第7話 選ばれた記号
冷たい冬の夜の風は、コートを着ているはずなのに、左肩にチクチクと針を刺してくるようだった。
奈江は携帯を取り出すと、家までの道のりを調べるために、地図を開いた。
徒歩で45分。
ついてないよ。少しゴネて、タクシーくらい呼んでもらえば良かったのかも。
市役所の灯りが見えた。もうとっくに帰っているか。都合のいい時だけ、村岡を利用しようなんて、私もセコい女だね。
奈江は地図が示す通りに歩いて行くと、
「松下?」
奈江の横に車が停まった。
「村岡くん。」
「寒いから乗れよ。」
「いいよ、少し歩きたいし。」
奈江は心とは違う言葉を言った。
「早く乗れって。松下が歩きたいなんて思うわけないだろう。」
村岡は車から降りて、奈江を助手席に乗せた。
「ごめん。」
奈江は謝った。
「なんで謝るの?」
「迷惑掛けてるから。」
「ちょうど、俺も帰るところだし、ぜんぜん迷惑じゃないよ。」
「残業だったの?」
「そう。月末は締めがあるから。松下は?」
「うん、ちょっといろいろ。」
「なんか、ニンニクの臭いがするぞ。」
「焼肉食べに行ったからだと思う。」
「誰と?」
「病院の人と。」
「楽しくやってるんだな、良かったよ。」
村岡はそう言って、奈江の手を握って笑った。
暗い顔をしている奈江は、
「聞いてくれる?」
そう言って下をむいた。
「どうした?」
村岡は奈江の手をぎゅっと握った。
「今日ね、塹壕にいたら敵に見つかって、もうダメだ、投降しようって手を上げようとしたら、味方が敵を撃ってくれてね。今度は自分が味方に撃たれるところで、目が覚めた。投降しようとした私は、裏切り者なんだよね。」
「もしかして、あれ全部見たのか?」
「そう。一気に。」
村岡には奈江の夢の原因がわかった。
「焼肉なんか行ってる場合かよ。」
「ナイフで金歯を取るシーンがあるじゃない、肝臓の事も、思い出してね…。」
奈江は村岡の手を離すと、ずっと気持ち悪かった胸を擦った。
「明日は?」
「仕事だよ。」
「遅いのか?」
「ううん、普通。」
「今日は家に泊まれよ。朝、家まで送ってやるからさ。」
奈江は左肩を撫でると、コートに涙の雫が落ちた。触ると痛くてどうしようもないのに、撫でずにはいられない。
「松下、おまえ、どうしようもないな。」
村岡のアパートの前についた。
「実家じゃなかったの?」
「ああ、就職してからずっとここに住んでる。実家には新しい親父がいて、帰りづらいんだ。」
村岡は玄関の鍵を開けた。
「ごめん、やっぱり帰るよ。夢見たくらいで、1人でいられないって、バカみたいだし。」
「夢くらいっていうなよ。松下の見た夢は、普通の神経してるヤツが見る夢じゃないだろう。」
奈江は俯いた。
「風呂はこっち。早くニンニクの匂い消してくれよ。」
村岡は奈江のコートを脱がせようとした。
「ここにちょっと、」
奈江は左肩を指差した。
「大丈夫だ、俺は盛大に水疱瘡に罹ったから。」
村岡は奈江に着替えとバスタオルを渡した。何も言わなくても自分の事をわかっている村岡の優しさに、また涙が出そうになる。
「借りてもいいの?」
奈江はタオルで顔を隠した。
「早く入ってこいよ。」
村岡は奈江の頭を撫でた。
奈江はカバンから歯ブラシセットを出した。
「ずっと、気持ち悪い味がしてて。」
「なんで断らなかったんだよ。」
「話してもわかってもらえないでしょう。」
「そうだな。」
村岡は奈江の背中を押した。
「ごめん、じゃあ先に。」
奈江が浴室から出てくると、
「寝てろ。」
