白ノ瀬家の別荘 宿泊二日目

 意識が夢から現実へと切り替わると同時に、だんだんと五感が鮮明になっていく。


 冬に日向ぼっこした時のような温もりを胴体から感じ、顔からは低反発マットレスに埋めたような柔らかな感触と安心するような良い匂いを感じる。


 朝の日の光に負けじとゆっくり目を開けると、目の前には白のキャミソールがあった。


 見覚えがある……たしか先輩が着ていたもの…………なんで俺の顔に………………。


 少し顔を動かしたら、血色のいい肌と顔に触れる二つの膨らみが瞳に映る。


「…………────っ!?」


 その瞬間ぼんやりとした思考が明瞭になった。


 おそるおそる視線を上に向けると先輩の寝顔が見え、自分が今どんな状態にあるのか察して心拍数が急激に上がる。


 ──ど、どうして抱擁されてるんだ!?


 真っ先に思いついたのは俺のことを抱く物と間違えたことだが、それなら昨日枕を与えたはず。リビングから部屋に戻ったあとも俺の枕を固く抱きしめていて離さない様子だったから、しかたなく自分で腕枕をして寝た記憶がしっかりある。


 それがなぜこんなことに…………まさか先輩自ら俺を抱き寄せて……それとも俺が寝ぼけて自分から懐に入ってしまったのか……。


 あれこれと経緯を考えながらもすぐに離れようとしたが、先輩の両手が俺の後頭部にがっしり回されていて身動きが取れない……どころか、無意識下で力を入れてきてまた顔が胸元に寄ってしまう。


 先輩の身体の熱が直に伝わってきて頭がパニックになる中、ふと天井のほうを見ると、たった今起きたようにボサボサ髪のリョウが俺たちのことを見下ろしていた。


 寝ぼけ眼でじぃーっと見続けてきたあと、サッとスマホを手に持ってレンズを向けてくる。間髪入れずにシャッター音が鳴った。


「朝の百合百合ベストショットいただきました~」


 ホクホク顔でグッと親指を立てる。


 俺は先輩を起こさないよう押し殺した声を出す。


「許可なく撮んな!」

「目の前に絶好の被写体があればそりゃ腕が鳴るだろ」

「写真家を気取って正当化するのやめろ!」

「まさかオレたちがすぐ横にいる状況で愛を育むなんて二人とも意外に大胆だな」

「起きたらこうなってたんだよ! 茶化してないで先輩の手を解くの手伝え!」


 このまま先輩が寝ている間に脱出しなければ(自分の意思で俺を抱き寄せたならいいが)きっと無用な羞恥を抱かせてしまうことになる。


「えぇ~。せっかくだから堪能すればいいじゃん。胸に顔をうずめるシチュなんて男の理想だろ」

「はぁ? 自分の体についてるのに嬉しいもなにもないだろ」

「え?」

「なんだよ、呆けた顔して?」

「……いや冗談抜きに興奮しないのか?」

「……? 意味の分からないことを言ってないで早く助けてくれ。このまま先輩が目を覚ましたら気まずい空気にな……」

「んんぅ……?」


 そのとき先輩が唸った。

 ゆっくりと瞼を開くと、軽く目を擦ってから至近距離でぼーっと俺を見る。


「せ、先輩、おはようございます……」

「……あ。遠也とおやくん、おはよ~…………────っ!?」


 先輩は目を瞠ると、勢いよく両腕を俺の頭から離して上半身を起こした。


 どうやら状況を悟ったらしく、だんだんと頬を朱に染める。乱れた髪やキャミの肩紐がずれ落ちていることに構わず手をぶんぶんと振る。


「ち、違うのこれはっ! ただ抱く物が欲しかっただけで……夜中に起きたら遠也とおやくんの枕を奪ってることに気づいて返したんだけど今度は無意識のうちに遠也とおやくんを……! 決して欲望に耐えきれなくて遠也とおやくんの寝込みを襲ったわけじゃ……!」

