1章 何も見えない日常で

第1話

 昨年の夏は極めて暑く、長かった。そのせいか、今年の夏は梅雨を引きずったように湿っぽい日が多い。


 湿度が高いのは色々と困る。

 

 例えば、いつも以上に呼吸があがるのは早いし、汗が混じってへばりつくユニフォームにほんの少し気持ちが削がれる。

 まるで待ち構えたかのように、コートに入った途端しとしとと降り始めた霧雨は、いつしか雨粒が大きくなり始めていた。こんな日に限って、あいにくのクレーコート。つくづく、俺は貧乏くじを引き当てるのが上手いらしい。

 しかし、それは相手も同じこと。蛍光色のそれがいつもよりバウンドしないことも、水分を含んだ足場は踏ん張りが効きづらいことも、全部条件としては一緒だ。だから、インパクトの瞬間、わずかにビビッて力を入れ過ぎたことは言い訳にはならない。しかも、愚かなことに重心移動ではなく、肘から先だけをいつも以上に振り曲げた、正真正銘小手先によるものだ。

 降り注ぐ雨が横なぎにボールと一緒に打ち払われる。その弾道を見て、ようやく自分の悪手に自問する。

 ぬかるむ足下に走り出しが遅れたのなら、無理せず山なりのロブで返すべきだったのだ。どうして、ストロークを打ったのだろう。

 そんな自責の念を深める余裕があるくらい、放った強打は白線の外側へと大きく外れて着地した。


「ゲームセット、ウォンバイ 高城 6-2」


 審判が声と共に審判台から降りる。それが、終わりの合図だ。

 ようやく、雨音が耳に伝わる。次に隣のコートの打球音、薄れゆく歓声。最後に右手首が上げた微かな悲鳴だった。


「……ありがとうございました」


 白いネットを跨いだ相手と両脇の審判に形式じみた挨拶をして、ゆらりとコートを後にする。

 湿ったテニスバックからタオルを取り出し、顔を覆う。とにかく額に張り付いた前髪がうっとおしかったからだ。乱雑に拭うと帽子が邪魔で、外して足下に放る。


 いつからだろう。コートを出る時に紙の一枚を持っていなくなったのは。その足で運営の元に報告へ行く必要が無くなったのは。

 悔しいとは思う。試合に負けて何も思わない奴がいるわけない。ただ、昔よりもだいぶ薄れてしまった。そればかりか、仕方がないとすら思う始末。


「先輩、お疲れさまっす!」


 コートを出てすぐに、溌剌な声と共に傘が頭上を覆う。


「あぁ……サンキュー」


 自分よりも少しだけ背の低い後輩から傘を受け取る。雨脚が強まる中、そそくさと撤収した部員に紛れず、独り律義に待っていてくれた笠木かさぎには悪いが、今は傘を差すことすら気怠い。どうせ帽子からシューズの中までびしょ濡れなのだから、今さらとも思う。


「いやー、惜しかったっすね。雨が降るなんてついてないっす。序盤は押してたのに、最後の方はボールが弾まなくなってたから、先輩のキレッキレな伸びのあるストロークが機能しづらくなってたし」


「……まあ、しゃーねーわな」


 正直、かなりどうでも良かった。そんなことより、濡れたままのユニフォームを早く着替えたい。

 冷静に分析するくせに、きっと笠木は俺が相手よりも単純に弱かったから負けたとは考えないのだろう。

 笠木はいつもそうだ。小学生の時から同じテニススクールで、いつだって俺のことを盲目的に慕ってくれている。テニススクールを辞めた後、別々の中学に進学しても大会や練習試合で見かける度に、いつも目を輝かせて近寄って来た。


「あれ、先輩のお父さんじゃないですか?」


 笠木が指さす方向を一瞥し、ため息をつく。


「いいよ、別に。お前は今日はもう試合無いんだろ? さっさと帰ろーぜ」


「いいえ、そうはいきませんよ。やっぱり挨拶しないと」


 そう言い、笠木はくるっと方向転換した。

 どうして、こうも律義なのだろう。

 渋々、彼の後を遅れてついていく。毎回、この気まずい時間が嫌いだった。


「こんにちはーっす! お久しぶりです!」


 猫背の男性はもちろん、こちらを見ていた。浅くかけていた傘を少し上げ、笠木に軽く会釈をする。それに合わせて笠木が帽子を外し、一段と深く頭を下げた。


「笠木くん、こんにちは。相変わらず元気がいいね」


「はい! それだけが取り柄なんで!」


 それだけなもんか。まだ一年だというのに、笠木は順調に勝ち続けて駒を進めている。こんな地区大会の三回戦で負けるような俺とは違う。

 男性が俺へと向き直る。くたびれた服に、年齢にしては深い皺。あかぎれの目立つ手はいつ見ても痛々しい。


「お疲れさま」


 たったの一言。毎回同じ言葉をかけられる。試合の勝敗やプレーについての言及はなく、ただいつもその言葉で労われた。

 向けられる眼差しを、俺は素直に見れない。


「来なくていいって言っただろ」


 結局、俺もいつもと同じ言葉を吐き捨てた。


「……今日はどうする」


 親父の取り出した車のキーがチャリっと音を立てる。


「こいつとバスで帰るからいい。飯も食ってくる」


 あ、ガット拭き忘れた。

 小さく育った水溜まりを眺めて、ふと思いだした。張りが弱くなると、交換しなくてはいけないから面倒だ。


「そうか。じゃあ、コレ」


 差し出された千円札をしばし眺め、俺は受け取った。

 こうでもしないと、親父は笠木に金を預ける。そうなると、親父よりも笠木の方が面倒だ。正義感の強い笠木は、何が何でも親父の意向をくみ取って俺を逃がさない。こういう時だけ、笠木は俺の味方をしてはくれないのだ。


「だりぃ……」


 小さな背中が遠ざかっていくのを見ながら、気が付けば呟いていた。


「何がっすか?」


 全部だよ。


「……なんでもねぇよ」


 あー、だっせぇなぁ……。

 伸ばした右手首がズキズキと痛む。気のせいじゃなかった。



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