村岡はそう言って、敷いてある布団に奈江を座らせた。村岡が浴室へ行くと、奈江は棚にあった本を読み始めた。
図書館見たことのある戦争の本が、いくつか棚に並んでいる。映画では表現できない真実も、文章なら展開ができる。奈江は何度も同じ文を読み返し、想像を膨らませていた。
「やっぱり読んでたのか。今日はやめておけ。」
浴室から出てきた村岡は、奈江から本を取って背中に隠した。
「どうせ、眠れないんだし、貸して。」
奈江は村岡に手を出した。
村岡は奈江の左肩を触った。
「痛っ、」
「眠れないのは、これか?」
村岡は奈江が着ている、少し襟元が伸びたTシャツを引っ張った。
「なにするの!」
奈江の左肩が、朱色になって少し盛り上がっている。ブラジャーの線が掛かっているあたりには、紫色になった皮膚が見える。
「出てるのはここだけか?」
奈江は左の腰を触った。
村岡はTシャツをめくると、さっきより薄い朱色ではあるが、引っ掻いて水疱が潰れた痕がある。
「病院にいけよ。」
村岡はそう言って奈江の顔を覗いた。
「そのうち治るよ。それに、いくら薬を塗っても、痛みは取れないし。」
村岡は奈江の頭を自分の胸にあてた。
「もう自分を解放してやれよ。誰も松下を責めてないって。」
奈江は首を振った。
「そうやって腐るなって。」
「簡単に切り替えられないよ。ずっとこれで生きてきたんだし。」
「実家には帰ってるのか?」
「ううん。孫を見せろって言われてたからかね。なんだか帰りづらくって。」
「孤独だな、俺達。」
村岡は背中に隠していた本を床に置いた。
「これ、外せよ。痛いだろう。」
村岡は服の上から奈江のブラジャーのホックを触った。
「寄り掛かったりして、ごめん。」
奈江は村岡から離れると、布団に足を入れた。
「さっき、なんで泣いたんだ?」
村岡は奈江の頭を触った。
「よくわかんない。」
奈江は村岡を見て小さく笑った。
「さっきの本貸して。もう少し読んだら、眠るから。」
「ああ、これか。」
村岡は床に置いた本を手に取ると、手を出した奈江に渡そうとしたが、途中で手を止めた村岡の顔を、奈江は覗き込んだ。
「村岡くん、早く貸して。」
村岡は奈江の頬に手をやると、本は布団の上に静かに落ちた。奈江の唇に自分の唇を重ね、奈江の左肩に触れないように背中を包んだ。そして、逃げようとする奈江に、もう一度唇を重ねた。
村岡は奈江の背中に置いた手で、ブラジャーのホックを外した。
「電気消すぞ。もう本は読めないからな。」
村岡はそう言って電気を消した。部屋の中が暗くなると、奈江はブラジャーのホックをかけ直した。
「村岡くん、」
腕枕をしようとしている村岡の腕を、奈江は戻した。
「どれくらいで治るんだ?」
村岡は奈江の髪を撫でた。
「1カ月くらいかな。」
奈江は村岡の枕を引っ張った。
「そうだな、ごめん。」
村岡は奈江に枕を渡すと、ソファからクッションを持ってきて、自分の頭にあてた。
「松下、付き合おうか。」
奈江は返事をしなかった。
村岡は奈江の唇に近づいた。抵抗しない奈江に唇を重ねると、思わず奈江の左肩に手をおいて、自分の方へ引き寄せようとした。
「痛っ!」
「ごめん。」
村岡は奈江の顔を見つめた。
「こんなに好きなのに、触る事もできないのか。」
村岡はそう言って、奈江の頬に額をつけた。
「好きだなんて、簡単に言ったらダメだよ。」
奈江は天井を見ていた。
「松下はそれでいいのか?」
「何が?」
「ずっと一緒にいたいとか、離れたくないって思わないのか?」
