(続きです)

     二


息を切らして、高梨の部屋の前に着く。呼吸整をえる間もなく、そのまま部屋に入る。 ドアを開けると、窓辺に置いてあるアラビア・ジャスミンのほんのり甘い香りがした。


局長室は二十畳ほどの部屋で、両サイドに三段の抽斗(ひきだし)のあるダークブラウンの机を、窓を背に置いてある。


何も飾らないのが高梨の好みなようで、白い壁には何も貼っていない。カチカチと秒針の音がする黒い丸時計が、ドアの上に掛けてある。


日本刀が刀掛台に架かっていた。鞘が白く、柄(つか)の部分は白い柄(つか)巻(まき)がしてある。装飾品はこの二つだけである。


日本刀は本物で、気に入らない社員の鼻先に刀の切っ先を向けて、「仕事に励むか? 死か?」と脅すとの噂である。無論、嘘に違いないが、普段の高梨を見ていると、もっともらしく聞こえた。高梨は剣道五段であった。


高梨が椅子から、やおら立ち上がり、私を手招きした。立つと、まるでゴリラだ。   

百八十五センチの長身と、体重百キロの堂々とした体にグレーの背広に身を包んでいた。


しかし、体ばかりでなく短く刈った白髪頭に四角い顔、細い目、潰れた鼻、薄い唇。見事なくらいゴリラである。                              

高梨は、ズボンのポケットに手を突っ込んで、しばらくぶらぶらと、机の前を円を描くように歩いた。                                  


脳天に上がった怒りを鎮めている様子がわかる。体重が重いためか、床を歩く音がドスドスと聞こえる。ゴリラが獲物を襲う前に、獲物を窺っている姿に似ていた。      


高梨はデスクに戻り、立ったまま、一度、天井を見上げた。             

それから、デスクの側に立った百五十五センチの私をぎろりと見下ろして、ゆっくりと宣言した。                                   


「今日の会議で、スーパーワイドを打ち切る検討に入った」              

体が凍った。予想が的中した。                         


 ついに来るべき時が来たのか。社内で噂されていたので、ある程度の予想はできていたが、いざ、宣言を受けると、心がぺしゃんこになった。               


 とたんに、いつもの病気が出てきた。変身病である。                

私は大体、三つの状態に変身をする。変身をした場合、周りがわからなくなる。 

   

戦闘員に変身するときは、まず怒りが出てくる。お涙ちょうだいのお嬢様になるときは、悲哀(ひあい)が出てくる。虚しくて、どうにもならないときは、怒りと悲哀が混在した。


混在が現れると、特に支離滅裂(しりめつれつ)になった。悲哀の言葉を垂れ流し、舌の根も乾かぬうちに、怒りの言葉を喚(わめ)いてをくりかえす。 


例えば、こうだ。「ねえ。寂しい。一緒にいてよ」と甘え、相手に凭(もた)れ掛かって要求を繰り返す。                                   


 相手の都合など構わない。相手に仕事があろうが、恋人や奥さんがいようが、近くに誰かがいようが、とにかく甘えた。                         


 しかし、相手が、私を抱き締めて、甘えに応えようとする次の瞬間、私は翻(ひるがえ)る。


「煩わしい。どこかに行ってしまいな。体を触ってやらしい男ね」とヤクザの姐さん言葉を口走る。                                     


 自分でも何か病気と思うのだが、どうにもならない。特に混在が現れるときは、周りの人をお仕置きしたくなる。


昔、少女が変身するアニメに「月に代わってお仕置きよ」と言う台詞があったが、変身をして、お仕置きをしたくなった。             


 高梨の顔を見ていると、私の心に怒りがふつふつと現れ出た。悲哀は出てこない。戦闘モードに、少しずつ入っていく。                  

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