第3話 古の伝説
『魔王ダクデモス』
畏敬をもって囁かれたその名も、不死なる魔人のその姿も、覚えている者はもはやこの地にはほとんどいない。
はるか昔、異界の扉を開いて訪れた、この地を恐怖に陥れた侵略者。その存在は、王家に伝わる古文書にほんの数行記されているのみ。
「数多の魔を引き連れ、次元の壁を破ってこの地に君臨した魔の王は、古の神々に導かれた『勇者』、『聖女』『大賢者』の三聖人にうち滅ぼされ、罪なき場に封じられた」と。
世界の命運をかけた戦いのわりにはあまりにも少ない、事務的な記述だ。
あたかも故意に何かを伏せようとしたかのように。
まあ、それも仕方ないのかもしれない。
魔王を滅したのち、新たな、さらに厄介な敵が現れたのだから。
古文書によると、その者の名は『破壊の魔女マータ』。あるいは『狂える黒き聖母』。
疲弊しきっていた国々は、勝利に酔う暇もなく、復興も不十分なまま。
新たな脅威に立ち向かう力などなかった。
三聖人もまたしかり。
どこからともなく現れた『狂える魔女』は、魔王が消えた後、魔物たちを支配し、魔王が人々に撒いた争いの種を育て、この世界そのものを、人類すべてを滅ぼそうとした。
生き残った人々は3聖人の指揮の元、すべての力を振り絞り、なんとか、魔女の信仰をくい止めた。
最終的に、『大賢者』が自らを犠牲にして、魔女を時空のかなたに追いやったと、古文書は伝えている。
そして、最後に古文書は語る。 『大賢者』の最後の予言を。
「2000年の時を隔てて、扉は開き、魔は再び現れる。途絶えた後に蘇りし我が血脈の印を探せ。『闇を封じし宿命の子』と『勇者』と『聖女』の末裔が世界の行方を定めるだろう」
『古文書』を保管しているのは、最古の大国「ローデシア帝国」。その皇家こそが『勇者』の血を受け継ぐ一族。
『聖女』は、最後の聖戦の後、大陸最大の宗教である『大いなる教会』の礎を築いたと言われる。その証拠か、彼女の血を引くと称する現教皇一族は例外なく強い聖力を持っている。
『大賢者』の血族の行方は、杳としてわからない。
* * * * *
「魔王ダクテモス、意思を持つ闇の力、肉体を持たぬ孤高の存在よ。何者をも汝を滅ぼすことはできぬ。ゆえに我は、哀れな汝に器を与えよう」
忌々しいあの声。
古の神の末裔を名乗る『
魔界と呼ばれる別次元で偶発的に誕生したエネルギー生命体。
定まった血肉を持たない彼は、魔界においても、この地においても、唯一無二の、何事にも縛られない最強の存在であった。
形ある肉の制約を受けないゆえに、一瞬ですべてを
自らは
それは彼の中の何かを動かし、虚無を紛らし、変化をもたらしてくれたので。
魔界に棲むものたちを力でねじ伏せ、支配するのに飽きると、別次元の壁をこじ開けて、その先へ手を伸ばしてみた。
そして見つけたのだ。
力こそがすべてである故郷とは全く違う、変化し続ける、色鮮やかなこの世界を。
魔物とは比べようがないほど脆弱なのに繁殖力に富む様々な形態の生命。
彼らを捉えて服従させ、彼らで遊ぶのは、新鮮で面白かった。
特に自分が来るまではこの地を支配していたらしい『人間たち』の反応は、興味深かった。
ある者は彼を新たな神と仰ぎ、贄を供え、崇め敬った。また、ある者は彼を悪魔と呼び、嫌悪し、抗い続けた。
人間が己を認識しやすいように、彼は戯れに一人の人間の形を写し取った。自ら『魔王ダクデモス』と名乗って、人間たちを真似て、4この世界を支配するゲームに興じた。
古の神の使いを名乗る『勇者』たちの一行が彼の王国を壊滅させ、彼を封じ込めるまで。
敗北の瞬間はあまり覚えていない。
勇者の振るう『光の剣』が、切れるはずがない彼の仮初の肉体を切り刻み、感じるはずがない『痛み』を彼に味わわせたこと以外は。
肉の擬態を解き、本来のエネルギー体に戻ろうとした時、あの声がして、彼の存在そのものが、強烈な光に絡みとられて逃げ場を失い…。
それから…
労せずとも常に把握していた周囲の情報が消え失せ、訪れたのは、経験したことがない完全な静寂。
どこかに、何かに、封じられたのだとわかった。どんなに出ようとあがいても決して出られない闇、彼が属する闇とは異なる静かな闇に。
彼は初めて認識した。おそらく怒りを、恐怖と呼ばれる感情を。他者から切り離される完全な孤独を。
外に出たい。自分以外何も存在しない
彼は強烈に願った。
長い、長い、永遠に続くかと思われる止まった時間の中で。
* * * * *
解放は突然にやってきた。
まず感じたのは、やんわりと染み入る『温かさ』。それから、音。
「頑張って!お願い、息をして!」
何かが、誰かが必死に叫んでいた。