「ねえ、村岡くん。悲しいとか、悔しいとかそんな気持ちって力になるよね。落ち込んでいても、立ち直ろうとする気持ちが生まれるから。でもね、寂しいって気持ちだけは、力にならないの。人を弱くするだけ。だからね、私はそんな感情なんてもう捨てた。」
「松下が軍人だったら、その下につく兵隊は堪んないだろうな。」
「寂しいって気持ちが国を滅ぼすんだよ。神様はなんでそんな愚かな感情を与えたのかな。」
「寂しさで滅んだ国ってあるかよ。」
「さぁね。」
「適当な話しだったのか。」
「そんな事ないよ。だってさ、赤ちゃんに何も話さないで育てると、1歳まで生きられないって聞いたよ。」
「それが寂しいって感情のせいなのかは、わからないだろう。視覚とか聴覚とか、それの発達の課程が上手くいかなかったのが原因かもしれないし。松下だって、」
「私だって、何?」
「嘘つけないんだよ、ほら。」
村岡は奈江の肩を指差した。
「これは、ちょっと疲れただけ。仕事でもいろいろあったから。」
奈江は村岡を手をほどくと、体を正面をむけた。本当は村岡に背中を向けたかったけど、左肩を下にする事が、痛くてできなかった。
「村岡くん、ここはちょっと狭いな。狭くて暗い所にいると、また夢で見そう。」
奈江はそう言って布団を被ろうとした。
「松下、」
村岡は何度何度も奈江にキスをした。
「もういいよ、村岡くん。」
奈江は村岡を止めた。
手術台の上で裸になっている自分は、麻酔用のマスクをかけら寸前だった。抵抗しようとしても、体が痺れて動かない。せめて最後に、自分を葬ろうとしている医者の顔を見てやろう、奈江はそう思い、目を動かした。大きなマスクから覗く2つの目は、白目の部分が少し黄色く見える。さっきまで白黒だった世界が、緑色の術衣と緑色の床に変わっている。ここは、現実の世界なんだ。
奈江は驚いて目を覚ました。
「どうした?」
村岡が目を覚ます。少し荒くなった息を整えると、
「なんでもない。」
奈江はそう言ってまた布団に入った。
やっぱりダメなんだ。村岡の隣りに寝ても、おかしな夢を見てしまう。奈江は背中を丸めると、村岡が顔を覗き込んだ。
「今日はどこの戦場へ行ってきたんだ?」
村岡が聞く。
「えっ?」
「夢、見たんだろう?」
「うん、そうだけど。」
村岡は奈江の背中をさすった。
「逃げられなくなったのか?」
奈江は首を振った。
「もう寝ようよ。」
布団に潜ろうとした奈江の右肩を、村岡は優しく掴んだ。
「ちゃんと話せよ。話せば、正夢にならないって言うからさ。」
「村岡くん、私の夢の話しまで聞いていたら、仕事に響くよ。」
村岡は奈江の手を握った。
「いいよ、そのためにここにいるんだから。」
奈江は村岡の目を見ると、
「今日は病院。」
そう言った。
「解剖でもされてたのか?」
「そう。」
村岡は奈江の顔を自分の胸にうずめた。
「俺達、32になったんだよな。」
「そうだね。」
「松下は子供の頃の感性のままなんだよ。」
「なにそれ。」
「見たくないものも、見たいものも選べない。現実も作り話もみんな同じに思えてきて、夜に思い出す。結婚してた頃って、そういう感覚は鈍ってたんだろう?」
「そうかもね。」
「俺と一緒にいても、松下は松下のままなんだよ。少し安心した。」
村岡がそう言うと、奈江は村岡の顔を見上げた。
「都合のいい解釈だね。だけど、本当にそうかもしれないね。」
村岡は微笑んだ。
「寒くないか。」
「大丈夫。」
「あと少し眠ろうか。」
村岡は奈江に何度もキスをした。
「もういいよ、村岡くん。」
奈江はそう言って目を閉じた。
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