第6話 窓の外
「雪、すごい降ってきたね。」
奈江が言った。
「雪の音って聞いた事ある?」
「ううん。」
「松下ならなんて伝える?」
「しんしんとか、もさもさ、そんな感じかなぁ。村岡くんは?」
「さわさわ…、ヒューヒュー、松下が先にしんしんっていうから、いい表現が取られたよ。」
村岡はそう言って笑った。
「吹雪の雪って、悪魔かな?」
「そうだなぁ。八甲田山、知ってるか?」
「映画の?」
「見たことあるのか?」
「うん、あるよ。」
「松下は何でも見てるんだな。」
「高倉健が好きだからね。」
「あの人、軍服が似合うよな。」
「ねえ、雪の悪魔の話しは?」
「そうだったな。八甲田山には昔から亡霊がいるって言われてて、もしかしたら、それは山の神様が怒って悪さをしているのかもしれないけど、雪に姿をかえて出てくる神様って、人の命をさらっていく事が多いよな。だから、神様と悪魔って、本当は同じじゃないかって思うんだ。」
「雪の神様って女じゃない?だから魔女。」
「そうか、雪女も雪の女王もそうだったな。」
「吹雪の悪魔はどんな顔だと思う?」
「キレイで悲しげな顔かな。雪の日は孤独だから寂しくなって、だから誰かを連れて行くのかな。」
「村岡くんは、雪国って読んだ?」
「踊り子の話か?川端康成の。」
「そう。」
「白って、純粋なものを表現しやすいんだろう。雪はその代表だよ。」
「純白とか、女の人をそういう風に表現するのって、男の人の都合でしょう?」
「そうなのかもな。松下は灰色でもいいじゃないか。灰色ってすごく幅が広いし。」
奈江は膝を抱えた。
「あの医者達は、アメリカ兵の肝臓を食べたんでしょう?信じられない。」
奈江は顔を伏せた。
「疲れたのか、もうやめようか。」
「食べたんでしょう?それが、戦利品だもんね。」
「松下、もうやめようよ。」
「話してくれるって言ったのに、結局そうやって逃げるんだ。」
「それは、そんな話しをすると、松下が気持ち悪くなると思って。」
奈江は顔をあげると、
「いつも見てるの。汚いって思われるものでも、それを平気な顔して触るのが仕事だから。」
「そうだったな。松下、たくさん話したな。なんでこんなに、いろんな話しができるんだろう。」
村岡はそう言った。
「そのうち嫌になるよ。私、気分の浮き沈みが激しいんだって。興味が変わりやすいから、集中できなくて、周りと合わせられない。」
村岡は奈江の頭を触った。
「松下。」
「何?」
「田嶋がいろいろ調べてたんだよ。俺、急に落ち着かなくなってさ。後付けたり、無理やり家に押しかけたり、ヤバいのは俺の方だよ。」
「本当だね。」
奈江は村岡の手を払った。
「もう、寝るね。」
奈江はそう言って立ち上がうとした。
「明日は休みか?」
「ううん。夕方から仕事。村岡くんは休みなんでしょう?日曜日だもんね。」
「松下も、普通の時間で働けよ。」
「夜勤の方がね、いい時もあるんだよ。」
奈江は立ち上がった。
「おやすみ、村岡くん。」
奈江はベッドに入ると重くなった瞼を閉じた。今は村岡と話した事の半分も覚えていないけど、少し楽しかったかも。
布団に包まっていた村岡は、何度も奈江の寝ている部屋のドアを開けようと悩んだ。結局、一睡もできず、空が明るくなり始めた。
好きだった奈江は、悲しみの底で膝を抱えている。いつからこんな風に、辛い顔をする様になってしまったんだよ。
村岡は布団を畳むと、奈江が気にしないようにメモを書いた。
松下のためなら、嘘だってつくさ。
朝起きると、村岡はいなかった。キレイに畳まれた布団の上には、 食べてないって、そう書かれていたメモ用紙があった。
嘘つき。
