過ちの邂逅と、不器用の君

浅白深也

プロローグ

 夏休みを目前に控えた七月下旬。


 ヘッドボードに置いた目覚まし時計の甲高い音が鳴って、俺は夢から現実に引き戻された。

 すぐに腕を伸ばしてアラームを止める。

 のっそりと上半身を起こしたときに自然と欠伸が漏れた。


「ふわぁ~…………んん……?」


 喉元を触りながらゴホゴホと咳をつく。

 明らかに声の調子がおかしい。まるでヘリウムガスを吸ったみたいに高く聞こえる。久しぶりにクーラーを付けっぱなしにして寝たせいだろうか。


 痛みはないけどなんか気持ち悪いな……早くうがいしよう。


 足をベッドから床に下ろしたとき、ちょうど部屋のドアが開いた。

 この家に住んでいるのは俺と姉貴の二人しかいないから、当然姉貴だったわけだが。


「……なんつー格好でうろついてんだよ」


 ショーツ以外なにも身につけていない姿にげんなりする。なんで寝起きから姉の裸体を見なきゃならんのか。

 しかも当の本人は「べつに家の中だからいいでしょ」と隠す素振りすら見せない。


「それよりもあたしのブラがないんだけど、あんたのところに紛れ込んでない?」

「はぁ?」


 寝ぼけてんのかこいつ。


「どう間違えたら俺の棚に仕舞うって言うんだよ」

「そんなこと言って、本当は可愛い柄だからこっそり取ったんじゃないでしょうね?」

「誰がそんなことするか!」

「確認してみれば分かるでしょ」


 服一式を収納しているチェストを無断で開けはじめる。


「おい、勝手にあけん…………え?」


 下着類を入れている段を引き出されて言葉を失う。

 俺の目に飛び込んできたのは、ラブリーな色合いをした女性用下着の数々だった。


 まったく身に覚えがない物事に思考が一時ストップしたのち、自分の立場が危ういことを悟って「い、いや違う! 俺は何も知らない!」と必死に弁明する。

 変質者扱いされる未来を想像していたが、姉貴はただ眉をひそめただけだった。


「なにをそんなに慌ててるのよ?」

「いやだって下着が……」

「あたしに見られて恥ずかしいってこと? 家族で女同士なんだから気にすんな」

「お、女同士? 一体なにを言って──────!?」


 姉貴の意味不明な言動でさらに頭が混乱していたとき、ふと姿見が目に入る。


 そこには見知らぬ少女が映っていた。

 ミディアムボブにしたつややかな黒髪に、純真無垢さが表れたつぶらな瞳。透き通るような色白の体は軽い力を加えただけで押し倒されてしまいそうなほど華奢だ。


 突然現れた不審者に驚き、すぐに辺りを見回したが姿を確認できない。

 しかし相変わらず少女は鏡の中にいて、茫然自失とした顔でこちらに視線を向けている。


「…………」


 俺が右手を上げると、少女も同時に右手を上げた。首を軽く振っても同様だ。


「………………」


 額から汗がじわりと滲み出す。

 頭に浮かんだバカバカしい憶測が、先程からおかしい姉貴の態度に合点をもたらす。ここまで俺のこの変な声に対して無反応なことにも。


 おそるおそる自分の体を触る。

 上半身にないはずのものがあり、下半身にあるはずのものが────ないっ!?


「な……な……」


 突拍子もない状況に口が戦慄わななく。


 俺は自分が女になっている事実にようやく気づいた。




     ***




 結局のところ、姉貴の下着は俺の服の中に紛れ込んでいた。


 姉貴がぶつくさと文句を言って部屋を去ったあと、すぐに服を捲って確認してみたが、そこにあったのは自分が女になったという事実だけだった。頬を抓ってみても伝わってきたのは痛覚だけで一向に夢は覚めてくれなかった。


 現状を受け入れるしかなく、朝食の時間にそれとなく姉貴に訊いてみたところ俺たちの関係は姉妹という認識だった。おまけに名前はとお〟からとお〟に変わっている。たしか昔にもし俺が女に生まれていたらこんな名前を付けていたと母親から聞いたような気がする。


 俺の頭が狂ってなければ、これはヒロインズプレイによる怪現象に他ならない。


 先輩に連絡するか迷ったが、直接見てもらったほうが早いことと変に心配させたくない気持ちから学校で伝えることにした。


 そう考えて家を出たわけだけども────


「…………」


 通学路を歩いていると、思わず擦れ違う人たちに視線がいく。通勤通学やジョギング、犬の散歩をする人たちが自分の横を通り過ぎていくたびに心臓がバクバクと高鳴る。

 誰にも俺のことを注視した様子は見られないものの、どうしても人目が気になってしまう。


 ──変じゃないよな……。


 自分の女子制服姿を見下ろして不安に駆られる。自室にある服は下着だけでなく他の物についても女性用になっていて見様見真似で着るしか選択肢がなかったのだ。


 めちゃくちゃ着心地が悪い。スカートからはみ出した太ももや膝に風が当たるたび違和感がするし、なまじ男の記憶があるから往来で女装しているに等しく羞恥心でどうにかなりそうだ。


