第8話 落とした消しゴム

「今日も家に来いよ。」

 朝、奈江の家までついてきた村岡はそう言った。

「今日は大丈夫。」

「じゃあ、俺がこっちにきてもいいか。」

「だから、大丈夫だって。」

「なぁ、松下。」

「何?」

「こんなの持ってきて悪かったな。」

 村岡はDVDを手に取った。

「もう一度見たかったから、良かったんだよ。」

「本当か?」

「本当。村岡くん、昨日の本、貸してほしいな。」

「いいよ。後で連絡する。」


 職場に着くと、唯が欠伸をしていた。

「寝不足?」

 奈江が聞くと、

「新しいゲームが面白くてね。」

 唯はそう言った。

「唯、ゲームなんてするの?」

「大好き。この前一緒に飲んだ田嶋さんが、教えてくれたヤツにめっちゃハマってさぁ。」

 唯はもう一つ欠伸をした。

「2人はいつも仲がいいんだね。」

 上川がやってきた。

「おはようございます。」

「おはよう。」

「先生はいつまでここにいるの?」

 唯が上川に聞いた。

「来月には退職するよ。」

「いいなぁ、新しい病院。」

「三浦さん、うちにくる?」

「行かないよ、先生の病院、給料安いし。」 

「はっきり言うなぁ、ここが高すぎるんだって。」

「先生、辞める前にご飯奢ってよ。」

「いいよ。来週、2人が日勤の時に、食べに行こうか。」

 浮かない顔をしている奈江に

「行こうよ、奈江。」

 唯はそう言って、上川と約束をしていた。

「どうしたの?」

 唯が奈江に浮かない顔の理由を聞いてくる。

「ちょっと疲れててね。帯状疱疹、できちゃった。」

「本当に?薬もらいなよ。飲んだら早く治るから。」

「もう、遅いよ。盛大に広がったから。」

 唯は上川を探しに行った。

 

 奈江が検温に回っていると、

「松下さん、終わったら処置室で待ってるから。」

 上川が声を掛けてきた。

「大丈夫です。もうピークは過ぎましたから。」

「ダメだよ。松下さんのせいで、免疫のない子供とか、妊婦さんに感染したらどうするの?」

 上川の説得に奈江は頷いた。

「そうですね。取り返しのつかない事になりますよね。」

 検温を終えると、処置室へむかった。

「そこに座って。」

 奈江は丸椅子に腰を下ろした。

「いつから?」

「3日くらい前に気がついて。」

「ちょっと見せてくれる?」

「見せられないです。脱がないといけないから。」

「松下さんは、俺を男として見てるんだ。今は医者なんだけどなぁ。仕事中は裸を見たって、何とも思わないよ。」

 奈江は上のスクラブを脱いだ。

「これはひどいなぁ、水疱も潰れてる。」

 プラスチック手袋をつけた上川は、奈江の肩を触った。

「痛っ!」

「薬つけるよ。服につかないように、ガーゼで覆うから。」

 処置を終えて奈江がスクラブを着終えると、

「飲み薬も出しておくから。すぐに飲んでよ。」

 上川は処方箋を書きながら、奈江に言った。

「すみません、ありがとうございました。」

 奈江は上川に頭を下げた。

「松下さん、どうしてここまで放っておいたの?」

「最初はただの湿疹かと思ってて。」

「違うよ。俺が聞いているのは、松下さんの心。少し寝ないくらいでも、朝まで遊べる年齢なのに、高齢者と同じくらいの免疫しかないなんて、どれだけストレスを抱えてるんだよ。」