奈江は村岡の置いていったDVDを、パジャマのまま見始めた。
「松下さんが、ギリギリにくるなんて何かあったの?」
広川が言った。
「出勤する時間なのに、気が付かなかったの。」
奈江はそう言った。本当は食事もせずに、ぶっ通しでDVDを見ていた。このままでは仕事に間に合わないと思うと、倍速にして全部見終えた。
残酷なシーンは、スピードを速めるとその悲惨さが鈍くなり、奈江は少しホッとしていた。
「また、2人がコンビなの?」
上川がやってきた。
「先生、今日は当直?」
広川が聞いた。
「そうだよ。君達は12時で終わりだけど、俺は朝まで仕事だよ。何もなきゃいいね。松下さんの夜勤は、荒れるって噂だから。そうだ、医局にケーキがあるよ。後で持ってくるから。」
上川は仕事へ戻っていった。
「広川さん、松川さん達はどうなったの?」
「それね、看護部長が出てきておしまいよ。松川さん達、大人しくなったよ。」
「そうかな。ずいぶん、怒ってたけど。」
「うちの病院、外国人の介護さんが入るらしいよ。だからね、ごちゃごちゃうるさい助手さん達は、切られるんだって。」
「松川さん、上川先生の病院に行く話しは?」
「もしかして松下さんも誘われたの?」
「うん、まぁ。」
上川は皆を誘っていたんだ。自分もその中の1人だったと思うと、勘違いした事が、少し恥ずかしくなった。
「松川さん、手当たり次第声掛けてたみたいね。上川先生が、看護師を10人集めてくれたなら、松川さんも職員として雇ってあげるって約束してたみたいだから。」
「そうなんだ。」
「松川さん、いい人なのよ。障害のある息子さん1人で育てて、去年介護士の資格も取ったのに、ここにこだわるのは、息子さんの療育施設と近いからなんだって。上川先生なんて、腹黒いって噂だし、本当に松川さんを連れて行こうとしたのかはわからないよ。」
広川はそう言った。
「看護師は10人集まったの?」
奈江は広川に聞いた。
「さぁ、どうかな。」
奈江は交換の点滴を持って廊下を歩いていた。
「松下さん。」
上川が声を掛けた。
「ちょっと、」
上川は倉庫に向かって歩き始めた。
「これ、取り替えてきます。」
奈江は逆の方へ歩き出した。静かに病室のドアを開け、残りわずかになっている点滴を取り換える。ぐっすり眠っている患者を起こさないように、奈江は病室をあとにした。
「松下さん、こっち。」
ドアのむこうには上川が待っていた。静まり返った廊下を歩いていると、広川が奈江を呼びにやってきた。
「入院が来るって。あれ、先生?」
広川は奈江と一緒にいる上川を不思議そうに見ていた。
「その患者は、澤田先生の担当だろう。昨日、退院してから熱が出てきたみたいで、たぶん、感染症を起こしてる。」
「そうなんだ。先生は外来にいなくてもいいの?」
「612の患者の事が気になってね。松下さんと一緒に見に行ったところ。」
「ふ~ん。先生、これじゃあ、ケーキどころじゃなくなったよ。」
広川と病院の玄関を出たのは、午前3時を回っていた。
「明日は?」
広川が奈江に聞いた。
「遅出。」
「じゃあ、10時には出勤かぁ。ひどい勤務だよね。定時で帰れる事なんてないのに、師長は勤務表の作り方下手くそ。」
「広川さんは?」
「私は深夜。今週はアナグマ生活よ。まっ、日勤が続くよりいいけどね。」
奈江はコンビニへ寄り、サンドイッチを買った。
「今、帰り?」
いつもの店員から声を掛けられた。
「そうです。」
「早く寝ないと、朝になるよ。」
「本当ですね。」
家に着くと、眠くてシャワーを浴びる元気もなかった。携帯の目覚ましを掛けると、上着を脱ぎ捨て、ベッドに潜り込んだ。