「落ち着いてください。大丈夫です、分かってますから」


 先輩は「うぅ……ごめんなさい」と火照った顔を両手で覆う。


 久しぶりに先輩が戸惑う姿を見た。初めて目にする寝起き姿も相まり愛くるしさが限界突破してこちらも思わず悶えそうになる。


 朝から癒されている俺の横で、なにやらリョウは釈然としない表情をしていた。



     ***



 洗顔や着替えなどの朝の作業を終えたあと、リビングのテーブルで朝食をとる。みんなより一足先に起床していた怜兄れいにぃが作ってくれていたようだ。


 ここは高級ホテルかと突っ込みたくなるほど主菜や副菜が盛り込んだモーニングメニューを味わっていると、ダイニングテーブルで食べている大人組の話が聞こえてくる。


「今日はお昼にバーベキューしようと思ってるんだ。僕は近くの町まで必要な物の買い出しに行ってくるから二人にはみんなのことを頼めるかな?」

「それはいいけど、一人で行くの? この人数だと食材だけでも結構な量になるわよ」

「だな。俺もついていくぞ」

「いやれんは残ってくれ。もし何かあったときに大人の男手があったほうが安心だからね」

「それなられいが残って俺が行ったほうがいいんじゃねぇか?」

あんたに任せたら肉ばっかり買ってくるでしょうが」

「たしかに食い物の良いバランスなんてよく分からんからなぁ。だけどやっぱ一人だと大変だし無駄に時間が掛かるぞ。…………あ、そうか。──おい真尋まひろ


 れんにぃは体ごとこちらを振り返る。


「楽しんでるとこわりぃけど、このあとれいと一緒に昼の食材調達に同行してくれねぇか? れい一人だと荷物運びが大変だからよ」


 俺との間にのぞむを挟んで朝食をとっている彼塚かなづかは、食べていたフレンチトーストを飲み込んでから「なんで僕が……」と面倒そうな顔をする。


「女子供を抜いたらお前が適任なんだ」

「僕が非力なのは知ってるでしょ。役に立たないよ」

「んなことねぇって。昨日の枕投げでも俺たちの攻撃を躱し続けてたじゃねぇか」

「それを荷物運びにどう活かせっていうんだよ……」


 彼塚かなづかが敬語を使わないほどに打ち解けている。やっぱり白ノ瀬しろのせ兄弟を前にあの善良な性格は保てなかったか。


 なんにせよ、これはあまりよろしくない展開だ。近くの町まで行くだけでも車で往復四十分は掛かり、そこから店々を回っていれば確実に午前中は潰れてしまう。花咲はなさきとの関係修復に使える時間が無くなるのは避けたい。


 ここは中身が男の俺が変わりになるか。そばを離れるのは不安だが、少しでも二人が一緒の場所にいる時間を延ばさないと。


「それだったら俺が──」と立候補しようとしたところで、不意に隣にいる先輩がクイッと上着を引っ張ってきた。

 俺の耳元に口を近づけて囁くような小さな声で言う。


「今二人を近づけるのはやめておいたほうがいいと思う。余計に仲を拗らせるかもしれない」


 どうやら俺の考えを見抜いていたらしく、目線で花咲はなさきを見るよう促してくる。


 彼塚かなづかの対面に座っている花咲はなさきは(起きた順で座ったのでその位置になった)まるで一瞬たりとも目に入れたくないと言わんばかりに目の前の料理に視線を落とすか、隣のリョウやのぞみと会話をして一切前を向こうとしない。昨日のことが尾を引いているようだ。


