第2話

「これは、捻挫だね」


 独特な薬品の匂いが漂う病室で、俺は医者の言葉に頷いた。予想通りの診断結果だったからだ。

 一週間後に念のため経過を見せに再訪することを告げられ、三十分も待ったのにわずか五分で診察が終わってしまった。処方された湿布も市販のものだ。

 しかし、診療代を含めてもドラッグストアで買うより安い。湿布の値段は案外馬鹿に出来ない。

 ライフハックと自分に言い聞かせるが、その実、病院に来たのは部活をサボるための口実でもある。ラケットを握れない部員は無限走り込みだ。


 診察室を出て、窓の外へ目を向ける。昨日とは打って変わって煮えつくような真夏日。辺りを木々が囲っているせいか、蝉の合唱がずっと響き続けている。

 アルミのサッシを眩い日差しが乱反射し、瞳の奥がきしきしと痛む。日光は身体に良いなんて言うけれど、実は有害だったりするんじゃないだろうか。こんな日に夕暮れまで走らされたら、確実にバイトに響く。今日は団体客が入っているから、一層体力は残しておきたいのだ。


 ガットの張り替えは……また今度にしよう。

 近場のスポーツショップは病院からほど遠い。それに土日は混み合うから余計に時間がかかってしまう。


「すんません、トイレってどこにありますか?」


 ちょうど通りかかった看護師に尋ねる。


「この階の反対側か、一つ上の階でしたら上がってすぐのところにありますよ」


 総合病院のフロアは広い。素直に階を跨ぐことにした。

 階段を登り、妙な違和感を覚える。診察室から廊下まで、昼白色の明かりで隅々まで照らされていた下の階とは打って変わって、一つ上の階は全体的に薄暗かった。病室らしき部屋が伺えるが、人の気配は分からない。

 もしかして、立ち入り禁止の場所だったりするのだろうか。

 

 しかし、よくよく全体を見渡すと、暗いのは階段を登ってすぐの西側だけのようだ。角を曲がると、先ほどまで見慣れた明るさが広がっていた。大方、蛍光灯が切れていたりするだけなのだろう。


 トイレは一番暗い突き当りにあった。足元灯のぼんやりとした優しい光を辿る。病院ということもあってか、ちょっと不気味だ。


「……あれ?」


 ドアにつけられた曇りガラス越しに電気が自動でついていることが分かる。しかし、隣の女子トイレのガラス窓は暗がりに覆われていた。

 電球切らしすぎだろ、と手を洗いながら心の中で独り言ちる。

 トイレを出ると、目の前の病室のドアが微かに開いていることに気が付いた。隙間から見える室内は廊下と同じく暗灰色に包まれている。

 空き部屋と思ったが、よく見ると『雲母』という表札がかかっていた。


「うんぼ……?」


 見たことのない珍しい苗字に思わず声に出して呟く。『佐藤さとう』というごく平凡な自分の苗字とは大違いだ。


「――きらら、と読みます」


 不意にドアの向こうから声が聞こえて思わず飛び跳ねる。同時にやらかしたという、間違っているような、合っているような、複雑な罪悪感が滲んだ。

 気まずいことこの上ない。

 いっそ、このまま立ち去ってしまおうか。

 しかし、もう遅かった。僅かに開いた隙間から、暗がりでも分かる透き通った黒色の瞳が浮かび上がった。

 一歩後ずさり、慌てて視線を彷徨わせる。

 とにかく返答をしなければ。でも、一体何を……。


「あー、なんつーか……。その、珍しい苗字だなって」


 焦ると頭の後ろを掻く癖はもう一生治りそうもない。ガシガシと自分だけに伝わる音に、幾分落ち着いた。


「よく言われます。――あなたは?」


 声からして女性、それも年が近そうに思える。少なくとも大人ということは無さそうだった。


「……佐藤日影ひかげ


「え?」


「……ん?」


 妙な沈黙にようやく苗字を訊かれたのだと気が付く。

 耳の先が熱くなるのが分かった。そりゃ、名前まで律義に名乗ったのだ。そういう反応が返ってきてもおかしくない。

 ややあって、浮かぶ瞳が垂れ細くなる。


「ふふっ、雲母蛍琉ほたる。十五歳です」


 年齢まで追加で語ったのは、この少女のいたずらごころだろうか。何にせよ、返す言葉に戸惑った。というか、今さらだがどうして見ず知らずの人と会話しているのだろう。

 突然、ドアがガラッと開く。

 そこにいたのは俺の顎先にも満たない小柄な少女だった。暗闇に浮かび上がる服装はセパレート型の患者衣で、紛れもなくこの病室の主であることを示している。長い黒髪が背中に流れ、整った鼻筋と小さな唇がぼんやりと伺えた。


