プロローグ(2)

 時刻は放課後になる。


 帰りのホームルームが終わった直後、教室を飛び出したその足で昇降口を通り過ぎ、確実に人の姿がない体育館裏に避難する。


「はぁ……」


 壁に背を預けて人心地つく。誰もいない静かな環境がこれほど落ち着くのは初めてだ。


 一日を過ごした結果、やはり俺に対する生徒や先生たちの認識は〝遠香とおか〟になっており、不良の噂は何処かに消えてみんな友好的に接してきた。元からそうであって深森ふかもり羽柴はしばも俺が様変わりしたことに違和感を抱いていない様子だった。


 そしてどうやら遠香とおかは人気者らしい。用事もないのにクラスメイトのほぼ全員から声をかけられたし、一部の男子たちからはお近づきになりたいという見え透いた好意が窺えた。


 しかも、それはクラスだけの話に留まらない。

 休み時間に廊下を歩くだけで別のクラスの人に呼び止められ、移動教室の時に別の学年の人に絡まれる。昼休みの時なんか玲奈れいな先輩を含める複数人の女子先輩方も昼食に参加してきて、とても居た堪れなかったものだ。


 どこにいても息をつく暇もなく代わる代わる話し相手が現れるので非常に疲れた。元から人気者の先輩やリョウはいつもこんな生活をしているのか。よく耐えられるな。


 そして肝心な祈り者が見つかっていないことがさらに疲労感に追い打ちをかける。終始、周りに振り回されていたため詳しく調べることができなかったのだ。

 その間、リョウが周囲に気を配ってくれていたらしいが、クラス内に関して変に俺のことを気にかけている生徒は見当たらなかったそうだ。


 無為な時間が経つたびに心の焦りが大きくなっていく。

 明後日からひと月の夏休みに入る。全生徒が登校しているうちに祈り者の目星だけでもつけなければいけないが、別の学級や学年となれば捜索の範囲が広すぎて困難だ。


 命が懸かっているわけではないからまだ平静を保っていられるが、それもどこまで持つか。精神がおかしくなってしまう前に一分一秒でも早く元の体に戻りたい。


 ここは恥を捨ててでも手当たり次第に聞き込みするか……と焦燥に駆られていたとき。


「────ほら、とっとと歩け」

「ちょ、ちょっと待って! 僕の話を聞い……」

「うるせぇ。てこずらせんな」


 そんな複数人の声が校舎側のほうから聞こえてきた。


 そのすぐあと体育館の陰から声の主たちが現れ、俺は急いで建物の裏手に回った。

 ひやひやしながら身を潜めていると、どうやら俺の存在はバレなかったようでこちらに向かってくる気配はない。


 ──あぶねぇ。なんて最悪のタイミングだ。一体こんなところに何の用事があるんだよ?


 気になってこっそりと覗くと、そこには五人の男子集団がいた。


「ん、あいつは……」


 大体が顔に見覚えがない上級生たちだが、一人だけ見知った顔がある。


 マッシュヘアの黒髪に、気弱そうな印象を醸し出している右目の泣きぼくろ。

 彼塚かなづか真尋まひろ。俺が極悪不良と恐れられる要因を作った陰湿で最低なやつだ。


 頭の中で名前を浮かべるだけでも嫌気が差して自然と顔が歪む。

 

 最後に面と向かったのは先輩の怪現象の最中、旧校舎で偶然に顔を合わせた時か。

 一方的に嬲られた場面を思い起こすたびに一発ぶん殴りたい気持ちが込み上げるが、あれ以降は俺に対するアクションを一度も起こしていないのでなんとか思い留まっている。おそらく先輩の存在があるから俺を貶めたくとも下手に動けないのだろう。


 そんな憎き悪魔は今、他の全員に取り囲まれて壁際に追いやられている。


 慌てふためいた彼塚かなづかの様子や怒りに表情を歪ませる男子たちを見るからに剣呑な雰囲気だ。


「──うっ……!」


 そして次の瞬間、内一人が彼塚かなづかの胴体を足蹴りした。冗談で見舞ったものでないことがすぐに分かるほど音の強さが凄まじい。


 それが開始の合図とでもいうように、よろめく彼塚かなづかに対して他の男子も殴る蹴るの暴力を加えはじめる。「人の彼女に声かけてんじゃねぇ!」「お前がいるとみんな不安なんだよ!」などと罵詈雑言を浴びせながら甚振る。


 俺は寄って集ってのイジメ現場に遭遇して正義感に駆られるよりも、大嫌いな相手の不運を喜ぶよりも、ただただ信じられなかった。


 俺に罪を擦り付けられるほど優等生キャラで通っている彼塚かなづかがなぜ人に恨まれているのか。あの狡猾さからして何かしらのドジを踏んだというのは考えられないし、それにしてもここまで酷い目には遭わないはずだ。


 事情が読めずに傍観していると、やがて男子たちは忌々しそうに彼塚かなづかめつけ、「次、変な真似したらこんなもんじゃ済まねぇからな」と吐き捨てるように言って校舎のほうに去っていった。


