第4話 回想と真実
(ああ、疲れた。ま、あの陰険皇子から一本取ってやったのは、ちょっと痛快だったけど)
きつい締めつけから自由になった胸を揺らして、レイリアはバスタブにザブンと身体を沈めた。
オレンジ色のお湯からほんのりと立ち昇るリンデンの香り。
アンジェはレイリアの一番好きなオレンジリンデンのバスソルトを入れておいてくれたらしい。お湯の温度も、まさにレイリア好み。やや熱めの41度前後。
ビリっとした感覚に胸元に目をやる。
剣先がかすったのだろうか?
胸の見事な双丘の手前から右の肩口にかけて、白い肌に一筋赤い線が走っていた。
血がにじんでいる程度で、たいして深い傷ではない。
手足をバスタブの中でゆっくりと伸ばしてみる。
(やっぱり、あちこち痛むなあ。特に太ももと腕。あいつバカ力だったから)
打ち身は何か所かあるようだ。明日には青あざになっているだろう。
やせ我慢せずに、医務室へ寄ってくるべきだったかも。
いや、そんなことをしたら、帰るのがもっと遅くなったはず。アンジェに心配をかけてしまっただろう。
切り傷だけでも処置しておくか。
レイリアは右手を湯から出すと、傷にかざして『力』を籠める。
淡く掌が光ると、ミミズばれは跡形もなく消え失せた。
レイリアはほんのごくわずかだが
(アンジェに、怪我が気づかれなくてよかった)
アンジェは通常は優しいいい子だ。が、時々、とても口うるさいのだ。
レイリアが傷を負って帰宅した時なんかは。
騎士であり、護衛の任務に就いている以上、傷くらい日常茶飯事なのに。
まあ、誰かに心配してもらうのは、悪い気分ではない。大騒ぎしてくれるのも、ほんのちょっぴり嬉しかったりする。
レイリアは、今、レイリアのために一生懸命御馳走を作ってくれている同居人のことを思って頬を緩めた。
もう2年。それともまだ2年なのだろうか?
殿下の母君の故郷が大きな地震に襲われたあの日から。
殿下からの『
何かに呼ばれるように建物の中を探ってみつけた、瓦礫に埋もれた地下への階段。
なぜだかわからない。が、その時、急にその先に行かなければならない気がした。
恐る恐る辿った先で、見つけたのは、小さな部屋の大きな祭壇。
そして祭壇に供物のように横たえられたやせ衰えた少年。
聖職者の衣装に似た見慣れない型の白いチェニックに包まれた小さな身体は、最初、作り者に見えた。。
そして、蝋細工の天使を思わせる白い顔。
あれは何だったのだろう?
一目見て感じた既視感。
会ったことはないはずなのに、沸き上がって来た切ないほどの懐かしさ。
『アンジェ』
唐突に一つの名前が脳裏に浮かんだ。
助けなくてはならないと思った。どんなことをしてでも。
熱が感じられない身体を必死に摩って温め、冷たい唇に己の唇を重ねて人工呼吸を施した。何度も何度も。
息を吹き返してくれた時、安堵のあまり涙が出たのを覚えている。
ぼんやりと開かれた何の意思も伺えない琥珀色の瞳。ぴくりともしないか細い四肢。衣服の上からでもわかるやせ衰えた身体。
何を言っても反応がなかった。言葉がまるで分らないように思えた。
どう見ても訳ありの、けれど、とびっきりの美少年。
放っておくこともできずに、帝都へこっそりと連れ帰ったのだが…。
秘密裏に預かってほしいとの殿下の依頼を、二つ返事で引き受けてしまった。身元が判明するまでは、暫定的にだが。
発見したのは自分。だから、当然、保護と監視を兼ねて自分が責任を持って世話するべきだから。
断じて、邪な気持ちではない。
(このまま、記憶が戻らなかったら、父上に頼んで養子にしてもらうって手もありかも)
思い返せば、レイリアはずっと可愛らしい弟か妹が欲しかった。
レイリアの実家のローム子爵家。
数代前の戦功により北部の田園地帯に領地を賜ったローム家は、貴族としては新参者。剣の才に恵まれた者が多く、一族には騎士として王家や高位貴族に仕える者も多い。代々の当主は、地方貴族というよりは、有事には自ら剣を取って戦う武人で、直系すべてに、男女関係なく、当たり前のように剣技を学ばせてきた。
