いたかぎりだとそこまで解決は難しくないと思うけどな』

「どこかだよ。十分難しいだろ」

『だって花咲はなさきさんは彼塚かなづか先輩の謝罪が欲しいだけだよな。謝らせればいいだけじゃん』

「簡単に言ってくれるな……お前は彼塚かなづかの人間性を知らないんだ」

『そうなのか? いやオレも前にお前を貶めた相手がどんなやつなのか気になって彼塚かなづか先輩について調べたことがあるけど、生徒にも先生にも評判が良い優等生だったぞ』

「だから俺が悪者扱いされてるんだよ。あいつの表面に関しては全部偽りだから信じるな」

『にわかには信じがたいけど遠也とおやがそう言うならそうなのか。まぁオレも先月まで素を偽ってたわけだし表面上のことだけじゃ分からないもんな。となると一筋縄じゃいかないわけか』


 そこで会話が途切れる。帰り道で先輩と話し合ったときもこうだった。


 先輩もリョウも今回の件に関して第三者だ。加えて花咲はなさき彼塚かなづかのことをよく知っているわけでもない。解決策が思い浮かばないのは当然。結局は当事者の三人で片をつけるほかないのだ。


 リョウは労うように声のトーンを落とす。


『一度は巻き込んだオレが言うのもアレだけど、大変だな』

「まったくだ。しかも厄介なことに明日は終業式だろ。夏休みに入れば三人が揃う機会がない」


 花咲はなさきは俺に対して罪悪感を抱いているみたいだから言えば会ってくれるだろうが、彼塚かなづかのほうは無視されるのがオチだ。だからと言って明日のたった半日で二人を和解に導くなんてどう考えても無理。


 俺が一ヶ月間女であることを我慢すればいい話だが、時間が経ってどうなるか…………実はタイムリミットがあって一生このままということもあり得なくはない。


『しょうがない。ここはもう開き直って女の子であることを楽しもうぜ。あかね先輩を誘って三人でデートしようっ』

「慰めるふりしてお前の願望を押し付けんな」

『だってお前にだったらちょっと強引なことをしても大丈夫そうだし…………あ、そうだっ』

「おい、また良からぬことを企んで……」

『違うって。今思い出したんだけど、お盆に兄ちゃんたちが帰ってきてみんなで別荘に泊まることになってるんだ。二泊三日でな』


 白ノ瀬しろのせ家の家族構成は、父母に、兄二人、双子の弟と妹の計七人。兄二人は成人しており、長男は仕事で海外に住んでいて次男は大学生で県外の一人暮らしだ。


「別荘って、たしか四年前ぐらいに俺と姉貴がお邪魔したログハウスの?」

『そうそう。今回も遠也とおや舞花まいかちゃんを誘う予定だったから、ついでに花咲はなさきさんたちも誘えばいいんじゃないか? もちろんあかね先輩も』

「俺と姉貴は親しいからいいけど、さすがに見ず知らずの人が参加するのは迷惑じゃないか?」

『あ、みんなって兄弟のことだぞ。父ちゃんと母ちゃんが二人きりで海外旅行に行きたいって急に言い出したから怜兄れいにぃが計画を立ててくれたんだ』

「相変わらず奔放な両親だな……」


 まぁあのフレンドリーな兄弟たちだけなら気を遣う必要はないか。


「そうか。じゃあ悪いけどその手筈で頼む」


 そもそも花咲はなさき彼塚かなづかが参加してくれるかお盆に時間が空いているかなどなど不安要素は多々あるが、他に良い案がない以上躊躇っている場合ではない。


 リョウの『おう。怜兄れいにぃに伝えてみるな』という言葉を最後に通話を終えた。


 俺も姉貴に伝えておこうとスマホを机に置いてダイニングに行く。


 姉貴はテーブル席に座って酒とツマミを片手にテレビ番組をぼーっと見ている。


「姉貴。ついさっきまでリョウと電話してて、白ノ瀬しろのせ兄弟がお盆休みに別荘で過ごすみたいで藤城ふじしろ姉弟もぜひ来てくれって言ってたぞ。俺は行きたいと思ってるから姉貴も同行して車を出してくれるとありがたいんだけど」

