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幼少期のころ、私のあだ名は『背後霊』でした。
あだ名の由来は、気が付いたら後ろにいて、無表情で立っている様が実に不気味だったから。
そういえば、小学校最後の修学旅行、一番端で人の背に隠れるようにして撮った集合写真が、顔半分だけ写り込む死んだ瞳をした青白い顔の少女がいるとクラス内が騒然となり、3組にはいじめを苦にして自殺した少女の幽霊が彷徨っているだとかなんとか噂に尾ひれがついて学校の七不思議になってしまったことがありました。
写真を見て、(これ私だな……)と思いましたが、何も言わずにそっと黒歴史として蓋をすることにしたのです。
小学生の考えるあだ名って結構残酷です。
けれど、そんなあだ名にどこか納得してしまう自分がいました。
彼らからすれば、無口で無表情で話の通じない、それこそ幽霊みたいな存在だったのでしょう。
人間関係を円滑に進めるために必要なもの。
たとえば、協調性とか、気遣いとか、愛想とか、立ち回りとか。
そういうものすべて、生まれた瞬間に母親の腹の中に置き忘れてしまったのです。あるいは私と血がつながっているのか疑うほど陽気な家族に、陽の気をすべて持っていかれたのかもしれません。
今回みたいなことは、今までだって何度もあったのです。
暇つぶしかただのきまぐれか。くだらないからかいをした後、彼らは表情ひとつ変えない私に、決まって言うのです。
つまんないやつ、と。
あれから、坂本くんが私に話しかけてくることはなくなりました。
机にりんごが置かれていることはないし、季節外れのゴーグルを装着していることもありません。
部活動のないゲートボールの解説本を読み耽ることもないでしょうし、いきなり栗まんじゅうを渡されることはありません。まして、馬の姿で登場することも、学校に昼寝用の枕を堂々と持ち込むこともありません。
かくして、平穏な高校生活が戻ってきたのです。
これで私の心が乱されることはなくなりました。
ただ、ひとつ。
惜しむことがあるとしたら。
ら、に続く言葉が何だったのか、永遠に分からないことだけです。
☺︎
そこには、いつも以上に浮かない顔つきをする私が写っていました。鏡越しですら、行きたくない、と顔に書いているのがありありとわかります。
時刻は朝の7時半。
二回目の日直当番が回ってくる日です。
トイレから出て、重い足取りで教室へ向かいます。
いざ、教室のドアの前に立つと、らしくもなく開くのを躊躇ってしまいます。
私は深呼吸をした後、意を決して、教室のドアを開けました。
……どうやら、誰もいないようです。
見まわした教室のどこにも彼の影が見えず、私はほっと肩を撫で下ろしました。
流石の彼もあんな事があった後に、私と顔を突き合わせ辛かったのでしょう。結果的に仕事を押し付けられるのは癪ですが、彼と気まずい雰囲気の中、雑務をこなすよりは断然マシです。
肩にかけた鞄を机に下ろし、花瓶の水の入れ替えをしようと立ち上がった時です。
──がたん、と何かが倒れる音がしました。
すぐ後方、掃除用具入れの中からです。中にある箒でも倒れたのでしょうか。無性に中が気になって、私は用具入れの取手に手を伸ばします。
扉を開けるとそこは、サバンナでした。
獰猛な肉食獣の鋭い眼光と、逆立つ茶色の毛並み。
剥き出しの犬歯が朝の爽やかな日差しを浴びてきらりと光ります。
草原の中を堂々とした出で立ちで寛ぐ肉食獣の貫禄は欠片程もなく、幅50センチほどの窮屈な用具入れの中にギチギチに押し込まれるさまはさながら、満員電車に揉まれるサラリーマンでした。
一旦扉を閉じました。
なんだろう今の。……幻覚?
停止した思考では理解が追いつかず、私は、考えることを諦め、もう一度扉を開けました。
「……」
「……」
先ほどと全く同じ体勢で、“それ“は立っていました。今にも襲いかかってきそうなほど質感のある肉食獣と5秒ほど向かい合い、私はようやく正気を取り戻します。
「……坂本くん」
「……」
「坂本くん」
「……」
返答がありません。このままシラを切るつもりでしょうか。
沸々と怒りの感情が湧き上がってきました。このまま逃げ切るつもりかもしれませんが、そうは問屋が卸しません。
「もしかして、喧嘩売ってますか」
「売ってへん売ってへん!! 誤解や! ……ハッ」
マスク越しからでも、バレたことに焦っている彼の様子が分かりました。
ため息を一つ落として続けます。
「……やっぱり坂本くんじゃないですか。何してるんですか」
「掃除用具入れに挟まってる……」
「わざわざ早くに学校に来て?」
「わざわざ早くに学校に来て……」
「何のために?」
「びっくりするかなおもて」
「……馬鹿なんですか?」
「……おっしゃる通りで……」
「とりあえず、そこから出てください」
「はい……」
掃除用具入れの中から、ぬっと足を出した坂本くんが一時停止します。
「何してるんですか?」
「いや……その……」
「?」
「……マスクが引っ掛かって出られへん」
「(見捨てようかな)」
「ちょお待って! 見捨てんとって!」
坂本くんが暴れるたびに用具入れががたがた揺れます。
傍から見ると棺桶に閉じ込められた吸血鬼のようで実に滑稽です。
「どうすればいいですか?」
「……手、引っ張って」
恭しく手が差し出されます。
その哀れな様を見ていたら、今までの悩み全てが馬鹿馬鹿しく思えて、もうどうにでもなれ、と彼の手を握り締めて引っ張りました。
抜け出した坂本くんは、床に正座をして深々と頭を下げました。
「ご迷惑をお掛けしました……」
綺麗な土下座です。百獣の王の。滅多に見れない光景です。
その前で仁王立ちになり、坂本くんを見下ろしました。
「あの。一つ聞いてもいいですか」
「……はい」
「何のためにこんなことしてるんですか」
「……」
「答えてください」
「……絶対引くから嫌や」
「引きません」
「……絶対やで? 絶対の絶対に引かんといてな?」
「はい。絶対の、絶対に、です」
「……わ……ら……」
「はい?」
小鳥のさえずりにさえかき消されそうな声でごにょごにょ喋るものですから、まったく聞き取れず、私は彼の方へ耳を傾けて聞き返しました。
すると、坂本くんは突然俯いていた顔を上げました。
「~~~! 倉橋さんの笑った顔が見たかってん!!」
てん…てん…と教室中に坂本くんの声が響き渡ります。
彼の言葉が私の頭をぐるぐると駆け回りますが、意味を飲み込むことができずに思考停止します。
私の笑った顔が……見たくて……?