 上川は奈江の手を握った。

「この仕事、もう辞めなよ。」

 奈江は上川の手を離すと、

「先生、辞めたくないです。」

 そう言った。

「頑固だね。そんなに強がってると、いつまでも治らないぞ。」

 上川は奈江の左肩を指差した。

「仲良くしていきます。これも、自分だから。」

 奈江はそう言って笑った。

「松下さんのそういうところが好きなんだよ。」

 上川も奈江を見て笑った。

「今度はピザでいいですか?焼肉だと、手術を連想してしまうんです。」

「ああ、いいよ。三浦さんと店を決めておきなよ。」

「ありがとうございます。」

 奈江は処置室を出た。

 上川のおかげで、痛みは少しだけ引いた気がする。


「松下さん、お客さん来てるわよ。」

 詰所に戻ると、師長が奈江に言った。

「どちらに?」

「デイルームに行ってもらった。高齢の女性よ。」

 奈江はデイルームにその人を探しにむかった。

 幾人かがテーブルに座っている中、窓際に座る高齢の女性を見つけた。

「あの、松下ですけど。」

「あっ、あなたが、」

 女性はそういうと奈江に頭を下げた。

「どこかで会いましたか?」

 奈江が女性の肩に手を掛けると、

「はじめまして。橋本悟の、その、」

 女性は言葉につまった。

 奈江はポケットに入っていた鏡を女性に渡すと、

「これ、」

 女性はそう言って、その場に泣き崩れた。

 奈江は女性を椅子に座らせると、自分は女性の前にしゃがんだ。

「これは大切なものだったんですね。」

「そうなの。大切なもの。」

 女性はそう言って鏡を愛おしそうに眺めた。

「私と橋本くんは小学校からの同級生。橋本くんはお父さんが会計事務所をやっていて、裕福な家の子だったの。私の家は小作農から、戦後にやっと土地をもらった貧乏農家。20歳の時に、隣り町の農家の家に嫁ぐ事になって、橋本くんとはそれっきり。町を出る時に、この鏡を私にくれたんだけど、なんだか私の人生をバカにされているようでね、橋本くんにいらないって返したの。それから私は、いろんな事があったわよ。あなたには想像もできない事もたくさんね。幸せだったのか、どうなのか、よくわからない人生よ。偶然、ここの病院で橋本くんと再会して、いろんな話しをしたの。そして、渡したいものがあるから、この日にあなたに会いにくるようにって言われてて。」

 女性は手にしている鏡を覗いた。

「もう、こんなになっちゃったのね。あなたが羨ましい。」

 女性はそう言って奈江の頬を触った。

「ずっと悔しい思いで生きてきたの。だから、こんなに長く生きれたのかも。幸せなんて簡単に貰っちゃダメよ。」


 仕事を終えて更衣室に向かう途中、村岡からラインがきた。

〈迎えに行く。〉

〈どこに?〉

〈病院の前にいる。〉


「奈江、上川先生に薬塗ってもらったんだ。」

 更衣室で着替えていると、唯が言った。

「そう。」

 唯がガーゼをめくった。

「ひどいね、まだ痛むの?」

「うん、少しね。」

「先生の前で、よく裸になれたね。」

「裸じゃないよ。」

「そうかなぁ。ここ、見せたんでしょう?」

「診査だもの、仕方ないよ。」

 奈江はそう言ってロッカーから私服を取った。

「今日はこのまま帰るの?」

「帰るよ。唯も帰るんでしょう?」

「今日はね、元カレが家にくるの。」

「そういうのって平気なの?」

「むこうはね、きっと新しい彼女と上手くいってないのよ。まぁ、私を越える女はいないってわけ。」

「何年付き合ったの?」

「大学の頃からだからね、10年か。奈江の結婚生活より長いでしょう。もうね、愛なんてないの。腐れ縁。」

 

 奈江は車の少なくなった駐車場へ歩いて行った。昼間の混雑とは違い、まばらに停まっている車は、動物が食べ掛けたトウモロコシのようだ。

「松下、こっち。」

「今日は行かないって言ったよ。」

「いいから、乗れよ。」

 奈江がシートベルトを締めると、

「腹減ったなぁ。なんか食べに行くか。」

 村岡はそう言った。

「行かない。」

「じゃあ、どうする?なんか作って食べようか。」

「2人で同じものを食べないといけない、そんな決まりでもあるの?」

「冷たいなぁ。昨日はあんなに儚げだったのに、今日は別人だな。」

「ここね、薬をもらったの。少し痛みが引けたから、今日は眠れると思う。」

 奈江は左肩を触った。

「そっか。昨日の本の続き読むだろう?」

「そうだね、借りようかな。」

「あの本はさ、貸し出しできないんだよ。」

「意地悪だね、そんな事言う人だとは思わなかった。」

「だから、うちにこいよ。」

 奈江は下を向いて考えていた。

「そんなにたくさん悩む事か?本も読めて、俺も付いてくるんだから、迷う事はないだろう。」

 村岡だって、そうやって笑っていても、1年もすればケンカが絶えなくなる。言い返す言葉をたくさん持っている彼なら、どれほど激しいケンカになるのだろう。契約だけ結んで、お互いに伸び伸び暮らす生き方の方が、利口な選択肢なのかもしれない。そこまでして結婚や交際にこだわる事もないか。

