第9話 空欄のまま

「起こしてくれれば良かったのに。」

 村岡は先に起きて本を読んでいた奈江の頬に、顔を寄せた。

「昨日は夢を見なかったのか?」

「うん。よく眠った。」

「そっか、それなら良かった。」

 奈江の読んでいた本を枕元に置くと、村岡は奈江を自分に寄せた。

「良くないよ。」

 奈江は村岡から離れると、

「村岡くん、勝手にここ、外したでしょう?」

 そう言って背中を指差した。

「だって、その方が楽になるかと思って。」

「私、村岡くんの家族じゃないよ。彼女でもないし。そんな気を使わないで。」

 こんなに近くで怒っている奈江を見て、村岡はなぜか嬉しかった。

「じゃあ松下は、家族でも彼氏でもない男の家で寝てるのかよ。」

「それは…、」

 言い返す事のできない奈江は、急に小さくなった。

「松下、答えなんていらないよ。空欄のままでいいから。」

 奈江は少し考えて、また本を読み始めた。 

「今日は休みなんだろう。映画でも見に行くか?」

「行かない。」

 奈江は起き上がった。

「薬飲まないと。」

 カバンから薬を出していると、

「ほら、水。」

 村岡はコップいれた水を奈江に渡した。

「ありがとう。」

 奈江は村岡からコップを受け取ると、薬を口に入れ、ゴクンと飲んだ。薬がなかなか落ちていかない気がして、胸をトントンと叩いた。

「大丈夫か?」

「うん。」

「松下。」

 村岡は奈江を後ろから抱きしめた。

「村岡くんって意外とベタベタするんだね。難しい事ばっかり言ってる変わった人だと思っていたのに。」

「松下の近くには、いつも誰かいただろう。話したくても、なかなか話せなかった。やっとこうして、2人で話せると思ったら、少しでも近くにいたいんだよ。」

 村岡は息がかかるほど、奈江に近づいた。

「2人で話ししてると、よく笑われたよね。」

 奈江はそう言った。

「だから余計に話せなかったんだ。松下に迷惑かかると思ったからさ。」

「村岡くん、帰ってもいい?」

「えっ、嘘だろ!」

 村岡は驚いて、正面を向いて奈江の肩を掴んだ。奈江は少し痛そうな顔をした。

「ごめん、つい。」

「着替えて待ち合わせしよう。ちょっとだけ、ついてきてほしいところがあるの。」

 

 2人はショッピングモールで待ち合わせた。

「何買うんだ?」

「鏡。」

「鏡なら、この前持ってただろう。」

「あれは持ち主の所へ戻ったの。」

「松下が貰ったんじゃなかったのか?」

「うん。」

 奈江は手鏡を選んでいた。

「いろんなのがあるんだね。」

「そうだな。」

 村岡は桜が掘られている朱色の鏡を手に取った。

「きれいだね、それ。」

 村岡がひっくり返すと、奈江の顔が映った。

「プレゼントしようか?」

 奈江はその鏡を手に取ると、

「自分の事だから。」

 そう言ってレジへむかった。

「自分の事ってどういう事だよ。」

 村岡は奈江の後ろについてきた。

「枕の下に鏡を置いて寝ると、魔除けになるんだって。もう、怖いものは寄ってこない。」

 村岡は奈江の手から鏡を取ると、レジへむかった。

「返して、私のものだから。」

 奈江が財布を出すと、店員は困った顔をした。

「ほら、後ろで待ってろ。」

 村岡はきれいに包まれた箱を奈江を渡した。

「村岡くん、ありがとう。」

「腹減った。松下、なんか奢れよ。」


 駐車場に向かう途中、ケタケタと笑いながら走っている子供が、アスファルトの上で転んだ。近くを通った中年の女性が子供を立ち上げさせると、大声で泣き叫ぶ子供に気づいた両親は、慌てて子供の前にやってきた。

 ヒステリックに子供を叱る母親の腕には、赤ちゃんが抱かれている。母親の声に驚いた中年女性がその場を後にすると、父親は泣いている子供を抱っこした。


 見覚えのあるその背中は、奈江の元夫だった。

 子供、いたんだ。


 奈江と目が合うと、元夫避けるようにその場を去っていった。自由になったはずなのに、いろんなものがあの人を縛り付けている。

 奈江は左肩を触った。

「また痛むのか?」

 村岡が聞いた。

「ぜんぜん。」

 奈江はそう言って笑顔を見せた。


 幸せはやっぱり貰っちゃいけないものなんだ。手を伸ばして手に受け取った幸せは、すぐに偽物にかわっていた。

 誰かの抱えているものを少しだけ覗いたら、軽くなった心が、私の方が幸せだと勘違いした。

 これで良かったんだ。 


「村岡くん、帰ろう。」

 奈江は村岡の顔を見た。

「ごめん松下、車は反対側に停めてあるんだった。」

 村岡は奈江の手を掴んだ。

 

