6 ハルの長い一日

 この日はエルニア王立学校での初めての授業が行われる日だった。朝から空は雲一つなく晴れ渡り、柔らかな陽射しが校舎の窓を彩っていた。清々しい空気に包まれた中で、生徒たちはそれぞれ期待と緊張を胸に抱きながら教室に集まった。


 最初の授業は数学と物理だった。数学の授業では、次々と難解な公式や定理が黒板に書き出され、ハルの頭はすぐに混乱でいっぱいになった。教師の流れるような説明に目で追いつきつつも、内容の深さに圧倒される。未知の概念が次々と現れ、それらを理解しようとするたびに頭が悲鳴を上げるようだった。


「これ、どういうことだ・・・・・・?」


 ハルは思わず呟きながら頭を抱えた。方程式や定理の組み合わせは、これまで考えたこともないような複雑さで、まるで自分が別世界の言語を学んでいるかのように感じられた。


 次の物理の授業では、さらにその混乱が深まった。数学の知識が土台となるだけでなく、そこに現実の現象や法則が絡み合い、考慮すべき事象が膨大に広がる。力のベクトル、エネルギー保存則、重力の影響など、頭の中にイメージするだけでも至難の業だった。教室の中に響く教師の声を追いながら、ハルはノートにメモを取りつつも、何度も手を止めて考え込むことがあった。


 隣を見ると、ユウはまっすぐに背筋を伸ばし、教師の話を一言一句聞き逃すまいと真剣な表情で授業に集中している。その眼差しは鋭く、まるで問題の核心を一瞬で見抜こうとしているかのようだった。その姿にハルは少しだけ感心しながらも、自分との理解の差を感じずにはいられなかった。


 一方、反対側に目を向けると、ヨウがハルと同じように口をぽかんと開け、黒板を見上げていた。目が泳ぎ気味で、何が書かれているのか理解できていない様子が一目で分かった。その表情にハルは少し安心感を覚えたが、それでも自分が追いつかなければならないという焦りも湧き上がってくる。


 さらにその後ろにはビガが座っており、ヨウの様子をちらちらと見ている。どうやらビガも問題の解き方が分からないらしく、ヨウに助けを求めたそうにしていたが、頼りになるどころか混乱しているヨウに頼るのは無理そうだとすぐに諦めたらしい。その様子が微妙におかしく、ハルは思わず小さく笑ってしまった。


 授業が進むにつれ、教室の空気には緊張感と不安が入り混じっていった。それでも、エルニア王立学校での学びはこれから始まったばかり。ハルはふと、自分がこの難解な世界をどこまで切り開けるのだろうと考えながら、ノートを閉じた。まだ道は長い。そのことを改めて感じさせる、最初の一日だった。


「では、この演習問題を解きなさい。あ、解いてみましょうか」


 物理の先生は高齢で、白髪交じりの髪と厳しい目元が印象的だった。かつてエルニア大学の物理学教授を務めていたという経歴を持つその先生は、専門的な知識と経験に裏打ちされた威厳を漂わせていた。


 しかし、まだ幼いハルたちを相手にするのには慣れていないらしく、難解な説明の最中に思わず口調が荒くなることもあった。けれど、すぐに気づいて柔らかな言葉へと言い換える様子には、人柄の優しさが垣間見えた。


 全ての授業が終わると、ハルたちはようやく自由時間を迎えた。慣れない授業で疲れはしたものの、新しい環境での生活の一端に触れた充実感が胸に残っていた。これからの時間、どこで何をするか。それぞれが思い思いの行動を考え始めた。


「ねーねー、あれどういうことだったの?」


 ビガがユウに、さっきの物理について質問をしている。


「あー、あれは音速の話だよ。音速って覚えてる? さっき、先生が言ってたけど」


「え、音速? なんだっけ。あ、三百四十メートル?」


「そうそう、それを雷が光ってから何秒で音が聞こえたかで、距離が分かるでしょ?」


「あー、なるほど! わかった! 八秒かける三百四十で二千七百二十メートルってことか!」


「そう。それでおっけーだよ」


 ビガはユウに手解きを受け、ようやく理解できたようだった。瞬間、顔がぱっと明るくなり、小さく手を叩いて喜びを表現する。その様子に、ユウも満足そうに頷いていた。


 一方でハルは、頬杖をついて二人のやりとりを静かに眺めていた。

教室に響くビガの嬉しそうな声と、ユウの穏やかな解説。それらを聞きながら、ハルはどこか心地よい安堵感を覚え、少しだけ自分も勉強を頑張ってみようかという気持ちになっていた。