『胸部』に規則的に加えられる圧力。『唇』に触れた柔らかな感触とともに凍てつく『肺』に空気が吹き込まれた。
ゲッハ。ゴホゴホ。
内から何かがこみあげ、彼はひどい苦痛とともに大きく息を吐きだした。
ハアハアハア
荒い呼吸音が響いていた。おそらく彼自身の中から。
「よかった。もう大丈夫」
動き出した『周囲』を探ろうと試みて、彼は驚愕した。
力が、魔の王と呼ばれた能力が一切使えない。
感じるのは、彼の存在を内包している『肉』の感覚だけだ。
微かに残る肉の『記憶』に導かれて、身体の一部、瞼を開いてみた。
最初に映ったのは、人間の顔だった。
薄青の瞳に青銀の髪の、おそらくメス、女だ。
お前は誰だ…私は…
思考がはっきりと形を成す前に彼の意識は再び無に飲まれた。
廃墟と化した教会で『彼』を発見したらしい人間。
当初言葉も発することができなかった『彼』を引き取って臨時的に保護者になった女。
それが、レイリア・ロームだった。
目覚めてすぐに、力がほとんど使えない事を、自分がこの『
しばらくは『血肉でできた体』を操るのに苦労した。
目で見て、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、手で触れる。口でエネルギーの元を咀嚼し、飲み込んで体内に取り込まなくてはならない。移動するにも、いちいち肉体を動かさなくてはならない。
最初はあまりの不便さに戸惑ったが、それにもなんとか慣れた。元の持ち主の知識のおかげか、不自然でない程度には言葉を話すこともできるようになった。
正体を隠したまま、手厚い看護を受け、自分の現状を把握し、どうにか動けるようになっていくうちに、彼は
少なくとも、本来の
まずは、この
手掛かりになりそうなのは、目覚めてまもなく発見した心臓の真上にある奇妙な印。
どうやってもこの身体から離れられないのは、これのせいだと本能的に感じる。
蒼白い皮膚に刻まれているのは、双頭の蛇の形の印。
触わると、他の部分よりもほんのりと暖かい。奇妙な魔力の流れまで感じる。なのに、触れている感覚が全くしないのだ。
まるで皮膚に住みついた別の生き物のように。
自由になるには、この異質な封印術を紐解かなくては。
そのためには、時間が要る。
現状を把握し、少しでも魔力の回復の糸口を探さなくては。
同化している以上、この肉体を最良の状態に保つことも大切になる。
人間の身体は、彼の本体のように、生体エネルギーを直接吸収することはできない。生きるためには、飲食物を口から摂取しなくてはならない。老廃物を身体から排出しなくてはならない。
こんな脆弱な幼体では、不本意だが、守り、養ってくれる他者が必要だ。
改めて考えてみる。
自分の世話をしているレイリアという人間の女。彼女はそれなりに強いように思える。王宮に努めているらしいので、衣食住には困らない。案外と情に厚いから、哀れな子どもを見捨てはしないだろう。
おまけに、邪魔になりそうな伴侶はいない。親戚も傍にいない一人暮らし。
ともに過ごすうちに、彼女がどんな人物かはある程度理解できた。
記憶喪失の少年が頼りにするには、うってつけだ。
それに、彼がこの身体の中で目覚めたあの時、確かにこの女から感じたエネルギー…。
あれのおかげで、この身体を動かせるようになったのかもしれない。その正体を見極め、必要ならば、利用しなくては。
冷静にそう結論を下すと、鏡に映る自分の姿をじっくりと眺める。
やや癖のある金色の巻き毛に長いまつ毛に縁どられ琥珀色の大きな瞳。明らかに保護を必要とする未熟な身体。
レイリアによると、『超かわいい』男の子。
上手く使えば、人間たちの保護欲とやらを擽るのに役立ちそうだ。
人間の真似をするのは、それなりに得意だ。
この肉体の元々の持ち主の意識は感じられないが、その知識の片鱗は残っている。どうやら一般的な常識程度のようだが。
多少、
そう。多少、合わせてやって、都合よく使ってやるつもりだったのだ、魔王は。
物珍しさもあって始めた料理、洗濯、お掃除、いわゆる家事に、あろうことか、彼は完全に
2000年の時を隔ててよみがえった魔人にとって、人間たちの生業は、身体を使って生活すること自体が、新鮮で物珍しく刺激的で…面白かった。。
時にはどうしようもなく不便でイラつくこともあったが。
期せずして、魔王は、傍らの人間との関わることで、胸に広がる何とも言えない『感じ』を、心地よく思い始めていた。
彼自身は気づいてはいなかったが。
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