 一歩引くように斜めにした身体は、どうやら俺を室内へ招いているらしい。


「どうぞ、入ってください。暗いところですけれど」


「えっ……あ、いや、俺は別に」


「いいえ、そう言わず暇つぶしに付き合ってください」


 彼女の手が俺の腕を掴む。足元灯に照らされた彼女の腕は細く、白磁に染まっていた。日に焼けた自分の腕と比べると、その白さが余計に際立って見える。

 ぐいっと引っ張る力は随分と非力だ。抵抗しようと思えば簡単に出来たけれど、苗字を読み間違えた罪悪感が俺の足を室内に運び込む。


 病室内は一言で表すと、暗かった。それは入る前から分かっていたことだけど、彼女がドアを閉めると一層、闇が深まった。ほとんど何も見えない。大まかな広さすら把握できなかった。

 彼女の手がすっと離れる。そのまま、目の前の彼女すらも暗闇に溶け込んでしまった。

 ぞわっと背筋を冷ややかな気配が駆け抜ける。もしかして、怪談にでも巻き込まれたのだろうか。そんな馬鹿げた思考がよぎる。


「すみません、今明かりをつけますね」


 離れた位置で彼女の声が聞こえてきた。ほぼ同時に、ぼんやりとした柔らかな温白色の明かりが点る。卓上の小さなサイドランプだった。

 ようやく、室内の景色が薄く映る。リクライニング式のベッドが一つ、その横にぬいぐるみやら花瓶が置かれた床頭台。明かりを放つランプは窓際の一番離れた位置に置かれていた。壁にはよく見えないが、何やら額縁や紙が貼り飾られており、生活感を覚える。

 至って一般的な一人部屋の病室。しかし、とてつもない違和感がある。

 まず、カーテンが無いのにも関わらず、陽光が一切射し込まない。窓に雨風を避けるためのシャッターが下りているせいだ。それに、ベッドが入口付近にあることもおかしい。普通、窓際じゃないのだろうか。


「何も無いですけれど、どうぞ座ってください」


 そう言い、彼女は丸椅子をベッドの下から取り出す。促されるまま置かれた椅子に腰を掛けると、彼女は満足したようにベッドに座り、壁に背を預けた。

 奇妙な沈黙が互いの間に流れる。暇つぶしに付き合えと言われても、何を話せばいいのだろうか。そもそも、この部屋の明らかな違和感を訪ねても良いのかすら分からないでいた。


「なんだか照れますね」


 彼女がおずおずと前髪をいじる。


「いや、俺は普通に困惑している」


 だって、そうだろう。何だよ、この状況。


「ですよね。どう考えても変ですもん、この部屋」


 彼女はきっぱり言い放った。


「触れて大丈夫だったのかよ……」


「もちろんです。むしろ、疑問に思われなかったなら、すごくおかしな人です」


「そりゃ、変だなぁとは思ってたけど」


 彼女は何度か同調するように頷く。

 薄明りに照らされた彼女は、おそらく整った顔立ちをしている。というのも、俺には彼女の顔がうっすらとしか見えていないのだ。

 サイドランプは離れた位置にあるし、何より普通のランプに比べてとても光量が少ない。これまた電球が切れかかっているか、接触不良でも起こしているんじゃないかと思うくらいだ。だから、すぐそばの彼女の顔もぼんやりとしか伺えない。


「それでは、改めて雲母蛍琉といいます。学校に通っていれば、高校一年生です」


 随分と含みのある言い方だ。つまり、学校には行っていないのだろう。

 察するに、やっぱり何か病気でも患って入院していると考えるのが妥当。この病室はやけに生活感に溢れている。長いこと入院している証拠だ。


「……佐藤日影。高二」


「なんと、一つ違いでしたか。てっきり、大学生くらいかと思っていました」


「そりゃ、老けてるって言いたいのか」


 彼女はきょとんと目を丸くし、そして笑みを零した。


「違いますよ。背が高くて、ガタイが良かったもので。ペラペラな私とは大違いです」


 確かに身長は百八十ちょい。小柄な彼女からすれば、それなりに大きく見えるのだろう。


「それで、俺はあんたの何に付き合えばいいんだ? この後バイトなんだよ」


 と言っても、まだ三時間以上先の話だ。あっけなく彼女に手を引かれたのは、時間を潰すという意思もほんの少しだけあったりする。


「ここじゃ、お喋りくらいしか出来ませんから。それに同年代の方と話すのは久々なのです。よければ、そのバイトのお時間までお付き合いいただけませんか?」


 今一度、室内を見渡す。びっくりすることに電子機器の類が全く見当たらない。機械的なものが見えるとするならば、ベッド際の壁に埋め込まれたナースコールなどのボタン類、後はエアコンと空気清浄機だけだ。いわゆる、娯楽的なテレビやスマホなどは見える限りでは置かれていなかった。