「それって誰の案?」

怜兄れいにぃだ」

「じゃあパス」


 テレビに視線を向けながら素っ気なく返事する。


 言わずとも何を思っているのかは分かった。


 怜兄れいにぃの存在が面倒なのだ。怜兄れいにぃは小さい頃から姉貴に対して超がつくほど好意を寄せており、毎年顔を合わせるたびに求婚して姉貴にウザがられている。そもそもこの別荘宿泊も姉貴と過ごしたいが為に計画した部分もあるのだろう。


「もう諦めて気持ちを受け取ってやれば? イケメンで金持ちで器量も良くて性格も紳士、あんな優良物件ほかにいないぞ」

「他のスペックが良くても愛が過剰な時点でムリ。毎日束縛されたんじゃ堪らないわ。っていうかそう思うならあんたが付き合えばいいじゃない。姉妹なんだから大して変わらないでしょ」

「…………いや俺はもう間に合ってるんで」


 そういや今女だから周りの見方も変わっているのか。もし俺のほうにも愛を向けられたら面倒だし、怜兄れいにぃの姉貴に対する一途さが嘘になるからなんか複雑な気持ちになるな。


 なんにせよ、車を運転できる姉貴に行ってもらわないと困る。


 白ノ瀬しろのせ家の別荘はこの自宅から車で二時間ほどの場所に位置し、さらに山と海に囲まれた秘境にある。近くの町まではバスや電車で行けるが、そこから一山超えなければいけなくて足で向かうには長距離だ。といって怜兄れいにぃに往復してもらうのは悪いし。


怜兄れいにぃのことは措いといて。姉貴が行ってくれないと運転手がいないんだよ。どうせ何も予定はないんだろ、暇な家に籠もってるよりも外に出たほうが気分が良いと思うぞ」

れいに付きまとわれる億劫さを考えれば家でぐーたら過ごしてたほうがマシよ。あんた一人なんだから一緒に乗せてもらえばいいでしょ」

「いや実は、さっきリョウには許可を取ったんだけど学校の人を連れて行きたいと思ってて」

「学校の人? ……あんたが一緒に行きたいほど仲が良いってことは夕凪ゆうなぎさん?」

「ああ。それと同じ学年の花咲はなさきって人と二年の彼塚かなづか……」


 言葉を言い終えないうちだった。


「────彼塚かなづか!? あんたまた怖い目に遭いたいのっ!?」


 姉貴はテレビから俺のほうに視線を変えると、信じられないとでも言いたげな顔で憤る。


 態度が様変わりして思わず驚いてしまう。


「こ、怖い目って……?」

「まさか入学式の日のことを忘れたわけじゃないわよね。言い寄られてる花咲はなさきさんを助けようとして乱暴されたんでしょ。そんな相手を連れていくなんて一体なにを考えてるのよ!?」


 俺が乱暴されただと? 取り押さえたときに抵抗された記憶はあるが暴力は受けていない。


 入学式の日の事件が改変している。


 たしか花咲はなさきの祈った内容には〝あの日の間違いを正したい〟というのもあった。つまりあの場で花咲はなさきが逃げなかったことになり、しっかりと事情説明したことになっているわけか。


 なら彼塚かなづかの環境が変わったことにも合点がいく。彼塚かなづかの悪は立証され、下級生の女子生徒二人に手を出したとなれば周りから忌避されてもおかしくない。


 そんな相手を誘おうとしているのだから姉貴が怒るのも無理ないか。


 どう説得するかしばし考えた結果、虚実を混ぜて話すことにした。

 放課後に見たイジメを看過できず彼塚かなづかの環境を変えてあげたい。そのためにこの別荘宿泊を利用してまずは自分たちが和解したい。


 姉貴は腕を組みながら真剣な態度で聞く。


「とんだお人好しね。それは遠香とおかが考えることじゃなくてあたしたち教師が考えることよ」

「でもあの様子を見たかぎり第三者が入って解決できることじゃない。だから被害者の俺たちが仲直りすれば問題が収まると思ったんだ」

「まずその仲直りが難しいって言ってるの。大体まだ別荘の話を持ちかけてないんでしょ。普通に考えて参加してくれないと思うわよ」

「それは……なんとか頑張って誘う」

「頑張るってあんたねぇ…………これは教師じゃなくて姉としての言葉だけど、彼塚あのこに近づくのはやめたほうがいいわ。もしかしたら入学式の日のことを根に持ってるかもしれないし、善意で関わった挙げ句また嫌な目に遭ったら元も子もないでしょ」

「それでも、このままにしておくのは耐えられないんだ」


 一生この体で過ごすなんて耐えられんっ!