隠れていた塹壕で、敵に銃口を向けられた。奈江は目を瞑り、手を上げようとした時、遠くから放たれた球が、敵の兵士の頭を貫通した。
助かった、そう思って上を見上げると、
「お前、降参しようとしてたのか?」
今度は味方の兵士が奈江に銃口をむけた。
汗だくになって目覚めると、携帯のアラームがなっていた。
動悸が治まらなくなり、奈江はもらっていた薬を飲んだ。
お昼休み。
松川が物品庫でシーツを補充していた。
「昨日、入院が入ったんだね。」
松川はそう言った。
「そう。616にね。」
「ベッド、用意できてなくてごめんなさいね。」
「いいのよ、急な事だったから。」
「松下さん、この前ごめんね。」
「何が?」
「ここを辞めるように声掛けちゃって。」
「私もいろいろあったから、少し心が揺らいだよ。」
「私も上手くいかない事が続いて、ごめんね。人を巻き込むなって、看護部長に怒られた。」
「そっか。」
「部長が助手の私達と話すなんてめったにない事だけど、ちゃんと話しを聞いてくれてね。私は来月から、病院の系列の介護施設で、働く事になったの。」
「職員で?」
「そう。」
「資格とって、良かったね。だけど、松川さんがいなくなったら、困るなぁ。」
「ありがとう、松下さん。」
「そう言えば、上川先生の病院は?」
「だって、ここの方が条件がいいから。松下さんは利口よ。上川先生に付いていったら、すごくこき使われるらしいから。そこをやめた友達が言ってた。」
2人で話しをしていると、上川の姿が見えたので、松川はサッといなくなった。
「松下さん、昨日はお疲れ様。」
上川が奈江の前を塞いだ。
「今日、食事にでも行こうか。」
「ちょっと、用事があって。」
「彼氏とか?」
「違いますけど、」
「それならいいだろう。玄関で待ってるから。」
20時。
仕事は順調に終わってしまった。奈江は入院の連絡が来ないか、電話を見つめていたが、準夜をしている広川から、
「早く帰りなよ。」
そう言われてしまった。
携帯を見ると、田嶋からの着信があった。村岡からは、連絡が来ないのか、奈江は携帯をカバンにしまい、更衣室にむかった。
左の肩がピリピリすると思ったら、またか、と朱色に盛り上がった湿疹を触った。
たいして突発的な出来事もないのに、少し考えるだけで、現実から逃げ出そうとする自分の体が、もどかしかった。いつになったら、本当に1人で大丈夫だと胸が張れるのか。
玄関を出ると、上川の車が停まっていた。
「乗って。」
上川はそう言うと、奈江を助手席に案内した。
沈むような座席に座り、早く断らないと、そればっかりが頭の中を回っている。
「今日は遅かったんだね。」
上川が言った。
「遅番だったから。」
「そうなんだ。」
「先生、やっぱり帰ります。」
奈江はそう言った。
「食事くらい、いいだろう。」
「苦手です。そう言うの。」
「松下さん、結婚してたんだろう。男の人と一緒にいた事あるんだろうし。」
「そうですけど。」
「何が食べたい?こんな時間だから、あんまり選べないけど。」
「なんでも。」
「じゃあ、焼肉にでも行こうか。知り合いの店があるから。」
店に入ると、薄暗い個室の様な空間に通された。
「飲めるよね?」
上川は瓶ビールを頼んだ。
小さくて形がキレイなコップに、奈江はビールを注いでいく。
「ありがとう、松下さんも。」
「私、やっぱり飲まないでおきます。ずっと頭が痛くって。」
「そっか、じゃあ、ウーロン茶でも頼もうか。」
「すみません、もっと早くに言えば良かったんですけど。」
「何が好き?」
上川は奈江を見ている。
「なんだろう。」
奈江は下をむいた。
生肉が運ばれ、上川が焼いていた。奈江も焼こうとトングを取ったが、この前見た映画を思い出し、上川の顔を見つめた。
