2 初めての冒険
おもちゃの銃とはいえ、ハルのそれを扱う手つきには妙な真剣さがあった。その様子を見たターリンは、ある日、ハルを狩猟に連れて行くことを思い立った。興味津々のハルは目を輝かせ、行きたいと言わんばかりにそわそわと落ち着かない。その姿にターリンは微笑みながらも、内心では少し迷いがあった。
一方で、ユンは当初この提案に断固反対した。本物の銃を扱うこと、そして何よりも動物の命を奪うという行為は、まだ幼いハルには重すぎる。ユンの言い分はもっともで、狩猟がもたらす責任や命の重さを、ハルに理解させるには早すぎると考えていた。
だが、ハルの純粋な好奇心と、冒険心に満ちた無邪気な姿を見ていると、ユンの心にも次第に変化が訪れる。ハルが感じているこの新しい世界への憧れを、頭ごなしに否定するのも正しいとは言い切れないと思い直したのだ。
最終的にユンも折れた。ただし、一つだけ条件を付けた。それはターリンが一人でハルを連れて行くのではなく、信頼できる猟師仲間と共に行くということだ。大人たちの目があれば、万が一の事態も防げるだろう。ターリンもこの条件をすぐに受け入れた。
準備の日、ハルは自分の背丈に合った小さなリュックを背負い、興奮した様子で森へ向かう準備をしていた。ターリンは猟師仲間と共に、ハルにとって初めての狩猟が安全で意義深いものになるよう心を配る。
キシウの森は生い茂る木々に包まれ、命の息吹を感じさせる場所だ。その中で、命を奪うという行為の意味をハルがどう受け止めるのか――それは大人たちにとっても一つの挑戦となるだろう。
森へ向かうその朝、空は澄み渡り、鳥の囀りが新たな一日を告げていた。
風に揺れる木々の葉音に混じって、ハルの胸の鼓動が森の入り口で高鳴っていた。
「お、ターリン。その子がハルくんか?」
「そうだ。ハルだ。可愛いだろ?」
「ああ、すごく可愛いな」
「デルンの子は何歳になるんだ?」
「俺の子は、もう十歳になるな」
「もう十歳か」
デルンはターリンよりも二歳年上で、彼の先輩にあたる。その腕前は猟師たちの間でも名高く、特に銃の扱いにおいては卓越していた。そのため、時折り陸軍から声がかかり、軍の銃器訓練を手伝うこともあるほどだ。的確で無駄のない動きは、見る者すら魅了する。
そして、デルンにはもう一人の仲間がいる。彼の愛弟子であるルグズだ。ルグズはターリンと同い年で、もともとはデルンの雑用係として弟子入りしたが、今では猟の現場でも重要な役割を果たすようになった。
ターリンとルグズの仲も良く、狩猟の合間や仕事が終わった後には、よく酒場で互いの愚痴を語り合う。ときには猟の話、ときには個人的な悩み――どんな話題でも分かち合える、気の置けない友人同士だった。
「今日は、ハルくんがいるから、森の奥までは行かないようにしよう」
デルンがターリンとルグズを交互に見て言う。
「はい。では、キシウ深部より手前六百メートルまでにしましょうか」
「うん。そうしよう」
ルグズは背負っていた荷から地図を取り出し、近くの切り株の上に広げた。地図には、キシウの森の全貌が描かれているわけではない。
その深奥部は未だに解明されておらず、古木が生い茂る暗闇の中では、足を踏み入れる者も限られていた。森の奥深くに行くほどに陽光が届かず、昼間でも薄暗くなるため、調査が進まずにいるのだ。
地図の端にある未踏の区域を指でなぞりながら、ルグズは慎重な表情で次の行き先を考えていた。
「取り敢えず、今日は、ヤギを狩ろうか」
「ええ、そうしましょう」
三人は木陰に腰を下ろし、今日の作戦を練った。
デルンがギヤをおびき寄せるため、ディードの実をすり潰し、その甘い液体を木の幹に塗ることにした。この液体の香りはギヤを引き寄せる効果があり、木に近づいてきたところをルグズが撃つ手筈だ。
ターリンはその間、見張り役を務める予定で、万が一ギヤが暴れたり逃げたりした場合に備える。準備を終えた三人は、それぞれの持ち場に散り、静かにその瞬間を待った。
「ねね、ヤギってどんなの?」
隣のハルがターリンの背中をトントンと叩いて訊いてきた。
「これだよ」
デルンは背負った荷から一冊の子ども用図鑑を取り出すと、ハルに見せながらヤギの写真を指差した。
猟の対象となるヤギに似た姿をしたその動物について、簡単に説明するつもりだったが、図鑑のおかげでその手間が省ける。ありがたいことだ、とターリンは内心感謝した。