 そんな俺の心を見透かそうとするように、姉貴はしばらく俺を無言で見据えた。


 やがて嘆息をつき、脱力したように腕を解いて「ほんとに頑固なんだから」と愚痴をこぼす。


「──分かったわよ。あたしも同行してみんなを連れて行けばいいんでしょ」

「協力してくれるのか!」

「断って変に行動されても困るしね。ただし今回で仲直りできなければ諦めなさい。いい?」

「ああ、分かった」


 もし失敗に終わっても諦める気は毛頭ないけど。


「誘うときは気をつけなさいよ。もし何かあったら姉ちゃんに言うのよ」

「お、おう」


 俺の身を案じてくる姉貴が気持ち悪かった。




     ***




 翌日。

 俺は朝早くに家を出て学校に向かう。やっぱり女子制服は慣れない。


 朝のホームルームが始まるまえに花咲はなさき彼塚かなづかを宿泊に誘う。今日は終業式で学校が半日で終わるということも理由だが、生徒が多くなればなるほど人気者の遠香とおかは身動きが取れなくなる。二人とも早くに登校してくれれば助かるのだが。


 昨日姉貴を説得できたあと、自室に戻るとスマホにリョウからメッセージが来ていて怜兄れいにぃの許可を貰ったとのことだった。すぐに先輩にもその旨を伝えてお盆休みのアポを取ってある。


 学校に着き、教室に行くとすでに登校している優等生たちが気さくに挨拶をかけてくる。


 俺には似合わない笑顔を浮かべて返しながらも、会話に移行してしまうまえに自分の席にスクールバックを置いて教室を出た。そのままA組へ。


 廊下から花咲はなさきの姿を探していると。


藤城ふじしろくん?」


 下駄箱のほうから花咲はなさきがやってきた。バックを持っているからちょうど今登校したようだ。


 花咲はなさきはどこか緊張した面持ちで俺を見る。


「もしかしてわたしに用事ですか……?」

「ああ。ちょっと話したいことがあるんだけど……ここじゃ目立つから別のところで話そう」

「わ、わかりました」


 一旦机にバックを置きに行った花咲はなさきと、いつもの人気のない階段下に行く。


「移動してもらって悪い。人がいると一方的に声をかけられて話どころじゃなくなるからな」

「ごめんなさい……」

「ああいや、ただ単純にそうだって話だ。人から好かれるのは悪いことじゃないしな。それに俺に謝るよりも彼塚かなづかを許してやってくれたほうが俺としてはありがたいんだけど」

「……それは難しいです」


 相変わらず意志は固いか。やっぱり今日中に解決できる問題じゃないな。

 そうと分かれば尚のこと白ノ瀬しろのせ家の行事に付き合ってもらわなければ。


 別荘宿泊の件を掻い摘んで伝えた。


「──今のところお盆に予定はないですけど、他人のわたしが参加していいんですか?」

「それはしっかりと本人にも了承を貰ってるから大丈夫だ」

「本人に? 白ノ瀬しろのせさんとは一度も面と向かって話したことないぐらいの仲ですけど……藤城ふじしろくんが白ノ瀬しろのせさんにお願いしたってことですか?」

「まぁそうだな」

「でもどうしてわたしを誘って…………まさか、わたしまた何か仕出かして……!」

「違う違う。純粋にお互いのことをよく知らないから良い機会だと思っただけだ。それにほら、昨日俺が前にも常識じゃ考えられない出来事に巻き込まれたって言っただろ。リョウ……白ノ瀬しろのせも少女像に祈って怪現象を引き起こしたことがあるんだ」