「あ、ハルくん。さっきのわかった?」


 ハルの視線に気がついたのか、ユウが問いかけてきた。


「あー、ちょっと難しかったけど、なんとかわかった」


「そっか、わからないことあったらなんでも言ってね。私、物理系は得意なの」


「そうなんだ。じゃあ、その時はよろしくね」


「うん! 私、魔法はまだまだ苦手分野」


「魔法?」


 ハルはこれまで田舎で暮らしていたせいか、魔法というものにまったく触れる機会がなかった。それは彼にとって空想の産物であり、現実に存在するとは考えもしなかったのだ。


「そうそう、グリムハースの横に魔術学校があるでしょ? ここを卒業したら、ほとんどの人がエルニア大学かそこに進学するの。私は、魔術学校に行きたいんだけど、魔法の知識がなくて・・・・・・」


 ユウの話によると、エルニア近郊に位置するアスタリオン魔術学校には三つの主要な学部があるという。その学びの目的はそれぞれ異なり、魔法という分野を幅広く支えている。


 最初の学部は「魔術学部」だ。ここで学ぶ生徒たちは、いわゆる魔法使いを目指している。科学技術に頼らず、魔法の力を用いて生活する術を身につけるのが主な目標だ。例えば、魔法を使った照明、暖房、水の供給など、日常生活を支えるための基本的な技術から始まり、医療や建築、農業分野で応用される高度な魔法も学ぶことになる。


 ユウの話では、エルニア王国では科学技術の方が魔法よりも発達しているそうだ。しかし、科学技術を使うには高額な費用がかかる。電力や機械を動かすための燃料、設備の維持費など、莫大なコストが一般家庭には重い負担となるため、多くの家庭では魔法を使う方が経済的だという。そのため、魔術師学部は人気が高く、アスタリオン魔術学校に入学する生徒の大半はこの学部に進むという。


 しかし、ハルの実家では魔法に頼る生活はしていなかった。田舎の農村で生まれ育った彼の家では、科学を基本とした生活が営まれていたのだ。科学技術といっても、ハルの村で使われるものは簡素な機械や道具に過ぎなかったが、それでも魔法を用いない生活をしてきた彼にとって、魔法というものはまったく未知の存在だった。ユウの話を聞きながら、ハルは魔法が人々の生活に密接に関わっているという事実に驚きを隠せなかった。


 次にユウが語ったのは「魔法学部」についてだった。この学部はアスタリオン魔術学校を卒業した一部の生徒が進むエルニア大学院の魔法学部に関連しており、より専門的な魔法の研究を行う場所だ。ここでは、魔法そのものを科学並みに発展させることを目的としている。例えば、自然現象を魔法で制御する技術や、新しい魔法の体系を構築する研究などが行われている。エルニア王国では、魔法を国家運営において重要な資源として位置づけており、科学技術に依存しすぎない社会を目指している。そのため、魔法学者は研究者としてだけでなく、政策決定や行政分野でも重要な役割を果たしているという。


 最後の学部は「魔法軍学部」だ。この学部を卒業した生徒たちは、エルニア王国の軍隊に所属することを目指す。エルニアには陸軍、海軍、空軍といった通常の軍隊に加え、魔法を専門とする「魔法軍」が存在している。しかし、魔法軍の規模は他の三軍と比べて小さく、予算も少ないのが現状だ。それは、魔法がまだ発展途上にあり、軍事分野での応用には多くの課題が残されているためである。それでも魔法軍には多くの志願者が集まり、特にアスタリオン魔術学校の生徒たちの中には、魔法軍に憧れる者も少なくないという。


 魔法軍学部では、魔法の戦闘技術や戦術、魔法道具の扱い方など、実践的なスキルを学ぶ。さらに、魔法軍に所属するためには、身体能力や精神力も鍛えなければならず、その訓練は非常に厳しい。しかし、その厳しさを乗り越えた者たちは、エルニア王国の平和を守る重要な存在として活躍することが期待されている。


「でも、魔法と科学がどうして両立してしてるのかは、まだわかってないみたい」


「へー」


 ユウの話はさらに続く。

 魔術学校や大学院に進むのが一般的ではあるものの、ほんの一部の生徒は隣接しているオーレンシャイアの楽友協会に進む道を選ぶというのだ。


 オーレンシャイア楽友協会は、音楽と芸術に特化した機関であり、魔法とはまったく異なる分野に専念する場所だ。楽器の演奏技術や作曲、音楽の新しい表現方法の研究も行われているらしい。そのため、音楽の才能を持つ者が進むことが多いが、その道を選ぶ者は少数派だという。


 ハルはユウの話を聞きながら、エルニアの広大な学びの世界に感銘を受けていた。魔法という未知の分野が、自分の想像をはるかに超える多様性を持っていることを知り、彼の中で少しずつ興味が芽生え始めていたのだった。


 ハルはまだ、自分の将来について具体的に考えたことがなかった。ただ日々を過ごし、新しい環境に慣れることで精一杯だったのだ。そんな中、ユウはすでに将来の目標について考えているようで、その真剣な表情にハルは少しだけ焦りを感じた。


 しかし、自分と同じような考えの人もいるのではないかと、隣のヨウにも尋ねてみた。だが、返ってきた答えはハルと同じ。「まだ何も考えていない」というものだった。それを聞いて、ハルは少しだけ安心した。

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