この頃のハルは驚くほど好奇心旺盛で、気になることがあれば昼夜を問わず質問攻めにする癖があった。食事中だろうが寝ている最中だろうが容赦がない。
その無邪気さに愛おしさを感じる一方で、ターリンは少し疲れ気味だった。今回の猟に同行させるのも、その尽きることのない質問攻めから少しでも解放されたいという思いがあったことは否めない。
デルンが図鑑をハルに渡すと、ハルは熱心にページをめくり始めた。
その間に、三人は素早く作戦会議を進める。既に決めていた計画を再確認し、それぞれの役割を明確にする。ルグズは獲物を撃つ役、デルンは周囲の安全確認と後方支援、ターリンはハルの保護を担当することになった。
作戦がまとまると、三人はそれぞれのポジションに移動し始める。ターリンはハルを抱き上げると、慎重に進むデルンとルグズの後ろをついていく。深い森の中、葉を擦る風音と遠くで響く鳥の声が、緊張感をさらに高めていた。ターリンの胸には、この期に及んでまだ迷いが残っていた。こんな幼い子どもに、動物の命が奪われる瞬間を見せてよいのだろうか。自然の摂理とはいえ、それを理解するには早すぎるのではないか、と。
そんな逡巡を振り払うように、予定通りヤギが姿を現した。森の奥からゆっくりと現れたその影は、警戒心を持ちながらも、目の前に置かれたディードの実に惹かれているのが明らかだった。
三人の息を飲むような緊張感の中、ルグズは迷うことなく銃口を向けた。そして――バンッ!という乾いた銃声が森に響き渡った。
ターリンは即座にハルの耳を手で押さえ、銃声の大きさに驚いて泣き出さないよう気を配った。
しかし、ハルは驚くどころか、じっと撃たれたヤギの姿を見つめていた。銃弾を受けたヤギはその場に崩れ落ち、ディードの実を散らしながら地面に沈む。
デルンは手際よく倒れたヤギの体を検分し始めた。弾がしっかり急所に命中していることを確認するためだ。その横でルグズが駆け寄り、傷や処理の手順を素早くチェックする。ターリンはハルの腕を引きながら、ゆっくりとその場に近づいていった。
ハルにとって、間近で死体を見るのは初めての経験だろう。恐怖で泣き叫ぶかもしれないと覚悟していたターリンだったが、ハルは目を大きく見開き、その体をじっと見つめていた。
射抜かれた傷口、動かなくなった四肢、そして静まり返るヤギの姿に、怯える様子は一切ない。ただ、純粋な興味と戸惑いを抱えた瞳で、何かを理解しようとするように見える。
ターリンは、ハルのその無垢な反応に言葉を失った。動物の命の重さ、狩猟という行為の意味――これらをどのように説明すればいいのか、思い悩みながらも、ハルの小さな肩に手を置く。
そのとき、ハルがぽつりとつぶやいた。
「これが、命が終わるってことなの?」
その問いかけに、大人たちはしばし沈黙した。森の静寂の中、ハルの声だけが風に溶けて消えていった。
そして、こんなことを聞いてきた。
「このギヤさんは、産まれ変わるの?」
まだ幼いハルが産まれ変わるなどと神話めいた言葉を口にしたことに、三人は思わず目を見合わせた。
その小さな体に秘められた不思議な感性に、驚きと戸惑いが入り混じる視線を向けるのだった。
「そうだな。すぐにお星様になって、何に産まれてくるかを選んでるんだよ」
デルンが、しばらく考え、そう言った。
「へー、そうなんだ。立派に生きたんだ」
「ああ。ありがたくいただこう」
三人で三輪の台車にヤギを乗せ、村まで戻る。ハルは歩きながら図鑑を眺めている。
「読みながら歩いていると危ないぞ」
「うん。じゃあ、あとこのページだけ」
辺りはすでに薄暗くなり、西の空が茜色に染まり始めていた。空では無数の鳥たちが巣を目指し、列をなして飛び交っている。森の静けさの中に響く羽音は、どこか物悲しくも力強い。
村に辿り着く頃には、陽はほとんど地平線の彼方に消え、夜の帳が降り始めていた。家々の窓から漏れる明かりが、かすかに村道を照らしている。猟を終えた三人とハルは、無言のままそれぞれの家へと帰っていった。
それからというもの、ハルは猟に同行することが習慣になった。初めての猟で見せた鋭い観察力は変わらず、撃つ瞬間や倒れたギヤの様子をじっと見つめる。その姿は幼さを感じさせないほど真剣で、大人たちも時折言葉を失うほどだった。
彼が何を見て、何を感じ取っているのか、それはまだ誰にもわからない。
ただ、ハルの中で何かが少しずつ形作られていることだけは確かだった。
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