第2話「昔の女キヨコ」

1





 きみの笑う顔が、頭から離れない。




 ☺︎


 転校してきてから3日目。

 隣の席の彼女が笑うところを、未だに見たことがない。


 高校1年の5月中旬という微妙な時期に転校してきた俺よりも、彼女──倉橋さんは、クラスでは浮いた存在だった。

 クラスの誰かと仲良く話していることろを見たことがない。

 暇さえあれば、読書か勉強。フラッとどこかに行くこともあるけど、他クラスに友達がいるんやろうか。

 近寄りがたい雰囲気が全身からあふれ出しているけど、話しかければ案外返答を返してくれる。

 ちょっと迷惑そうに。

 基本が無表情なため、俺が唯一知る彼女の表情差分だ。

 こんなこと言うたら一生話してくれなくなりそうやけど、倉橋さんは猫みたいやと思う。

 普段は警戒心バリバリで指一本触らせてもらえんけど、ごくたまーにだけ撫でるのを許可してくれる野良猫っぽい。


 けど、その日は少し違った。


 「……」

 「倉橋さん、おはよう」


 いつもなら一応、はい、とかおはようございます、とか返してくれる倉橋さんが、何か言いたげにじっとこちらを見ていた。

 人に興味がない彼女が反応してくれたことが、ちょっと嬉しい。

 その視線が自分ではなく、自分の手元──両手に抱きかかえた袋でなければ、もっと嬉しいんやけども。


 「あ、これ? 倉橋さんもいる? 何味すき? いっぱいあるで。小倉マーガリンと~、イチゴジャムと~、」

 「絶食中なのでいりません」

 「昨日購買でメロンパン買うてなかった?」

 「……」


 あ、黙った。

 倉橋さんは図星を付かれるとなんも聞こえません、みたいな顔をする。無表情やからそう見えてるだけかもしれんけど。

 菓子パンがぱんぱんに詰まった袋を机に置いて座ると、珍しく倉橋さんから質問が投げられた。


 「……パン好きなんですか?」

 「断然ご飯派やね! 白米をおかずに白米3杯は食べれるで」


 倉橋さんの視線が菓子パンに移る。


 「あ、これな。パンについてるシール集めると、景品貰えるキャンペーンあるん、知らん?」

 「……パン祭りですか?」

 「そうそれ。毎年シールコツコツ集めて、皿と交換してんねん。転校で色々バタバタしとって、そのことすっかり忘れてな〜。半分くらいシール集めて諦めるん、なんか悔しいやん? せやから、昨日ありったけ買い占めてきた。見て、これ全部賞味期限明後日やで。やばない?」

 「期限は」

 「ん?」

 「交換期限は、いつまでですか」

 「来週の土曜までやね〜、なんとか集めきれるとええんやけど」

 「……そうですか」


 そこで倉橋さんとの会話が切れた。

 菓子パンの匂いを嗅ぎつけた友人がぞろぞろ集まりはじめたからだ。

 友人達と会話をしながらちらりと横目で確認したけど、倉橋さんの興味は小説に向いてしまったみたいだった。

 ……うーん。やっぱ猫っぽい。


 ☺︎

 「あかん……白米恋し……」

 2日連続の菓子パン生活に早くも飽き飽きして、パン片手に机に突っ伏していた時だ。

 とんとん、と机を指で叩く音がした。

 首だけ動かして視線をやると、見覚えのあるピンク色の丸いシールが机の角にぺたりと貼られている。


 「あげます」


 抑揚のない平坦な声が降りかかってきた。

 倉橋さんだ。驚いて顔を上げると、いつもの無表情で倉橋さんが立っていた。


 「……ええの?」

 「はい。私はパン祭りやってないので。足しにしてください」

 「あ、ありがとう」


 頭を下げる。顔を上げるとすでに倉橋さんは次の授業の準備を始めていた。が、俺の視線が刺さるのが居心地が悪かったのか、こほん、と咳払いをした。


 「……今日はたまたま、お昼ご飯にパンを買ったので」

 「そっ、…………かぁ」

 「いらないなら返してください」

 「いやいるいる!! めっちゃいる!!」

 

 慌ててシールの上に手のひらを被せてガードする。

 倉橋さんは、そうですか、とだけそっけなく言うとそっぽを向いてしまった。彼女の横顔の輪郭が、まろい陽気な昼下がりの光で柔く照らされている。


 それは、昼飯買う時、俺のこと思い浮かべたってこと?