私の笑った顔が……?
「……」
「やっぱ引いてるやん! だから嫌やって言うたのに……」
「いや……その……はい。……すいません」
「やめて、謝らんとって! 余計傷つく!」
被り物越しに両手で顔を覆ったまま、坂本くんがぽつぽつと語り始めました。
「転校してきて1週間くらい経った頃やったかな……、外でたまたま倉橋さんを見かけたんよ。コンビニの前で雨宿りしててん」
「……」
「そしたら急に、しゃがみこんでぶるぶる震えだすから、倉橋さん腹でも痛くなったんちゃうかて。声かけようか迷ってん」
「……」
「でもさ、よお見たら倉橋さん、吹き出してめちゃくちゃ笑うてたんよ」
「……(いや、恥っず……)」
学校外でひとりで盛大に吹き出し笑いをしていたところを目撃されていたらしいです。しかも見間違いとかでなく全然私のことです。心当たりしかありません。普通に恥ずかしいです。穴があったら入りたいです。
「倉橋さんも笑ったりとかするんや、とか思ったら、なんでかよお分からんけど、無性にもう一回、見たなって。せやから……、」
「馬?」
「……うん」
ようやく、彼の奇行の理由が分かりました。
いきなり変顔をかましてきたことも、身を削る大掛かりなしりとりも、私を笑わせるための芸だったのです。
「けど、倉橋さん笑うてくれへんし、どうしたらええか分からんって悩んでたらクラスの奴らが色々協力してくれてん……」
だからですか。クラス全員無反応だったのは。
「つい最近まで、このクラスで正気なのは私しかいないのかと本気で疑っていました。まさかクラスぐるみだったんですね」
坂本くんは勢いよく頭を下げました。本日二回目の土下座です。
「ほんっっまにごめん!! 倉橋さんの気持ち、なんも考えんと嫌な思いさせて……俺ほんまやな奴や……合わせる顔がない……」
しょぼくれる姿を見ていたら、今まで私が苛立っていた感情が泡のよう消えていきます。
こんな事、本人には口が裂けても絶対に言えませんが、私は結局、ら、の次の言葉がなんだったのか気になっていたのです。名残惜しく思うくらいには。
だから、坂本くんが私の隣の席にやってきてからの日々は。
「……別に、嫌だったとは言ってません」
「えっ、なんて?」
顔を上げた坂本くんが首を傾げます。
「……なんでもありません。いい加減そのふざけた被り物を取ったらどうですか。日直の仕事、ちゃんとやってもらいますから」
「ご、ごめんて。ちゃんとやるから怒らんで」
「別に怒ってないです」
坂本くんがいそいそと被り物を取ります。ようやくいつも通りの坂本くんが現れました。ヘニャヘニャになってしまった抜け殻を見て、私はふと疑問に思い、問いかけました。
「でも、いいんですか?」
「なにが?」
「それ。最後にん、が付きますが」
坂本くんはパチパチと丸くして、私と顔を見合わせた後、今度は手に持った“ライオン“の被り物に視線を移しました。
「……あ、あああ!? ほんまやん!? あかん、全然気ぃつけんかった……んついてるやん……」
坂本侑。
5月中旬、私の隣の席にやってきた転校生。
平穏な高校生活を脅かす宇宙人だと思っていたけれど、蓋を開けてみれば、彼は、私とは全く真逆の──
「……ふふ。へんなひと」
「──」
「……坂本くん?」
なんの返答もなく固まる彼が心配になって、顔を覗き込むと、大声で起こされた猫のように飛び上がって、大きく上半身を逸らしました。まるで私から逃げるように。瞳の奥がぐらりぐらりと震え、動揺しているのが手に取るようにわかります。
「顔がすごく赤いですけど、大丈夫ですか?」
「……へっ?」
間抜けた声が、教室に響き渡りました。
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