5 ヨウとの会話

 二十一時を告げる鐘の音が、図書館の中央にそびえる尖塔から響き渡った。その大きな鐘は、夜の静寂を破る深く澄んだ音色で、定刻通りに時間を知らせる。この音が鳴り終わる頃には、生徒たちは寮の部屋に戻らなければならない。ハルは、その響きに我に返った。


「まずい、早く戻らないと・・・・・・


 読んでいた「エルニア史」を、急いで分かりやすい位置に戻した。分厚い本を丁寧に棚に収めると、彼は急いで図書館を後にした。広く暗い校舎を静かに、しかし急いで歩きながら、ハルの心臓は高鳴っていた。フィーズや他の先生たちは、巡回中に廊下で生徒を見つければすぐに注意を与えるだろう。それに加え、初日の夜から説教を受けるのは避けたかった。


 暗がりの廊下を急ぎ足で進みつつも、ハルは足音を立てないよう慎重に歩いた。柱の陰や壁沿いを縫うように進み、校舎を横切る頃には冷や汗が滲んでいた。途中、どこからか話し声や扉の開閉音が微かに聞こえるたびに、心臓が跳ねるような感覚に襲われた。しかし、なんとか巡回中の教師たちに見つかることなく、西棟の寮の入口へたどり着いた。


 寮に入ると、ハルはさらに注意深く廊下を歩き、自分の部屋のドアをそっと開けて中に滑り込んだ。その瞬間、ほっと胸を撫で下ろした。間に合った。

 だが今後はもっと早く行動しようと心に誓う。十分前には部屋に戻っておかなければ、これでは落ち着いていられない。


 部屋のベッドに腰を下ろしたハルだったが、その安心感も束の間だった。ふいに、隣室のヨウがこっそりと部屋に入ってきた。扉が小さな音を立てて閉じられる。


「どこ行ってたの?」


 ヨウは小声で問いかけながら、少しだけ呆れたような表情を浮かべていた。どうやらハルが部屋を出ていたことに気づいていたらしい。その鋭い観察力に驚きつつも、ハルは言葉を選びながら答えるべきかどうか迷った。何も言わない方がいいのか、あるいは図書館のことを正直に話すべきなのか――それでも、ヨウの問いかけには、どこか好奇心と親しみのある響きが含まれているように感じられた。


 ハルは少しだけ肩をすくめ、静かにヨウの視線を受け止めながら、その日の冒険を思い返していた。


「ちょっと、図書館に行ってたの」


「へー。なんか面白いものであった?」


「うん、ちょっとね」


「え、なになに? 僕も知りたい」


「なんか、この国の伝説のことが書かれてたけど、意味分からなかった」


「へー、それ明日一緒に見に行ってもいい?」


「いいよ! 行こう!」

「ありがとう!」


「うん! そろそろ戻りな? 見つかったら怒られるよ」

「うん、わかった。また明日ね」


「おやすみ」


 ハルは初めてヨウと肩肘張らずに楽しく会話を交わした。二人の間に自然な笑顔が生まれ、緊張感はすっかり消えていた。ハルは明日からの新しい日々が、少しだけ楽しみになるのを感じた。


「よし、寝よう」


 ハルはベッドに潜り込み、目を閉じた。

 しかし、眠気は一向に訪れる気配はなく、図書館で読んだあの文章が瞼を掠めていく。あの伝説とは一体なんだろう。

 トラバートル? トラスニア? ハルには、初めて聞く名前しかなかった。それらが頭の中をくるくると回り、気になって仕方がない。


 初めて一人で眠る夜は、こんなにも心細いのかと不安になる。気になったことを質問すれば、いつでも答えてくれた母と父がいないので、ハルは一人寂しくベッドに横たわっていた。


 ふと目を覚ますと夜はすでに明け、部屋の中は眩しいほどの光に満ちている。寝ぼけ眼のまま、ハルは枕元からゆっくりと上体を起こし、しばらくぼんやりとした視界を擦るように目を手で拭う。重なり合うまつげを開いて、カーテンへと手を伸ばした。


 淡い青色の生地を左右に引き、最大まで開け放つと、部屋いっぱいに差し込む陽光がさらに光量を増し、ハルは思わず目を細めてしまう。強烈な白光が瞳の中で弾けるように瞬くと、彼は短く息を吐き、ゆっくりと視線を窓外へと移す。