「え、そうなんですか!」

「ああ。それで花咲はなさきのことを話したら共感したみたいでぜひ仲良くなれればって言ってたぞ」


 本来の目的は伏せておこう。彼塚かなづかも誘うなんて言えば絶対に来てくれなくなる。


 花咲はなさきは悩むように黙考したあと。


「話は分かりました。せっかくのご厚意ですから参加します」

「おう! 具体的な日時や集合時間とかはまだ未定だから追って連絡するな。それと多分あとで白ノ瀬しろのせが声をかけてくると思うから仲良くしてやってくれ」


 花咲はなさきが頷いたのを最後に、そのまま一緒に階段下を出てB組の教室前で別れた。


 俺は一旦教室に入り、花咲はなさきがA組の教室に入っていったのを確認してから二階に向かう。


 花咲はなさきは上手く誘えて安心したのも束の間、問題は彼塚かなづかだ。


 訳を話して素直に花咲はなさきに謝るなんて都合の良い展開は端から期待していないから別荘宿泊に誘うほかないのだが、あの性悪な性格を考えればそれすらも難しそう。しかし、今日を逃せば会話すらできなくなってしまう。どうにかして無理やりにでも約束を取り付けなくては。


 まだ生徒のいない廊下をささっと渡って二年A組の教室に行くと、ラッキーなことに彼塚かなづかはすでに登校していた。

 孤独に席に座り、一生懸命にハンカチで机を拭いている。見るからに落書きを消しているっぽい。


 何人かいる周囲のクラスメイトは彼塚かなづかを腫れ物扱いするように遠巻きで眺め、ひそひそ話をしている。突然嫌われたという話は本当みたいだな。


 数ヶ月前までの俺と同じ状況を体験させられてざまぁみろだが、思ったよりも心がスッキリしない。むしろ同情心が湧いてくる。

 なんかこちらまで嫌な記憶がよみがえって疲れてきた。早いところ会話に持ち込もう。


 しかし、彼塚かなづかは机を綺麗にすることに集中しているのか、あるいは周りの視線に耐えれずに逸らしているのかこちらを見る気配がない。他の生徒の目がある中で声をかければ大騒ぎになりそうだし……。


 仕方なしに様子を窺っていると、しばらくしてインクで黒ずんだハンカチを見て席を立った。


 そのときに目が合う。チャンスとばかりに『ついてこい』とあごでしゃくる。


 彼塚かなづかは数瞬の間を置いて俺であることを悟ったようで、顔を顰めながらも廊下に出てきた。


 一言も言葉を交わさずに先導して廊下の突き当たりにある非常階段に行く。


 立ち止まって振り返り、睨み据えてくる彼塚かなづかに向かって言う。


「俺が元の姿を取り戻すために協力しろ」


 俺が女に変貌し彼塚かなづかが嫌われた原因である怪現象ヒロインズプレイについてと、それを解決するためには入学式の事件の非を認めて花咲はなさきに謝罪する必要があることを手短に話す。


 彼塚かなづかは理解しているのかしていないのか黙ったまま聞いていたが、


「そんなこと知るか」


 あろうことかそう言い放って教室に戻ろうとする。


 急いで肩を掴まえた。


「一蹴してんじゃねぇよ。これはお前の為でもあるんだ」

「僕の為? 見え透いた嘘をつくなよ。今のお伽噺のような話が本当だとすれば、不良くんが困ってるだけでしょ」

「は? お前だって周りから避けられた今の状況はつらいだろ」

「べつに。馬鹿どもに蔑まれても何とも思わないね」

「強がりやがって……」


 やっぱりこいつの捻くれ性格は面倒くせぇ。


「大体お前が入学式の日にナンパなんて馬鹿な真似するからこうなってんだよ。責任を取れ」

「ナンパって何のことだが。それに責任って君が首を突っ込んで自滅しただけだろ。僕の邪魔をしなければこうはなってない」

「屁理屈でごまかそうとすんな」

「実際そうでしょ」

「……はぁ。とにかく花咲はなさきに謝れ。今日中に無理って言うならお盆に知り合いが宿泊計画を立ててくれたからそれにお前も参加しろ」

「見ず知らずの人の催しに行くわけないでしょ。君と違って僕は忙しいんだ。そんなことに時間を費やしてる暇はないね」

「あ、おい────」


 彼塚かなづかは俺の手を振り払って教室のほうへと足早に去っていく。


 追いかけようと廊下に入ったとき、ちょうど一階から生徒の集団が現れて引き止めるタイミングを失う。その間にも彼塚かなづかは教室の中へと入って行ってしまった。


「…………」


 手のひらに爪が食い込むほど自然と手が拳を握る。


 ──めちゃくちゃムカつくっ! こっちが譲歩して全部水に流してやるって言ってんのに、普通あそこまで取り付く島のない態度を取るか!?