 ここまで状況証拠が整っているのだ。彼女がどういう類の病気なのかは、何となく察しが付く。思い描く病に覚えはないけれど。


「まあ、別にそれくらいなら」


 彼女の表情が少し明るくなった気がした。


「ありがとうございます。断られたらどうしようかと思いました」


「……同情だよ」


「なんとストレートな表現ですね。では、可哀そうな私に、日影さんがどんなバイトをしているのか教えてください」


 小さく息が零れる。


「さんなんて付けなくていい。敬語だっていらない。先輩後輩でもあるまいし」


「そうですか、では日影くんも私のことは〝あんた〟ではなく、〝蛍琉〟と呼んでください」


 敬語は辞めないのかよ、と思ったがこういう喋り方なのだと一人結論付けることにした。

 それにしても、いきなり女性を名前で呼ぶのはハードルが高い。しかし、こと目の前の彼女に関しては、苗字で呼ぶ方が気恥ずかしさで勝る。


 ため息が漏れた。今日は何度幸せを逃がしたのかもう分からない。


「で、バイトだっけ? 別にただの居酒屋だよ。駅前にある海鮮居酒屋。知ってる?」


 意地悪な聞き方だったかもしれない。バイト先は二か月前にオープンしたばかりだ。入院生活の彼女が知っているとは到底思えない。


「んー、分からないです。でも、居酒屋でバイトってそれこそ大学生みたいですね。憧れます」


「そんな良いもんじゃない。酒くせぇし、他人のゲロぶちまけた便器洗うんだぞ?」


 彼女の眉間が少し狭まる。

 俺は他人との会話に気を使えるような人間じゃない。だから、早々にこの男との会話には何のメリットも無いと思ってくれるのなら、それでいい。


「それは……確かにお金を頂いて然るべきですね」


 しかし、意外なことに彼女は神妙な面持ちのまま、気にすることなく返した。箱入りかと思いきや、案外そうでもないらしい。

 ばつが悪くなり、俺は口を噤む。


「ところで、今日はどうして病院にいらしたんですか?」


「あんたは医者かよ」


「あんたじゃないですよ、


 なるほど。ほんの数分の会話で、彼女の性格の良さと悪さが同時に垣間見えた。しかし、調子は狂うが変に気を使われたり、取り繕われたりするくらいならこの方が話しやすい。


「……手首の捻挫。っていう建前の部活のサボり。痛ぇのは本当だけどな」


 無意識に右手首を擦ると、彼女の視線もつられて俺の手元に向かう。


「部活は何をなさって? ――あ、ちょっと待ってください。当ててみせます」


 そう言い、彼女は俺のつま先から頭の先まで、じっくり吟味するように眺めた。この薄暗い部屋で、今さら見返して分かることなんてあるのだろうか。


「うーん、そうですね。ひとまずスポーツなのは前提として――」


「おい、なんで運動部確定なんだよ」


「だって、日影くんが文化部って想像しただけでじわじわ来てしまうじゃないですか。その大きな身体でフルートとか吹いてるの想像してみてくださいよ」


 とんだ偏見だ。SNSなら炎上したって文句は言えないぞ。

 俺が言葉を失っていると、彼女は本当に頭の中に描いてしまったのか、可笑しそうに笑った。


「よし、性格がすこぶる悪いってことがよく分かった」


「誰がです?」


「だから、あ――」


「あ……?」


 彼女がずいっと身を乗り出す。近くなった距離にほんの少し心臓が鐘を打つ。


「……蛍琉が、だ」


 じっと俺を見つめる彼女は緩やかに笑顔をつくる。

 くそっ、宣言撤回。存分に気を使って、取り繕われた方が何倍もましだ。


 それからも彼女が質問をして、俺が返す。そんな質疑応答を繰り返す羽目になった。その間、俺は彼女について何かを訊くことは出来なかった。やっぱり何を訊こうにも、彼女の地雷を踏んでしまいそうで口に出せない。


 暗がりにすっかり目が慣れた頃、気が付けば壁に掛けられた時計が二時間以上進んでいた。


「そろそろ、俺バイトだから」


 話が途切れたタイミングで切り出す。本当、なんで会ったばかりの人とこんなに長いこと会話していたのだろうか。


「そうですか、名残惜しいです」


「そんな後ろ尾を引くようなこと喋ったつもりはねぇよ」


 だって、ほとんど世間話か俺への質問だったのだから。

 すると、彼女は小さく笑みを漏らす。


「そんなことないですよ。とても有意義な時間でした。バイト、頑張ってきてくださいね」


 律義に病室の外まで見送る彼女の瞳は、確かに寂しそうに見えた。

 病院を出て、そう言えば、と思いだす。あの場所だけ薄暗かったのも、女子トイレだけ自動照明が点いていなかったのも、後になって考えてみれば納得がいく。

 色んな人がいるんだな。そんな感想だけが浮かんだ。

 すっかり暗がりに慣れてしまった俺の目は、沈みゆく斜陽に細く鈍痛を感じた。



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