 窓辺から見下ろすと、雄大な流れを見せる校舎の前のアズルベ川が朝の息吹の中で煌めいていた。水鳥たちはすでに飛び回ったり、水面を器用に泳ぎ回りながら魚を探している。 

 この季節は雛の成長期であり、親鳥は必死になって捕食活動を続ける。その羽ばたきと水の跳ねる音、そしてきらきらと輝く水面。


 ハルは、この清冽な川の景色をいつまでも眺めていられそうな気がした。光と水と命が交錯するその光景は、ただそれだけで心を和ませ、彼の胸に静かな安らぎを呼び起こす。


 どれほどの時間、ハルはその川景色に目を奪われていたのだろうか。気づけば、川幅およそ六十メートルのアルズベ川を渡すエルズベ橋上に、人々の行列がじわじわと伸び始めていた。遠くから見てもわかるほど、列の中には華やかな服を纏った者が多く、明らかに質の良い織物や上質な染料で彩られている。


 一人の男性を囲むように、まるで護衛もしくは随行する従者たちが、その人物を中心にして隊列を成していた。

 彼らは何者なのか、そしてどこへ向かおうとしているのだろうか。


 ハルはまぶたの重さが消えた目で、窓枠に両腕を重ねて、じっと橋上を移動する行列を追う。朝の光に浮かび上がった人影たちは、川面に細長い影を投げかけながら、静かに進んでゆく。カーテンを全開にした部屋は、光と気配に満たされ、ハルは心の中にゆっくりと問いを溶かしていく。橋を行く高貴な風情の行列と、たった今目覚めたばかりの水鳥たちが織りなす朝の風景。


 ハルはそれ不思議に眺めていると、部屋のドアからノックが聞こえてきた。

 ドアを開けると、ヨウが眠そう立っていた。


「おはようハル、眠れた?」


「うーん、わかんない」


「そっか、僕はあんまり」


「どうしたの?」


「なんか外、すごいでしょ?」


「あー、あれ何?」


 ヨウは、あれがエルニア王国の首長であるヘーヨンだと説明してくれた。どうやら、今日は外遊があるらしく、一隊となって、隣国に向かうようだ。


「歩いていくの?」


「いや、この北に空軍基地があるんだよ。そこから、専用機で飛ぶみたい」


「へー、そんなのあるんだ」


 ハルは、エルニア王国の片隅に位置するファルヴァ村で育った。そこはなだらかな丘陵地帯が広がり、季節ごとに色を変える草花が美しく咲き乱れるものの、鳥以外の飛行生物をほとんど見かけることはない、閑静な農村だった。だからこそハルは、空を自在に駆ける飛行機や飛行船、あるいは巨大な輸送用の飛翔体というもよを一度も目にしたことがなかったのである。


 対して、ヨウは首都近郊のエルドウィン村出身で、幼い頃からオルディストン市に足を運ぶ機会が多かったらしい。オルディストンはエルニア王国の中首都で、なおかつ最大都市であるため、先端的な技術や交通インフラが整備され、空港さえ備えている。この都市についてハルよりも詳しいヨウは、やや得意げな表情で、首相であるヘーヨンが外遊する際の交通手段について教えてくれた。


 ヨウの話によれば、ヘーヨン首相が空港を利用するのは軍事同盟を結んだ友好国へ赴く場合のみなのだという。それ以外の場合、つまり軍事同盟関係のない国へ向かうときには、オルディストン中央駅から列車による長い旅路をとる。


 これは非軍備同盟国を通過する際、地対空ミサイルなどでの攻撃を受ける可能性が考慮されているためだ。高度な防空システムが整わない地域では、空からの移動は危険を伴う。最近、紛争や革命が相次いでおり、地に足のついていない移動は危険と判断されている。


 そのため、列車のルートが比較的安全と見なされ、外交使節団は地上を通り抜ける術を選ぶのである。


 こうした国際事情は、ファルヴァ村で何も知らずに育ったハルには新鮮で、同時に少し不安をもたらすものだった。飛行機というものどころか、まだまともな都市すら知らぬ彼にとって、エルニア王国を取り巻く複雑な情勢は、国民の想像を遥かに越える緊急事態に差し迫っていた。

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