 たしかに今まで以上に和解の難易度は増している。下手に刺激するのは得策じゃないか。


 しかし予定では明日の夕方ごろに帰ることになっている。このまま傍観していても怪現象が解決するわけがないし……。


 どうしようか迷っている間にも、彼塚かなづかれんにぃの説得に根負けしたようで。


「──ああもう分かった。手伝うよ、手伝えばいいんでしょ。ここで断ったら僕が悪いみたいじゃないか」

「おう、そうこなくっちゃな。さんきゅ」

「ありがとう、真尋まひろくん。すごく助かるよ」


 勝手に話が進む。というか年上の言うことは素直に聞くのが腹立つ。


 上手くいかない物事に俺の中で焦燥感だけが募っていく。




     ***




 彼塚かなづかがいない状況では解決に繋がる行動もできず、この時間は開き直って先輩たちと海水浴を楽しむことにした。


 俺が深刻な態度を表に出せば花咲はなさきに気遣いをかけるばかりでなく、それにより怒りの矛先が彼塚かなづかに向けば元も子もない。


 せめて、このひとときを楽しんで機嫌を直してくれることを祈った。


 各々海水浴を満喫しているうちに、時刻は正午近くになる。


「──よし、今だっ! 立つんだ遠香とおか!」


 サーフボードが波に滑り出したタイミングで、れんにぃの掛け声とともに腹ばいの体勢から腕をついて素早く立ち上がり、軽く膝を曲げてバランスを取る。


 しかし波の勢いに上手く乗れず、体勢が崩れ、そのままボートから落ちて海に放り出される。


 泳いで水面に浮上し、波に流されていくボートを回収する。


 手で漕ぎながら浅瀬に戻ると、順番待ちしていたリョウが近寄ってくる。


「また派手に落ちたな~」

「笑うな。ほんと他人がやってるのを見ると簡単そうに見えるけど、実際にやるとムズいな」

「たかが一時間程度でできたら才能あるわ。毎年何かとやる機会があるオレでもテイクオフは片手で数えるほどしか成功しないんだから」

「まぁそうだよな」


 れんにぃの教えのもと、リョウと一緒にし始めてもう何本もチャレンジしているのだが一向にできる気配がない。最初にお手本を見せてもらった時は行けそうだと思ったのに。


 れんにぃが励ますように背中をたたいてくる。


「惜しかったな! 立ったあとは焦らずに落ち着いていけ。よしじゃあ次はみおの番だ!」

「おう!」


 リョウがボートを脇に抱えて海に入っていく姿を見ながら、俺は疲労の息をつく。初めてのサーフィンは楽しいが、海と陸を行ったり来たりで結構体力を使う。


 喉が渇いてきたので「ちょっくら何か飲んでくる」とれんにぃに言ってからその場を離れた。


 飲み物があるビーチパラソルのほうに行くと、先輩と姉貴がリクライニングチェアに寝転んで会話をしていた。先輩は目にタオルを、姉貴はサングラスをかけて二人ともかなりリラックスムードだ。


 何を話しているのか気になりつつ割り込んだら邪魔になるので、クーラーボックスから飲み物だけを取って立ち去る。


 冷え冷えの缶ジュースを飲みながら、ふとログハウスのほうを見たらテラスの所にのぞみたちと一緒にいる花咲はなさきの姿を見つけた。一時間前ほど前は先輩と同様サーフィンは怖いからと辞退してのぞみたちと砂遊びをしていたが。


 何をしているのか気になったので近づいていくと、花咲はなさきが俺に気づいて顔を上げた。


「あ、藤城ふじしろくん。サーフィンは終わったんですか?」

「疲れたから休憩中。花咲はなさきたちは……絵描きか?」


 木製のテーブル上には画用紙と色鉛筆が広げられており、のぞみのぞむが真剣に描き込んでいる。一見したかぎり海と砂浜の風景を写生しているようだ。


「夏休みの宿題らしいですよ。わたしはアドバイス係です」

「みゆねぇすごいんだよっ、ぼくが描いた絵を魔法みたいに手直して綺麗にしてくれるんだ!」

「うまく描けないところもすぐにパパパッて描いちゃう!」


 二人とも嬉々とした顔を上げて大絶賛する。たしかに二人の絵をよく見ると、小学生が一人で取り組んだとは思えないほど一つ一つの物の描き込み具合や構図がしっかりとしている。他人の絵までも上達させるとはさすが美術経験者といったところか。


「二人を手伝ってくれてありがとな」

「いえいえ、絵に関しては得意分野なのでお安い御用です。むしろ自分でもこの綺麗な風景を描きたくて、道具を持ってくればよかったなぁって後悔してるぐらいですから」

「たしか怜兄れいにぃも趣味で絵を描いてたはずだから、この別荘にもスケッチブックぐらいならあるかも。あとで聞いてみるか?」

「ぜひお願いします!」


 即答か。誇張なく絵が描きたくてしょうがないらしい。


 彼塚かなづかも美術は詳しいみたいだぞ、と言いたいところをグッとこらえた。不用意に名前を出せばようやく静まってきた怒りを再燃させるかもしれない。今は大人しくしておこう。


花咲はなさきは本当に絵を描くのが好きなんだな。その様子だと高校は美術部だろ? 何枚も描いてて飽きたりしないのか?」

「全くですね。けど、高校の美術部は結構ガチ目で自由度がないというか……それはそれで技術が身についていいんですけど、どうしても好き勝手に描けていた中学の頃が恋しくなります」