 もういい。あいつが粗野な対応をするならこちらにも考えがある。正直この手は卑怯だから使いたくなかったが構うものか。


 ぜぇったいに別荘宿泊に連れて行かせる!




     ***




 体育館で校長の眠たくなる長話や生徒指導の夏休みの過ごし方に関する注意を聞いたあと、ホームルームで課題がどっさり出されて半日で学校が終わる。


 そしてすぐに俺の元には学年学級男女関わらず続々とお誘いがかかる。


遠香とおかさん、来週に複数人で遊びに出かけるんだけど一緒にどう?」

遠香とおかちゃん、もし暇だったら一緒にお買い物に行こうよっ」

藤城ふじしろ~、近いうちにアプデが入るらしいからボクとオンラインでやろ~」


 校門に行くまで何度も足を止められ、そのたびに予定が合えばと言葉を濁した。


 なんとか学校を出て近くの市民公園で先輩と合流し、現状を伝えた。無事に花咲はなさきを誘えたことと彼塚かなづかが思った以上に性根の腐ったやつで誘いを断られたことを。


 しかしそれについてはまだ方法があり今から試してみると伝え、結果が分かり次第報告することを約束して先輩と別れた。


 俺は公園を出たその足で彼塚かなづかの自宅に向かう。入学式の事件で三ヶ月ほど前に姉貴と一緒に謝罪に行ったから場所は把握している。



 県道沿いから横に逸れて進んでいくと閑静な住宅街に入る。


 そしてその中に建つ一際大きな二階家。俺の背丈を超すアルミ鋳物の門扉に、その向こうにある小庭には人工芝が広がっており白を基調とした家の外観とマッチして清潔で高級な印象を醸し出している。


 俺の住むボロアパートとは格差があり過ぎてそこでもまた苛立ちが募るが、『ここは我慢だ我慢』と心の中で自分に言い聞かせて気持ちを静める。


 怒りが表に出ないよう表情を整えてから門扉に備え付けられたインターホンを押すと、すぐに『はい。どちら様でしょうか?』と若い女性の声が聞こえた。


 俺は純粋無垢な女子高生を演じる。


「あの私、真尋まひろ先輩の後輩の藤城ふじしろ遠香とおかと言います。真尋まひろ先輩のことでご家族の方にお伝えしたいことがありましてお伺いさせていただきました」

真尋まひろ様はまだお帰りになられていませんが……』

「大丈夫です。むしろ真尋まひろ先輩がいると話しづらい内容なので」

『……ご用件承りました。奥様にお伝えしますので少々お待ちください』


 そこで通話が切れる。

 言葉や口調的にお手伝いさんか。そういえば前に訪ねたときに一人見かけたな。よく思い出せば声質に覚えがあるしあの時と同じ人だが、だとすれば俺のことを知らないはずがないからやっぱり過去が書き換わっているようだ。


 一分も経たずに家の玄関が開き、ゆったりとした服装の見るからに上品な女性が現れた。


 顔に見覚えがある。彼塚かなづかの母親だ。姉貴と謝罪に行ったときはどこか冷たいというか高圧的なイメージがあってあまり良い印象はない。


 そんな母親は優雅さのない駆け足で寄ってくると警戒もせずに門扉を開けた。


藤城ふじしろさん、お久しぶりね。それでまた真尋まひろが何か……?」


 明らかな不安を顔に浮かべる。

 その記憶と合致しない低姿勢な態度で、自分の考えが間違っていないことを確信した。


 今は怪現象によって彼塚かなづかの悪は確定している。母親からしても息子は年下の女の子二人に手を出した加害者。加えて夫は有名なクリニックの経営者だそうだし、俺が思っている以上に入学式の事件は頭を抱えるものだっただろう。その被害者がアポなしで来ればこういう反応にもなる。


 作戦通りだ。彼塚かなづか自身に拒否られるなら家族から許可を取って無理やり参加させる流れにすればいい。被害者であることを盾に自分の意見を通すなんとも汚いやり口だが、元はと言えば彼塚あいつが素直に頷かないのが悪い。


 変に不安を煽らないよう少しだけにこやかな表情を作る。


「いえ。真尋まひろ先輩のことで訪ねはしましたが、私が被害に遭ったりだとか真尋まひろ先輩が別の事件に関与したとかそういう話ではないので安心してください」

「そうなのね…………じゃあどういったご用件で……?」

真尋まひろ先輩の学校での立場についてです。入学式の件が尾を引いてみたいで────」


 まずは彼塚かなづかがイジメの標的にされていることを伝え、続けて、それを見過ごせずに解決策を考えた結果自分たちが完全に仲直りすれば周りの彼塚かなづかに対する評価が変わると思って知人の宿泊に招待したい旨を話す。