「どうしたの?」
「いえ、なんでも。」
目の前にある生肉が、手術で切り取られた人の一部の様に感じ、奈江は気持ちが悪くなった。
「松下さん、大丈夫?」
「ごめんなさい、先生。ちょっと調子が悪くて。」
「そっか。それならフルーツでも頼もうか。」
「いいえ、食べます。美味しそうですね。」
奈江はそう言って肉に手を伸ばした。
店を出ると、上川は新築した自分の病院へ、奈江を案内した。
真新しい塗料の匂いの立ち込める病院のロビーは、吹き抜けになっているせいか、照明が消えていても、昼間の様な錯覚を覚える。
「ここで、一緒に働かないか?」
上川はそう言って、待合の席に腰を下ろした。
「仕事が嫌なら、専業主婦になってもいいんだし。」
「先生、前にも言ったけど、私は今の病院から離れるつもりはありません。それに、もう二度と結婚するつもりなんてありません。」
「みんな君を傷つけてるじゃないか。あの技師長も、師長も、君の元旦那だって。みんな捨てて、ここにおいでよ。ここなら松下さんの事を知る人は誰もいないよ。」
「これから新しい人間関係を作るなんて、疲れます。」
「ここに座って。」
奈江は上川の隣りに座ると、上川は奈江の肩に手を回した。
「痛っ、」
「どうした、静電気とか?」
奈江は帯状疱疹が出ているとは言えず、黙って下をむいた。
「松下さん。1回失敗すると、どうしたら上手くいくのかわかるだろう。結婚に憧れだけを抱いている女の子達よりも、一度辛い思いをした人の方が、ずっと一緒にいられると思うんだ。」
上川はそう言った。
「先生は、わざわざ離婚した女の人を探していたの?」
奈江は上川の方をむいた。
「たまたま松下さんがそうだっただけだよ。俺といると、過去の事も話さなくていいから、そっちも都合がいいだろう。」
上川は奈江の顔を見た。
「先生は結婚した事、あるの?」
「ないよ。結婚までの課程を、恋愛から始めるのって、なんか面倒に思うんだよ。相手の立場を理解して、結婚の契約をして、それから自由に暮らしていくのが理想だね。恋愛から始めると、昔の方が優しかったとか、約束が違うとか、そういう事で諍いになるだろう。人なんて年を取っていくんだし、出会った頃のままでいるなんて、到底無理な話しだよ。もちろん、子供がほしかったら作るし、夫の義務も、父親の義務も果たすから、それ以外は好きにさせてほしい。」
上川が言っている事は、少し前まで、自分もそう思っていた。改めて相手に言葉にされると、ひどく冷たい事を言っている様に感じる。こういう話しは、映画を見ているように、一時停止したり、早送りできないかな。
「先生、そういう考えに賛同してくれる人を探したらどうですか?今、いろいろあるじゃないですか、パーティーとか、アプリとか。」
奈江はそう言って立ち上がった。
「松下さんは、まだ恋愛しようとか思ってた?それなら、結婚を前提に付き合おうか。」
上川が慌てて言った。
「私は気が済むまで仕事を続けます。1人で死んだって、それはそれです。」
上川は奈江に近づいて、両手腕を掴んだ。
「寂しいとか、思わないの?」
「それは結婚しても、誰かと一緒にいても同じです。寂しいって気持ちなんて、一番必要ない感情ですから、あんまり考えない様にしてます。」
「松下さん、本当に辛い思いをしたんだね。」
上川は奈江を抱きしめた。
「先生、痛いです。ごめんなさい。」
奈江は上川から離れた。
「送っていくよ。」
上川はそう言った。
「大丈夫です。」
奈江は病院を出た。
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