「どちらかというと義務教育の中学のほうが堅苦しいイメージがあるけどな」

「同好会ですからね。一年上の先輩である部長とわたし二人しかいませんでしたし」

「二人か。絵を描くのが好きとはいえ、よく入ろうと思ったな……」

「もちろん最初は悩みましたよ。中学に上がる前から同好会しかないと小耳に挟んでいたんですけど、まさかその大半が三年生で卒業してるとは思ってもみなかったですから」

「でも結局は入ったんだな」

「わたしが入らないと同好会自体が無くなっちゃうみたいでしたので」

「だからって初対面の相手と二人っきりは勇気がいるだろ。その状態をずっと続けられたってことはよほど人柄の良い部長さんだったんだな」


 花咲はなさきは絵を描くのぞみたちを見ながら過去を懐かしむように口元を微笑ませる。


「……そうですね。物静かで優しくて。絵のことはもちろん勉強とかも教えてくれたりして。放課後の美術室に行ったとき、真剣な眼差しで画架と向き合っている姿が素敵でした」


 きっと先輩のような温厚で人想いの性格だったのだろう。


 花咲はなさきは空を見上げて「……あの頃に戻れればなぁ」と少しだけ悲しみの宿った表情で呟く。


 感想がすべて過去形だし、どうやらその部長はべつの高校に行ってしまったようだ。


 その哀愁漂う姿は他人事に感じられなかった。俺も先輩が卒業したら同じように寂しがることになるだろう。先輩のいない学校生活はひどく退屈そうだ。


 なんかどんどん花咲はなさきの気持ちが移って感傷的になってきたので、その日が来ても後悔しないよう今を充実させようと意気込んだ。


 しばらくのぞみのぞむの宿題を二人で見続けたとき、山道のほうからワンボックスカーが現れた。買い出し班が帰ってきたようだ。


 別荘の前で停車し、すぐに助手席から彼塚かなづかが降りてきた。


 荷物運びを手伝うためテラスから出ていくと、なぜか俺の姿を見るなり顔を顰めてくる。


「まったく良いご身分だね。人がこのクソ暑い中苦労してるってのに楽しく絵描きか?」

「遊ぶ以外にやることねぇんだから仕方ないだろ」

「すぐに調理できるよう機材やクーラーボックスを用意しておくとか気を利かせろよ」

「人の家の物を勝手に動かせるか。自分が忙しいからって突っかかってくんな」


 まったく心の狭い野郎だ。こんな態度では感謝の気持ちも薄れてくる。


 その後は正午を過ぎていたこともあり、早速みんなでバーベキューの準備に取り掛かった。


 別荘の物置部屋からコンロやグリルを砂浜に運び出し、怜兄れいにぃれんにぃが焼き網の下に着火剤と炭を置いて火熾しをする。うちわで空気を送る手際いい姿が頼もしくてかっこいい。その間、俺含める他は椅子の配置や紙皿などを用意した。


 あっという間に焼く準備が整い、火の加減を見ながら肉や野菜を網の上に乗せていく。


 両面を焼いて食べごろになったらトングで紙皿に移し、タレをつけて口へ。


「──うまっ……!」


 柔らかな食感が伝わったあと、牛肉の甘さが口内を広がってそこにタレのからさが絶妙に合わさり、ほっぺたが落ちそうなほど美味だ。焼肉店で食べた時よりも美味しく感じるのはやっぱり解放感のある外だからだろう。


 俺と同じようにみんなも肉の旨味に顔を綻ばせながら舌鼓を打っていると、怜兄れいにぃがトングで肉をひっくり返しながら全員に向けて言う。


「あ、そういえば。商店街を回っていた時に人から聞いた話なんだけど……午後六時だったかな、近場の河川敷で花火大会が開かれるみたいだよ」

「花火大会? 俺たち毎年この別荘に来てるけど初耳だな。今年から始まったのか」

「もしかしたら僕たちが知らないだけで、毎年開催されてたのかもね。──特にやりたいことがないなら丁度いい機会だし、観覧しに行ってみようか?」


 すぐさま花咲はなさきとリョウが反応を示し、「行きたい!」という声が揃った。リョウはイベントごと好きな性格で、花咲はなさきも綺麗な風景には目がないから当然のリアクションだ。


 ──花火大会か。小学生の頃に行ったっきりだな。規模がどれほどのものか分からないけど、みんなで夏の風物詩を味わうのも悪くない。先輩も嬉々とした表情で「花火大会って屋台が出るよね……たこやき……りんご飴……わたあめ……」と思いを馳せてるし。


 逆にこういうワイワイ系が嫌いな彼塚かなづかは、意外にも特に反応を示さず食事を続けている。たぶん怜兄れいにぃと二人きりの時に話を聞いてすでに反論するのを諦めているのだろう。このメンツで行かない選択肢はあり得ないから。


 結局のところ異を唱える人はおらず、花火大会に参加することになった。


 開催時刻までは思い思いに過ごした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る