 ひとり取り残された彼塚かなづかはドサッとその場に座り込み、殴られた頬を擦る。


「くそどもが……」


 今までの臆病さはどこへやら、苛立ちに顔を染めて舌打ちをする。相変わらず人前とそうでない時の差が激しいな。


 彼塚かなづか自身に変わりがないなら、やっぱり先程の状況は気になる。もしかしたら今回の怪現象と関係があるかもしれない。

 今や俺は原形を留めていないほど別人の姿だから接触しても粗野な態度は取られないだろう。情報を得るには都合がいい。

 

 事の真相を探るため、思いきって姿を晒す。


 彼塚かなづかは一瞬だけ驚くように目を見開いたが、すぐに柔和な外面をして「僕に何か用かな?」と訊ねてくる。やはり俺であることに気づいていない様子だ。


 心配しているていの後輩女子を装う。


「あの、大丈夫ですか? さっき大勢の人から絡まれてましたけど……」

「ああ、恥ずかしいところを見られちゃってたんだね」

「黙って見ててごめんなさい! 助けに行きたかったけど怖くて出ていけなくて」

「ううん、君が気にする必要はないよ。僕と彼らの問題だからね」

「でも一体なんであんな酷いことをされていたんですか? 事によっては先生に相談したほうがいいと思います!」


 彼塚かなづかは悩ましげに口元に指を当てた。


「それが僕にもよく分からないんだ。彼らとは友人関係で昨日までごく普通に接してたんだけど、今朝になって急に突っかかってきて……それも彼らだけじゃない、他のクラスの人たちや先輩後輩まで明らかに僕のことを避けた態度を取ってくるんだ」


 好き嫌いは真逆だが、俺に起こった異変と似ている。


「何が原因かは分からないんですか?」

「みんなの話を聞いたかぎりだと、どうも冤罪をかけられてるみたいでね」

「冤罪、ですか?」

「君は入学式の日に起こった事件を知ってるかな? 新入生の不良が何の罪もない男子生徒に難癖をつけて絡んだ暴力事件」

「はい」

「僕はその時の男子生徒なんだ。きっと僕の証言で停学になったことをまだ根に持っている彼があることないことを広めたんだね。……分からないのはどうしてみんながそれを鵜呑みにしているのかだけど」

「…………」


 こいつはいつもこうやって俺の悪評を周りの生徒に触れ回っていたわけか。思っていた以上のクソ野郎だな。


 平気で罪を被せてくる下衆さに虫唾が走り、早くも演技を続ける気が失せた。


「つくづく救いようのねぇやつだな」


 露骨に顔と声に嫌悪感を示すと、当然ながら彼塚かなづかは驚いて呆然とする。


「いきなりどうし……」

「元々はてめぇが女子生徒に絡んでたんだろ。人に罪を擦りつけてんじゃねぇよ」

「な、なにを言ってるんだい?」

「もうその優等生面はいいんだよ。俺を散々コケにしやがって」


 しばし戸惑った様子の彼塚かなづかだったが、事件の真相を知っていることやぞんざいな口調から俺の正体を察したようで、「もしかして君は……不良くんなのか……?」と半信半疑に問いかけてくる。


 やがて俺が否定しないことで確信に変わったのだろう、素の嫌らしい笑みを見せる。


「はは。まさか女装して僕に近づいてくるとはね、予想外だよ」


 そう言い終えるや否や、勢いよく立ち上がって俺の胸ぐらを掴む。

 至近距離で睨みつけながらドスの効いた声音を出す。


「君……一体僕に何をした……?」

「そりゃこっちが聞きたいぐらいだ。それにてめぇの今の状況は正しいだろうが」


 彼塚かなづかは怒りに目を吊り上げて拳を構える──────が、振られることはなかった。


「どうした? 殴ってこないのか?」


 挑発しても、拳は固く握り締められたまま微動するだけ。

 どうやら理性は失っていないらしい。こいつもこの尋常でない事態に気づいているのだろう。


 やっと黙らせることができて清々したところで、怪現象に思考を戻す。


 俺の変事と彼塚かなづかの変事は同時間に起きているから無関係でなさそうだ。もっと詳細について聞き出せれば祈り者特定に繋がるかもしれない。

 だがこの状態では素直に答えてくれないだろう。どうにか立場を利用して無理やりにでも喋らせるか。


 そう決めた時だった。


 不意に、真横からカシャっと機械音が聞こえた。


 そちらを振り向くと、いつの間にやら一年生の女子生徒が立っていた。

 小さな青リボン付きのヘアゴムでサイドテールにした銀髪に、その下の幼さを残した小顔は緊張したように固い表情だ。


 スマホを胸の前で構えてこちらに向けている。先程の音はカメラのシャッターを切ったものか。


 ──どこかで見覚えのある顔な気もする……。

 

