第5話 折れた鉛筆

 朝起きると、久しぶりに飲み過ぎたせいか、頭が痛かった。

 ボサボサになった頭をかきながら、洗面所にいくと、髪の毛が洗面台にパラパラと落ちた。いろんな事を気にしないようにしていても、やっぱり体は正直なんだ。

 落ちた髪の毛は、恋愛に対する未練なのか、仕事に対する後悔なのか、奈江は薄いピンク色の洗面台に貼り付いた髪の毛を見つめた。どうせ抜けるならと、手で髪を梳き、指の間についてくる髪の毛を集めて、ゴミ箱に捨てた。

 夫と会話がなくなった頃、頭の片側が痛くて触ったら、そこに瘡蓋ができていた。背中の片方にも湿疹があるのを見つけ、きっと帯状疱疹に罹ったのだと思った。触ると痛む症状は、少し経つと服が擦れるだけでも痛みが走るようになった。それでも、そのうち治るだろうと思って放っておいた。寂しいなんて感情で、こんな事になった自分が、とても情けなかった。悔しい相手に弱さを見せるくらいなら、ここのまま朽ちてなくなってしまっても、それはそれでかまわない。

 死んだ後、その人の前に出ていけるだけの怨があれば、話しのひとつにもなれるだろうけど、なんだかんだいっても、自分は自由に暮らしている。誰かを恨む気持ちもなければ、幸せにしがみつくつもりもない。

 奈江は歯磨きをしながら、村岡の置いていったDVDを眺めた。綺麗事じゃないんだよ。最近の戦争映画って、英雄を作り上げたり、非恋に結びつけたりするけど、戦争の真っ只中って、正常な感情なんか本当はどこにもないのに。

 この話しは、リアル過ぎる。

 奈江はまた布団に潜り込んだ。目を瞑っても頭の痛みが治まらないので、薬を飲もうと起き上がって冷蔵庫に水を取り出しにむかった。

 