「松下、どうした?」

「ううん。なんでもない。」

「そうやって殻に閉じこもっている時は、話しを避けてるんじゃなくて、何かを考えてるんだろう?」

「そうだね。」

「松下が閉じこもってる間、俺はずっと待っててやるからさ。」


 村岡と夕食を食べ終えた奈江は、昨日読んでいた本を手に取った。

「先に入ってこいよ。俺の後は嫌だろう。」

「そんな事ないけど。」

 奈江は本を読み始めた。

「松下はキレイなお湯じゃないとダメだ。」

 村岡は奈江の左肩をそっと触った。

「大丈夫なのか?」

「昨日より、ぜんぜん痛くない。」

「薬もらったんだろう?後で塗ってやるから。」

「大丈夫。自分でできる。」

「なぁ、松下。」

「何?」

 村岡は何かを言いかけて、ほらっと着替えとバスタオルを奈江に渡した。奈江が手に持っていた本を、本棚に戻すと、

「行ってこいよ。」

 そう言って背中を軽く押した。

 村岡がお風呂へ行っている間、奈江はガーゼに軟膏をつけていた。それを左肩に乗せると、昼間に会った女性の事を思い出していた。

 2人揃って、幸せは貰ったらダメだって、そんな事を改めて言われなくても、もうとっくにわかっているんだから。2人はどんな人生だったのかな。

「松下、」

 村岡が浴室から戻ってきたので、奈江は慌てて服をきた。

「見たの?」

「見えたんだよ。途中で考え事をした松下が悪いんだろう。」

「うん。そうだね。ごめん。」 

 村岡は奈江の手を握った。

「本は持ってきていいからさ、今日はこっちで横になろうか。」

「布団、あるんでしょう?」

「あるよ。だけど昨日みたいに、2人共同じ場所で寝るんなら、布団なんていらないって。」

 奈江が下をむいて少し考えていると、

「ここには、絶対触らない様にするから。」

 村岡はそう言った。

 ベッドに入り、村岡が隣りにいると思うと、さっきから同じ行を繰り返し読んで、内容が頭にひとつも入って来なかった。

「そろそろ電気消すぞ。」

 村岡が言った。 

「もう少し。」

 奈江は本を閉じようとしなかった。

「さっきから、ぜんぜん進んでないだろう。今日はきっと、そういう日なんだって。」

 村岡は奈江から本を取り上げた。電気を消すと、村岡は奈江に近づいた。

「村岡くんの目的はこういう事なんだ。」

 奈江は村岡を拒んだ。

「自然な流れだろう。松下の事が好きなんだから。」

「気持ちだけで繋がる事はできない?それなら、体が朽ちても、ずっと好きでいられるから。」

「ずっと好きでいてほしいのか?」

「無理なら、好きだなんて言わないで。」

 村岡は奈江の突き刺すような瞳を見つめると、奈江の前髪をかきあげ、額を出した。

「松下はずっと好きでいられるのか?」

「わからない。」

「だったら、俺にも要求するな。」

 村岡は奈江にキスしようと顔を近づけた。

「ヤダ。」

「本当に厳しいなぁ。」

 村岡は奈江の顔を自分の胸にうずめた。

「聞こえるか、心臓の音。」

「うん。」

「ずっと聞いてろよ。松下にだけ聞かせてあげるから。」

「村岡くん。」

 奈江は顔を上げた。

「何?」

「けっこう詩人だね。」

「バカ言うなよ。恥ずかしくて顔見れなくなっただろう。」

 村岡は奈江の左肩にそっと触れると、

「早く直せよ。」

 そう言って唇を重ねた。


 寝返りを打つたびに、奈江は辛そうな顔をしている。眠っているはずなのに、左肩を何度も撫でている。松下が選んできた事なのに、なんで俺が後悔してるんだろう。ずっと好きだった松下は、こんなにも辛そうな顔をしている。

 村岡は自分の方をむいた奈江の髪を撫でた。

 こんなに好きなのに、どうする事もできないのか。左肩をさすっている奈江の手を握ると、村岡は奈江の唇に近づいた。

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