 気を張り過ぎてすでに精神が疲労しつつ、校門を通り過ぎて昇降口に行く。


 すると靴箱でスリッパに履き替えていた別のクラスの女子たちが「遠香とおかちゃん、おはよー」と明るく挨拶をかけてきた。


「え……お、おはよう……?」


 予期せぬことに驚いて微妙な返事をしてしまう。


 ひと月前に演劇部で起こった怪現象以来、人気者のリョウが人目を気にせずに話しかけてくるようになり、クラス内の俺に対する偏見の目はほとんど収まったが、他の学級や学年にはまだまだ不良の噂が根づいている。


 普段であれば俺の姿を見ただけで逃げていくはずなのに自ら声をかけてくるなんてどう考えてもおかしい。しかもこっちは名前も思い浮かばないのに向こうは何度も会話したことがあるみたいに気さくだなんて……。


 女子生徒たちは何事もなくお喋りをしながら自分のクラスのほうに歩きだす。


 やっぱりこれは怪現象で間違いない。

 今朝の姉貴の言動からしても、姿が女になっただけでなく、俺のこれまでの人生が女として生きてきたことに記憶が改変しているようだ。


 これは非常にまずい事態だ。先輩までも俺のことを女だと認識していれば解決策について話し合えないどころか、恋人という関係すら無かったことになっているかもしれない。

 途端に先輩の元へ行くのが怖くなる。「誰かな?」なんて言われれば絶対に平静を保てない。


 事の重大さに焦りながら廊下に出ると、ちょうど教室側からリョウが歩いてきた。

 俺の姿に気づくなり立ち止まって小首をかしげる。


「んん? 見ない顔だな、転校生か?」

「いや俺は……────!」


 遅れてその反応に違和感を抱いた。


 リョウの考えていることは分かる。女好きのこいつは同学年の女子生徒の情報を網羅しているから、自分の見知らぬ生徒が現れて疑問に感じたのだろう。

 しかし先程の俺の仮設が正しいとするなら、遠香とおかのことを知らないわけがない。他の生徒と同じように何事もなく存在を受け入れるのが普通だ。疑問を抱くこと自体が怪現象の力に呑まれていない証拠。


 リョウの手を掴んで、有無を言わせず人のいない階段下まで移動する。


「リョウ、俺のことを覚えてるんだな!」

「えーとごめん、オレたちどこで会ってるっけ? その呼び方からして遠也とおやの知り合いか?」

「違う、本人だ! 朝起きたら女になってたんだよ!」

「本人……? 女になった……?」


 目を細めて明らかに困惑した様子を見せる。これは信じてないっぽいな。


 少し考えたのち、証明するために幼馴染の俺しか知らない情報を出すことにした。


「あれはたしか中二のお盆だっけか。俺と姉貴が白ノ瀬しろのせ家にお邪魔した時に、お前の兄貴の案でホラー映画をみんなで見ようってなって、お前涙目になるほど怖がってたよな。んで、怖くて眠れないから深夜に俺のことを自室に呼び出して一晩中会話に付き合わせて……」