 玄関のチャイムがなる。

 覗き窓から外を見ると、村岡が立っていた。奈江はチェーンを掛けたまま、ドアを開けた。

「何?」

「おはよう。今日は休みって言ってたから。」

「休みだけど、来てもいいとは言ってないよ。」

「知ってるよ。俺が勝手に来たんだから。ねぇ、ここ開けてよ。」

「頭痛いから、今日はダメ。」

「それは酒のせいだろう。病気じゃないなら、話しをしようって。」

「ごめん、それなら後で電話するから。」

 奈江はドアを閉めた。

 奈江がドアから離れると、村岡は何度もチャイムを押してきた。

「ちょっと、今どきの小学生でもそんなイタズラしないよ。」

 奈江は再びドアを開けた。村岡は笑って、

「入れてくれるまで、何回もならすから。」

 そう言った。奈江は仕方なくチェーンを外し、村岡を中に入れた。

「ケーキ買ってきた。」

「いらないよ。」

「お酒もあるよ。」

「村岡くん、歩いて来たの?」

「家、近所だから。」

「そうなの?」

「ここから走って30分。」

 奈江はため息をついた。

「この前も歩いて来たの?」

「この前は車。飲んだからそこの公園に停めて帰った。」

「それは悪かったね。言ってくれたら、お酒なんか出さなかったのに。」

「勝手に飲んだのは俺だから。」

「村岡くん、今日は雨予報だよ。飲んだら、急いでタクシーで帰った方がいいよ。それか、飲まないで車で帰るか。」

「タクシーで帰るよ。松下、これ冷やしておいて。」

 村岡は奈江に買ってきた缶ビールや缶酎ハイを渡した。

「こんなに飲むの?」

「松下も飲むだろう。お菓子もたくさん買ってきたから。」

 奈江は頭を押さえた。

「二日酔いなのか。」

「そうだね。薬飲もうとしてて。」

「じゃあ、早く薬飲めよ。」

「うん。村岡くんはなんか飲む?」

「俺、熱いコーヒーとか飲みたいわ。」

「家にコーヒーなんてないの。冷たいお茶でいい?」

「じゃあ、いいよ、それでも。」

 奈江は村岡に缶ビールを出した。

「お茶って言っただろう?」

 村岡が奈江に言った。

「せっかく買ってきたんなら、飲んだら?」

「だって松下は飲まないんだろう?それなら俺も少しは我慢するよ。」

「合わせる事なんてないんだから、どうぞ。」

 村岡は缶ビールの蓋を開けた。

「松下も飲もうよ。」

「今日はいい。」

「なんだよ、そんなに具合悪いのか?」

「大丈夫、話しくらいはできるから。」

「ケーキ食べるか?」

「うん。」

 村岡はケーキの箱を開いた。皿とフォークを持って奈江がやってきた。

「村岡くんが選んだの?」

「そうだよ。」

 奈江はモンブランを選んだ。

「こっちのフルーツの方にしないのか?」

「そっちは食べづらそうだし、私、果物って苦手なの。」

「こういうの嫌いな女子っているんだな。」

「うん。口の中が痒るなるの。だからケーキを食べる時は、生クリームに混ぜて飲み込んでた。中学生になった頃かな、私、果物が嫌いなんだって気がついたの。」

「やっぱり、変なヤツなんだな。」

「村岡くんは、何でも食べれる?」

「俺は何でも食べるよ。」

「もしかして、味覚音痴?」

「それはお互い様だろう。松下だって、旬なものとか見た目とか、そんな事にこだわらないんだろうし。」

「そうだね。結局、味が濃ければ美味しいんだから。」

「本物に看護師なのか?保健師やってる先輩が言ってたぞ。松下は保健師課程でも優秀だったのに、なんで3交代の看護師をやってるんだろうって。わざわざキツイ仕事を選ばなくっても、役所でのんびりやればいいだろう。」