レイリアは兄2人の後に生まれた唯一の娘。母は3歳の時に流行り病で亡くなったため、ほとんど記憶にないが、かなりの剣の使い手であったと聞く。もともと王家に仕える騎士団の一員であった入り婿の父は、母の死後、領主としての役割はそれなりに果たしていたが、実直そのものの騎士道の塊のような御仁だ。
両親の武の才能を確実に継いでいたレイリアは、剣一筋の兄たちや従弟たちにもまれて育ち、いわゆる貴族の子女らしきことはほとんどさせてもらえなかった。
本当は、可愛いものが大好きな普通の女の子だったのに。
それでも・・・。
レイリアだって、少女らしく恋はしたのだ。少しでも好かれたくて、おしゃれをして、告白して・・・玉砕した。
苦い失恋の経験が、彼女をひどい男嫌いにし、無表情の仮面をかぶらないと人との付き合いができないコミュ障にしてしまった。
その反動だろうか?
見かけからは想像もつかないほど、異常なまでの可愛いもの好きが高じたのが現状。
どうせ仕えるなら、愛らしさが噂になるほどの第三皇子にと、王都まで出てきて護衛騎士になってしまったほど。
自分はツイていたのだと思う。
父の昔の
時には、今日みたいな突発案件もあるけど、結構な高給取りだし、何よりも毎日あの天使のようなアレク殿下のご尊顔がおがめる。
(あまり長風呂していたら、せっかくのシチューが煮詰まっちゃう。それにパイも。アンジェの料理は最高なんだよね)
のんびりと湯を堪能してから、身体を洗おうと、レイリアは湯船から立ち上がった。
* * * * *
「レイリア・ローム殿はご在宅か?」
ノッカーの音に、アンジェは料理の仕上げをする手を止めた。
「ローム殿!レイリア・ローム殿はご在宅が?」
再び鳴り響くドアノッカーに舌打ちすると、つま先立ちになって扉の小さな覗き窓を開けた。
「どなたですか?」
精悍な顔立ちの黒髪黒目の男が目を瞬かかせるのが見えた。
「もしかして住所を聞き間違ったかな?第三皇子殿下の筆頭護衛騎士、レイリア・ローム殿のご自宅だと思ったのだが」
「レイリアは姉ですが。どなたです?」
愛想の欠片もない表情で、アンジェは男に問いかけた。
人前では姉弟で通すように、レイリアにきつく言われているのだ。
「弟御か。これは失礼した。私は王室騎士団所属のエドワード・エクセル。あやしいものではない。姉君に取り次いでもらえないだろうか?今日の御前試合で審判を務めた者だと言えばわかるはずだ」
気にした様子もなく、男がにこやかに言った。
「御前試合?」
「見事な勝利だった。必要ないとは思うが、念のため、傷薬と軟膏を預かって来たのだが…」
眉を顰めアて首を傾げたンジェに気づいたのか、言葉が途切れた。
「もしかして、姉君は試合のことは何も言われなかったのか?」
「薬はお預かりします。そこに置いておいてください。姉は今入浴中ですので。申し訳ありませんが、知らない人は家に入れないように言われているんです」
「このまま待たせてもらうので、ぜひ、一言・・・」
「姉に伝えておきます。では」
アンジェは、何か言いかけている男を完全無視して、覗き窓を閉じた。
再びなったドアノッカーも聞かないふりをする。
台所に戻り、床でのんびりと毛づくろいをしている赤茶の猫に視線を落とす。
「おい、パファビッド、今日はお前に監視を任せていたはずだが?」
「その通りだ、
「お前、今日もいつも通りだったって報告したよな?御前試合とは何のことだ?」
「あの女が誰かともめるのは、いつも通り、だろ?」
平然と答えてアクビをした赤茶猫のしっぽを、アンジェは思いっきり踏みつけた。
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