 記憶を手繰り寄せているうちにも、彼塚かなづかが俺の胸ぐらから手を離して女子生徒のほうに走り寄っていく。


「動かないでください!」


 俺が止めるよりも早く、女子生徒は辺りに響くほどの大声を張って彼塚かなづかの足を止めさせた。


「それ以上、わたしと藤城ふじしろに近づけば今撮ったものをネットに上げますっ!」


 スマホの写真を見せて牽制する。画面には先程の俺と彼塚かなづかの光景が映し出されており、事情を知らない人が見れば下級生の女子に手を出している上級生の図に見える。


 可憐な外見とは裏腹に上級生相手に脅迫する豪胆さよりも、今の俺を〝くん〟付けで呼んだことに驚いた。


 まさか彼女が祈り者なのか。


 女子生徒と彼塚かなづかはお互いを無言で睨み据える。


 しかし、拮抗状態は長く続かなかった。

 程なくして分が悪いと悟ったのか、彼塚かなづかはチッと舌打ちをして踵を返す。そのまま俺を一瞥することなく横を通り過ぎて体育館裏から去っていった。


 突然の出来事に頭の整理が追いつけず呆然としていると、女子生徒が早歩きで近寄ってくる。


 そして「本当にすみませんでした!」と勢いよく頭を下げてきた。


藤城ふじしろくんには散々迷惑をかけてるのに、さらに性別を変えてしまうなんて取り返しのつかないことまで……! 本当に申し訳なく……」

「ストップ! 謝りたい気持ちは分かったから少し落ち着け。それよりもまずは名前を教えてくれないか?」

「は、はい。わたしは花咲はなさきみゆりと言います」


 花咲はなさきみゆり…………やっぱり聞き覚えのない名前だ。


「それで聞きたいんだけど、花咲はなさきは直近で少女の祈り像に俺に関してのことを祈ったよな?」

「そうです! でもどうしてそれを知ってるんですか?」

「前にも常識じゃ考えられない出来事に巻き込まれたことがあってな。今の俺の状態も同じ経緯から起こったものだと思ったんだ」

「そ、そうなんですね…………すみません。わたし、こんなことになるとは思わなくて」

「べつに責めてるわけじゃないから気に病むな。祈っただけでこんな事態になるなんて誰にも予想できねぇって」


 やはり花咲はなさきが祈り者のようだ。

 なんとか夏休み前に見つけられてだいぶ心が軽くはなったものの、新たな疑問も湧いてくる。


 はたして花咲はなさきは俺のことについて何を祈ったのか。


 俺からすれば今名前を知ったばかりの初対面だ。深い悩みを抱くほどの関係にないから祈ったところで怪現象は起こらないはずだが。


「祈った内容を聞いていいか? できれば一字一句正確だと助かる」

「えと……〝あの日の間違いを正して、藤城ふじしろくんを周りから好かれる人間にしてほしい〟です」

「あの日の間違いを正す……あの日って何のことだ?」


 花咲はなさきは痛みに耐えるようなつらい面持ちをする。


「……入学式の日、藤城ふじしろくんに助けてもらったのに事情聴取で黙ってしまったことです」

「──ああ! 彼塚あいつに言い寄られてた女子生徒が花咲はなさきだったのか!」


 あの時すぐに去っていったし、彼塚かなづかを取り押さえることに必死ではっきりと顔を覚えていなかったが言われてみればそんな気もしてくる。


 これでようやく話が見えてきた。


 つまり俺と彼塚かなづかが起こした事件の聴き取りが各クラスで行われた時、花咲はなさきは黙秘を貫き通した。結果、事件の真実は曲解して俺が加害者となり、その周りから忌み嫌われる俺の姿に耐えかねて少女像に祈った。しかしこれまでと同様に祈りは捻じ曲げられて、なぜか俺が不良の真逆に位置する人気者の女子に変貌した……とこんなところだろう。


 なら解決は簡単だ。花咲はなさきの悩みは俺に対しての負い目。気にしていないことを理解してもらえばいい。


 早速、懺悔するように苦心した表情の花咲はなさきに伝える。


「さっきも言ったけど花咲はなさきが罪悪感を抱く必要はない。不良呼ばわりされてつらくなかったって言えば嘘になるけど、今は俺のことを信じてくれる人たちが沢山いる。俺は十分に幸せだから心配するな」

「……本当ですか?」

「ああ。むしろ順風満帆で怖いぐらいだ。だから花咲はなさきもあの日のことは忘れて……」

「──それはダメです!」

「え?」


 ここまで気弱だった態度に怒気が宿る。


彼塚先輩あのひと藤城ふじしろくんにしたことは最低最悪の下劣な行為です。しかもそれだけじゃ飽き足らず、さっきみたいに手を出すなんてふざけてます!」

「待て待て! 彼塚かなづかが下種野郎なのは同意だけど、さっきのは俺が挑発したせいでもあるからしかたないというか……」

「そうだとしても罪の意識を感じていないことは事実です! 藤城ふじしろくんが大変な中、他人事でのうのうと過ごしてたなんて許せない……!」


 花咲はなさきは意志の漲った声で断言する。


「二度と同じことをさせないよう、自分の過ちを認めて心の底から謝罪するまでこの件は終わらせちゃいけません! 絶対にです!」

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