 村岡の家について、さっき買ってもらった鏡を見ながら考え事をしていると、村岡は奈江の隣りに座った。何も言わない村岡に、

「これ、どうもありがとう。」

 もう一度お礼を言った。

「さっきから、何考えてるんだ?」

「なんで?」

「嬉しそうだったり、寂しそうだったり、そんな風に見えるから。」

「ちょっとね、昔の事が映ったの。」

 奈江は鏡を覗いた。村岡は鏡に映る奈江を見ると、

「松下はずっと変わらないな。」

 そう言った。

「年を取ったよ。すごくずるくなった。」

「そうか?昔のまんまだよ。だから、怖い夢を見てるんだと思うけどな。」

「夢はね、これがあるからもう大丈夫。」

 奈江がそう言うと、

「ひどいなぁ。鏡の方が信頼されてるのか。」

 村岡が笑った。

「村岡くん、映画見たいな。」

「今からか?」

「明日にした方がいい?」

「今日でもいいぞ、何が見たいんだよ、」

「ハクソー・リッジ。」

「そんなの見たら、また夢に出てくるぞ。」

「大丈夫。村岡くんが隣りにいるから。」

 奈江は鏡を握った。

「いいよ。見ようか。」


 ベッドに入り、本の続きを読んでいた奈江は、村岡が浴室から戻ってくるのを待っていた。今日1日でいろんな事を考えた。本を閉じて待っていると、だんだんと瞼が重くなってくる。

 話したい事がたくさんあるんだから、もう少しだけ起きていなきゃ。


 浴室から出てくると、奈江は眠っていた。疲れていたのだろうか、読みかけの本が枕の横にそのままになっている。今日1日で、2人の距離は近くなった気がする。好きだという気持ちが、自分の体から溢れてくる。

 話したい事がたくさんあるんだから、もう少しだけ起きていてほしかった。

 村岡は電気を消して、奈江の隣りに並んだ。


 土の上から出る目玉を、カラスが狙っている。怖くて目を閉じると、目の前に軍靴の足音がする。

 味方なの?敵なの?

 奈江は恐る恐る目を開ける。


「松下、大丈夫か?」

 村岡が奈江の顔を覗いた。奈江は起き上がり、息を整えた。自分の目があるのを確認しようと、鏡を探した。

「これか?」

 村岡が奈江に鏡を渡した。

「テーブルの上に置いたままだったぞ。」

「…。」

 奈江は鏡を覗くと、胸に抱いた。

「今日はどこへ行ってきたんだ。」

 村岡がそう聞くと、奈江は少し考えていた。

「だから見ないほうが良かったのに。」  

 村岡は奈江の背中を手でさすった。

「あれって実話なの?」

「そうだよ。モデルになった兵士がいるんだ。」

「すごい人だね。」

「本当だな。銃を持たないで戦場へ行くなんてさ、よっぽど神様が守ってくれていたんだろうな。」

「ごめんね、村岡くん。」

「なんで謝るんだよ。」

「こんな女、面倒くさいでしょう。」

 奈江は鏡を彫られた桜の模様を触っている。

「いいんだ。」

 村岡は奈江の顔を見つめた。

「そのうちケンカになるかもよ。」

「その時は松下が勝つまでやればいいだろう。」

「村岡くん、」  

 奈江はまた何かを言い掛けた。

「水飲むか。喉渇いたんじゃないか?」

「そうだね。」

 2人は冷蔵庫の前に立った。

「明日は夕方から仕事だったよな?」

「そう。」

「朝、ちゃんと送ってやるから、帰ったら頭を空っぽにするんだぞ。」

 村岡は水を奈江に渡した。

「ありがとう。」

 奈江の手を握ってベッドに座らせると、Tシャツを少し引っ張って左肩の出した。

「まだ痛むのか?」

「時々ね。でも、すごく良くなった。」

 村岡は黙って奈江のTシャツを脱がせると、治りかけた左肩を触った。少し戸惑った表情を見せた奈江の顔をあげると、奈江の持っている鏡を枕の下に入れた。

「松下、」

 村岡は静かにその答えを待った。

「言葉が見つからない。」

 奈江はそう言って、微笑んだ。

「無理しなくてもいいんだぞ。」

 村岡は奈江を抱きしめた。

「松下は冷たいな。」

 村岡は服を脱ぐと、奈江の体にくっついた。

「村岡くんは温かいね。」

 奈江はそう言って目を閉じた。村岡の左肩に奈江の涙の雫が落ちた。

「俺達はただの兵隊だよ。なんにも考えないで、走っていればいいんだ。死にたくなかったら、隠れればいいし、誰かを撃ちたくなかったら、弾を込めなければいいんだ。世の中が変わらないんだから、そうやって生きるしかないだろう。」

 奈江は村岡の手を握った。

「勝手な事、言うんだね。卑怯だよ、そんなの。」

 奈江が言った。村岡は奈江を見つめると、奈江は涙を手で拭った。

「松下、眠いか?」

「少し寝たから、大丈夫。」

 村岡は奈江の頼りない言葉を聞くと、奈江をベッドへ寝かせた。寒そうにしている奈江の体に、鼓動が早くなり、少し熱くなっている自分の体をゆっくり重ねた。

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