 母親の顔は不安を通り越して深刻になった。


真尋まひろがそんな状況にあったなんて……あの子なにも言わないから知らなかったわ……」

「たぶん真尋まひろ先輩はご家族に心配をかけたくなかったんでしょう。私も伝えていいものか悩んだんですけど、どうしても黙って見ていられなくて。なので今日はお母様に宿泊の許可をいただきに来ました」

「それはとてもありがたい申し出だけど……その、藤城ふじしろさんはいいのかしら…………藤城ふじしろさんからすれば真尋まひろは怖い人間でしょう、本当は我慢して提案してくれてるんじゃない?」

「私は大丈夫です。それよりも当人の間ではもう終わった話なのに第三者があれこれ言うことのほうが我慢なりません」

「……そう。ありがとう。藤城ふじしろさんはとっても優しい子ね」


 話が計画どおりに進む一方で嘘を吐いていることに良心の呵責を感じた。……まぁ怪現象を解決することは彼塚かなづかの今の環境を元に戻すことに繋がるわけだし結果的に間違いではないか。


 …………。


 自分がしようとしていることに何か疑問のようなものを感じたとき、


「──あれ、母さん? 母さんが外に出て立ち話なんて珍しい…………っ!」


 通りの向こうからちょうど彼塚かなづかが帰ってきた。


 彼塚かなづかは俺の姿を見て驚きと怒りを表情に浮かべたが、一瞬にして善良の仮面を被る。

 頭の良い彼塚かなづかなら俺が何をしにこの場に来たのか理解しただろう。だがこいつが家族の前でも良い子ちゃんなのは知っている。学校の時みたいに素っ気ない態度は取れない。


「こんにちは、藤城ふじしろさん。母さんと何か話してるみたいだったけど……僕に何か用事かな?」

真尋まひろ藤城ふじしろさんに聞いたわよ。あなた学校で虐めを受けているらしいじゃないの。どうしてもっと早く言わないの?」

「そ、それは変に心配をかけたくなかったから……ごめんなさい」

「……まぁいいわ。それでね、藤城ふじしろさんはあなたの現状を解決するためにまずは自分たちが仲を深めようと宿泊の提案をしに来てくださったの。ちゃんと感謝しなさい」

「そうだったんだね。あれだけ迷惑をかけたのに本当にありがとう、とても嬉しいよ。……でも僕には塾があるからスケジュール的に厳しいかな。せっかくお誘いいただいたのに心苦しいけど断る────」


 彼塚かなづかが喋っている途中だった。


 母親がつかつかと彼塚かなづかに歩み寄っていったその瞬間────パァンっと鋭い音が鳴った。


 構える素振りが見えなかったほど間髪入れずの力強いビンタだった。説得してくれると踏んでいたものの手を出すほど怒りを表すとは思ってもいなかったため俺は少し動揺してしまう。


 彼塚かなづかが叩かれた頬を手で押さえて呆然とする中、母親の顔は沸騰したヤカンのように赤みを帯びて怒気に満ちている。


「──あなた自分の立場が分かっているのっ!? 藤城ふじしろさんがあなたの為を思ってこうして足を運んでくれたのに何を見当違いなことを言っているの!」

「で、でも母さんいつも勉強を第一に考えろって……」

「言い訳しないで! あなたの軽率な行動のせいでお母さんもお父さんも周りからの信用が減ってどれだけ苦労してるか分かる!? これ以上私達に恥をかけないでちょうだい!」


 辺りに響き渡る怒声。近隣の家の人が何があったんだと窓から顔を覗かせる。

 そんな周りの状況に気がついていないのか母親の怒りの激情は止まらない。


「ほら、今あなたが答えるべき言葉は何!? 改めてちゃんと言いなさい!」


 俺のまえに彼塚かなづかを強引に引っ張ってきて立たせる。


 彼塚かなづかは忌々しそうに俺を睨み続けるが、


「……ごめんなさい…………ご厚意を受けさせていただきます……」


 口から出たのはそんな情けない言葉だった。

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