 そんなこと聞いたら、彼女は一生口を聞いてくれなくなりそうで、口が裂けても言えない。

 貰ったピンク色のシールを応募用紙に貼り付ける──が、手が止まる。なんだか無性に勿体無くて、スマホカバーの裏面に、ぺたりと貼り付けた。


 ☺︎

 「じゃーん! 無事ゲットしました〜!」

 「はあ……おめでとうございます」


 翌朝、文字通り“パン祭り“だった日々からようやく解放されて、昨日応募用紙と引き換えてきた皿の写真を、倉橋さんに見せる。

 倉橋さんの反応は予想通り、透かし紙より薄い反応だった。


 「思ったよりファンシーなお皿ですね」


 倉橋さんがそう言うもの無理はない。

 引き換えてきた皿は、デフォルメされた猫の形をしたもので、真ん中にパンをこねる猫がプリントされた、通称“こねこねこぱんシリーズ“だから。


 「猫、好きなんですか?」


 写真をじいっと覗いていた、黒い瞳がこちらを向く。


 「……えっ? う、うん」


 ……他意は、ない。


 「結構、すき、やで……?」


 他意は、ない、から。

 だから、あんま、うるさくせんといてくれ。俺の心臓。


 「あ、ありがとうな。協力してくれて。助かったわ」

 「たまたまです」


 もうすぐ、朝礼の時間がやってくる。

 スマホの電源を落として、机に置く。鞄の中から教科書やらノートやらを取り出しつつ、これでようやくパン祭りから解放されるで、と肩を撫で下ろしたその時。


 「それ」

 「それ?」


 倉橋さんが指さす方向を辿り、固まる。


 「……アッ、ああああ!?」


 バンッ! 豚の尻尾くらいの勢いで自分のスマホに手を叩きつけて隠す。俺の勢いに蹴落とされた倉橋さんが目をぱちぱちさせる。


 そうやった!! 

 貰ったシール、スマホにはりつけたまんまやった……!


 「こっ、これは……その……」


 こう言う時に限って、上手い言い訳が思いつかない。

 あたふたする俺を不審に満ちた瞳で眺めていた倉橋さんが口を開く。


 「ひょっとして、」


 心臓がうるさいくらい飛び跳ねた。

 倉橋さんの続きの言葉を待つまで、途方もない時間がたったと思うくらい。


 「……2枚目を?」

 「………………、そうやで!」


 色々なものを全て飲み込んで、力強く頷いた。


 後日談。辻褄合わせのために始まった地獄のパン祭りは、翌週まで及んだ。


 ☺︎

 大分話が逸れてしまった。

 こんなにも長々とパン祭りについての一連の流れを語ってしまったのは、この話には続きがあるからだ。


 「せやから、大丈夫やって」

 『そんなこと言うて、ちゃんとご飯食べとるん? カップ麺ばっか食べてるんちゃう?』

 「心配せんでも、カップ麺ばっかちゃうよ(……菓子パンばっかやけど)」

 『はあ。あんま無理せんと、嫌にやったらいつでもこっちに……あ、ちょっと待って。カナタ、今お兄ちゃんと電話しとるから、』

 「……忙しいみたいやから、切るで」


 ぷつり、と半ば強引に電話を切る。

 空を見上げると、画用紙に墨を一滴垂らしたみたいな重い雲が行先に見えた。


 手元を見れば、ギチギチに袋に詰まった菓子パン。

 思わずため息が出てる。絶対あそこのコンビニの店員に、こねこねパン野郎とか裏で呼ばれてる。しばらく行かれへん。


 明日からまたパン祭りに逆戻りか〜と、肩を落として歩いていると、落ちた気分にリンクしたみたいにぽつぽつ、と地面に黒いシミができていく。次第にそのシミが広がっていくのに気づいて、慌てて鞄の中から取り出した折り畳み傘を開いた時だった。


 ……倉橋さん?


 開いた傘越しに、見知った人影がコンビニの軒下で雨宿りしているのが見えた。

 倉橋さんは雨で濡れた髪をハンカチで拭き取っている真っ最中だった。

 

 傘忘れたんかな?

 声をかけるべきやろうか……でも倉橋さん、外でクラスメイトに声かけられんの嫌がりそうやし……。ってか、なんや……震えてない?

 

 コンビニからは少し距離があるから、はっきりは見えないが、倉橋さんの肩が小刻みに震えている、気がする。と、思ったらいきなりしゃが見込む。


 さっと血の気が引いた気がした。

 もしかしたら、体調が悪くて動けんのかも──そう思って、一歩踏み出した時だった。


 「──」

 

 時間が、止まったみたいに。

 けれど、心臓の鼓動だけはやけに耳に響いていた。

 その光景から目が離せなくて、食い入るように見つめてしまう。さっきまで雨で悴んだ指先が、頬が、燃えるように熱い。



 

 転校してきてから5日目。

 隣の席の彼女が笑うところを、その時、初めて目撃した。

 

 


 


 

 

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