「なんでそのことを知ってるんだ!?」

「だから俺が藤城ふじしろ遠也とおやなんだよ! またヒロインズプレイの怪現象が起こってんだ!」


 ようやく俺の言葉に信憑性を感じたのだろう、リョウは赤らんだ顔を真剣なものに変える。


 そして突如、両手を突き出して俺の両胸を鷲掴みにしてきた。


「ちょ……!? 何すん……」

「この感触はノーブラ……高校生の女の子がこの大きさで着けないなんて…………マジで遠也とおやなのか……」

「さっきからそう言ってるだろ! 変な確かめ方すんな!」

「いや男の思考だったら邪魔で着けないかなと。まさか本当に性別が変わったなんて驚きだな」


 変態的な調べ方だが、どうやら正真正銘俺であることが伝わったようだ。


 リョウがまじまじと顔を見つめてくる。


「それにしても元の外見の面影もないほど、えらい可愛くなったな。正直タイプだ」

「ちょっとは心配しろよ……」

「わるいわるい。この時期は透ける可能性があるからブラはしたほうがいいぞ」

「そういう心配じゃねぇ! ていうか着心地以前に抵抗があって着けれねぇよ」

「女子制服を着こなしてるやつのセリフじゃないと思うぞー。あ、ショーツもちゃんと履いてるんだな」

「スカートを捲るな! 家にある服が全部女物になってたんだから仕方ないだろ!」


 変質者呼ばわりされているようで羞恥が込み上げる。


 リョウの他人事な態度に腹立っていたとき、不意に誰かが階段下に入ってきた。


 なんとそれは先輩だった。

 寸前まで走っていたのか、呼吸を乱した様子の中リョウを見て「みおちゃん……」と呟いてから続けて俺に視線を向ける。


「もしかして遠也とおやくん……?」

『────!』


 俺とリョウは驚いて顔を見合わせた。


「どうして先輩は俺のことが分かるんですか……?」


 俺の記憶が残っていることに安堵しつつも、まだ一言も事情を説明していないのに真っ先にこの姿の俺が遠也とおやだと言い当てたことが不思議でならなかった。


 先輩は「無事とは言えないけど、会話が出来るようでひとまず安心したよ」と胸を撫で下ろし、息を整えてから訳を話す。


「ついさっきまで教室で玲奈れいなと雑談してたんだけど、遠也とおやくんについての話題を出したときに玲奈れいなの受け答えがおかしかったんだ」

「受け答えがおかしい?」

「うん。いつもなら遠也とおやくんに対しての私の好意的な気持ちに共感してくれないんだけど、なぜか今日は同意してきたの。『あの子は仕草が可愛い』とか『つい構ってあげたくなる』とか」

「そりゃおかしいな。オレも愚痴はよく聞かされるけど、そんな良い感情は一度も聞いたことがないぞ」


 たしかに貶されはされど褒められるなんて違和感ありありだ。てか普段どれだけ俺のことを嫌ってんだよ。


「極めつけは遠也とおやくんのことを〝遠香とおか〟って呼んでて女の子扱いしてたことかな。私との恋人関係も消えてて仲の良い先輩後輩ってことになってた。玲奈れいなが冗談でそんなこと言うはずないから、きっと遠也とおやくんの身に何か起きてるんだと思って捜してたの」

「なるほど、そうだったんですね。俺のほうは────」


 起床してからリョウと会うまでの出来事を掻い摘んで話した。


 聞き終えた先輩は深刻な顔をする。


「不可解な現象からして間違いなくヒロインズプレイが原因だね。私とみおちゃんの記憶が変わっていないのは過去の祈り者だからかな」

「自ら引き起こした怪現象の記憶に関しては他の怪現象の影響を受けないってところですかね。二人の怪現象の解決には俺が深く関わってるから俺に対する記憶も色濃く残ってるみたいな」

「どうもそんな感じっぽいね。まぁそれは追々確かめるとして。遠也とおやくんは自分の性別が変わることに何か心当たりはない? そのことを望んでる人を知ってるとか」

「うーん、特には…………俺が女になって喜びそうなやつなんて……」


 そこで一人だけいることに思い至る。


 俺の言葉で先輩も同じ考えをしたようで同時にそいつのほうを振り向く。

 リョウは焦った様子でぶんぶんと両手を振った。


「ちがう! みんなに迷惑をかけるのはもうこりごりだ!」

「本当かぁ? お前さっきからやけに冷静だし、なにか隠してるんじゃねぇのか」

「なわけあるか! 冷静なのはオレやあかね先輩の時と比べたら緊急性がないからだ!」


 たしかに今のところ俺の性別が変わっただけで(俺にとっては大問題だが)人が消失したり存在そのものが忘れ去られたりしているわけじゃないから危機感に欠けるのも分からないでもない。……まぁ前回の時に本気で落ち込んでいた様子だったし、二度も祈るバカな真似はしないか。


「となれば、まずは誰が祈り者かを特定することが先決だね。二人はもちろん知ってると思うけど、少女の祈り像が反応を示すのは深い悩み。少なくとも状況からして、遠也とおやくんに対して何かしらの強い感情を抱いてるのは確かだから身近な人を当たるのがいいと思う」

「怨恨だな」

「決めつけんな!」


 文句を言ったものの、あながち間違いでもない気がする。俺と先輩が付き合ったことを妬んだ誰かが恋仲を引き裂こうとしたみたいなことは全然あり得る。


「それと祈り者にも遠也とおやくんが男だった記憶は残ってると思うから、そこを注視して探ろう」

「分かりました」

「おう。オレもさりげなく友達に聞いてみるぜ」


 また祈り者捜しからか。解決するまでこの体で過ごさなければいけないなんてつらすぎる。

 ため息をこぼすと、先輩が心配そうな顔をする。


遠也とおやくん大丈夫? 性別が変わると大変だよね」

「はい……絶えず違和感が募って精神的にしんどいです」

「ちゃんとトイレはできるか? もしまだならオレが手取り足取り教えてや……」

「冗談でもやめろ。そのぐらい勘でできるわ」


 あまりの感覚の違いに多少頭が痛くなったが。


「まぁでも命の危機ってわけじゃないですし、なんとか慣れるようにがんばります」

「そう。もし何かあったら恥ずかしがらずに聞いてね」

「はい。ありがとうございます」


 先輩の優しさが温かくて心強い。おかげで不安な気持ちが和らぐ。


 それ以上は話せることもなく、そろそろ朝のホームルームが始まることもあって先輩と別れた。

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