「価値観が違うの。」

 奈江は村岡が置いていったDVDを触った。

「一緒に見るか、これ。」

「ううん。これはもう少ししてから、1人でゆっくり見たい。」

「そっか。最近は映画見たか?」

「見たよ。異端の鳥。」

「すごいの見てるんだな。」

「眠れない時にね、少しだけ見ようと思ったら、全部見ちゃった。」

「あの映画って、感想なんか出てこないだろう。ただ重たい感情が溜まるだけ。どこを切っても辛いシーンばっかりだし。」

「それがいいの。時々、思い出して考えるけど、人間って、みんな自分の都合で生きてるの。おかしな理由をつけて。主人公の子供は、それに巻き込まれたんだろうね。」

「松下、病んでるのか?」

「そうだよ、病んでる。」

「結婚したって聞いてたのに、なんで別れたんだよ。」

「御縁がなかっただけだよ。美味しかった。ごちそうさま。村岡くん、ありがとうね。」

 奈江は食べ終えたケーキの皿を片付けた。

「ごめん。」

「何が?」

 キッチンへ向かう奈江の背中に村岡が声を掛ける。

「余計なこと言ってさ。俺の中で、なんで松下がこんな風に生きてるのかって、思ってたからさ。」

「言ってる意味がわかんない。」

「俺もうまく言えないよ。なあ、一緒に飲もうよ。まだ、頭痛いのか?」

「これはね、ずっと治らないよ。」

 村岡は奈江の前にくると額を触った。

「風邪でも引いたのか?」

 奈江の携帯がなった。師長からだ。

「あ~、電源切っておくの忘れた。」

 奈江はそう言って電話に出ようとした。

「嫌なら出なきゃいいだろう。」

 奈江は村岡を言葉を無視して電話に出た。

「もしもし、若山さん?あっ、ごめんなさい松下さん。」

 師長が名前を間違えた事が、急に頭にきた奈江は、村岡の頭を叩いた。

「痛てっ!」

 師長は村岡の声に気がつくと、

「あら、誰かと一緒?」

 そう言った。

「はい。友人と一緒にいました。」

「あら~、もしかして遠くにいたりする?」

「少し。」

「そうなのね。じゃあ、大丈夫よ。」

 師長は早々に電話を切った。

「村岡くん、ありがとう。」

 奈江はそう言って冷蔵庫から缶ビールを持ってきた。

「なんかいい事あったのか?」

「別に。」 

「頭は?」

「もう治った。」

「松下のこういう性格に付き合えるヤツなんて、俺くらいだな。」

「何言ってんの?誰も無理だよ。村岡くん、乾杯!」

「ああ、お疲れ様。」  

 2人は缶ビールを飲んだ。

「コップも出さないでごめん。」

 奈江が言った。

「いいよ。俺、泡嫌いだし。」

「映画でも、見ようよ。」

 奈江はパソコンを開いた。

「いいぞ、何にする?」

「海と毒薬。」 

「そういうの選ぶのか。」

「見たことある?」

「本で読んだ。」

「村岡くんが知らない話しってないんだね。」

「そんな事ないよ。たまたま俺と松下の見てるものが似てるんだろう。自分達だけが全部知ってるみたいに思えるけど、苦手なジャンルだってあるんだし。」

「そうだね。そうだった。」

 2人はモノクロの映画を、ただ黙って見ていた。

 淡々と進んでいくやり場のない話しに、見終わった後、村岡はう~んと腕を組んだ。

「肝臓、食べたのかな?」

 奈江がそう言うと、

「はっきり言うなよ。それって想像したくない事だろう。」

 村岡は奈江の肩に手を置いた。

「病院の中だってね、ここまでひどくなくても、いろいろあるよ。」

 奈江は技師長の顔を思い出していた。

「松下、腹減ったなぁ。なんか作ってくれよ。」

「なんでよ。もう帰って。」

「まだ、話しが終わらないだろう。」

「ダメ、もう帰って。」

「そこにスーパーがあったから、材料買ってきて、鍋でもしようか。」

「村岡くんは人の話し、本当に聞かないね。」

「聞いてるだろう!それに松下の話しは、俺しか聞けないんだし。」

「そっか。」

 奈江は急に下をむいた。  

 別れた旦那は、仕事の愚痴が増える度に、そっけない返事ばっかりになって、たまにおもしろい話題を投げても、昔みたいに笑ってくれる事はなくなった。付き合いが長く続くと、みんなこうなるのだろうか。

「どうした?」

 村岡が奈江の顔を覗いた。

「なんでもない。」

「松下、前みたいに笑わなくなったな。」

「そうだね。あんまりおもしろい事って、そんなにないから。」

 奈江はそう言って、少し笑った。

「行くぞ。」

 村岡は奈江の腕を掴んだ。

「寒いから、上になんか着てった方がいいな。」


 スーパーに行くと、明るい照明に奈江は目を細めた。野菜が並んでいる棚なんて見るのは、いつ以来だろう。1人の食事なら、コンビニで全てが揃う。フライパンさえ、しばらく出した事はなかった。鍋、あったかなぁ。大丈夫か、電気の鍋があった。

「白菜にする?キャベツにする?」

 村岡が聞いてきた。

「俺、辛いやつが食べたいんだよね。それならキャベツの方がいいのかなって。」

「そうだね、それならキャベツと豚肉がいいんじゃない?ニラも入れて、しめじも入れて。」

「海鮮も入れようか。」

「どうぞ。」

 棚の間から、買い物カートを暴走させた子供が出てきた。

「危ないからね。」

 村岡がそう言うと、母親は村岡をギロッと睨んだ。

「後でSNSで叩かれるかもよ。」

 奈江はそう言って笑った。さっきの子供を目で追うと、高齢の女性にぶつかり、女性は腰をさすっていた。

「弱者って、どっちなんだろうな?」

 村岡は言った。

「子供がいる事は女の免罪符なのか?」

 少し苛ついている村岡に、

「村岡くん、そんな事言わないの。」  

 奈江はそう言った。買い物カゴが重くなったので、奈江がよいしょと抱え直すと、村岡はそれを代わりに持った。

「最初から、俺が持てば良かったな。」

 そう言って缶ビールを数本カゴに入れた。


 台所に立つ奈江の横で、村岡は缶ビールを開けた。

「勝手だね。」

 奈江が言った。

「松下も飲めよ。」

「私はいい。」

「なんで、女が料理を作るんだろうな。」

「男が戦争に行くからでしょう。最近、男が家にいるから、世の中がおかしくなった。」

「すごい解釈だな、それ。」

「女も戦ってこい、男も料理をするからってなればいい事なのに。」

「なるほどな。」

「私が作った料理なんて、美味しくないよ。外で戦ってる方が、好きだからね。」

「松下は田嶋と結婚するのかと思ってた。」

「それは昔の話し。」

「田嶋が別の奴と結婚したから、松下とは終わったんだろう。」

「そういう話しはもういいよ。」

「あいつも離婚したんだよ。子供は元嫁が引き取ったらしい。」

 聞こえているはずなのに、奈江は話しに入ってこない。

「村岡くん、これ向こうに持っていって。」

 村岡は奈江に言われた様にテーブルに鍋を運んだ。

「あとは電気を入れたら、温かくなるから。」

 奈江はそう言って、缶ビールを持ってテーブルの前に座った。

「その間に風呂入ってきていいか?」

 村岡が言った。

「はぁ?」

「ちゃんと着替え、持ってきたから。」

「ちょっと、何考えてるの?」

「だって、いくら話したって足りないだろう。夜中までかかるかと思ってさ。」

 奈江はため息をついた。

「お風呂、こっちだから。」

 村岡を浴室へ案内すると、携帯を見た。

 田嶋から着信があった。

 選ぶ道が違っていたら、どんな人生だったんだろう。たった5年の結婚生活なのに、何もかもが色付いて、何もかもが一瞬で色を失った。あの時見た色を忘れない様に何度も瞬きをして、忘れてしまった色を思い出そうと目を擦る。

 奈江は膝に抱えると、顔を伏せた。

「おい、松下、吹いてるぞ!」

 村岡が慌てて電源を切った。

「ごめん。」

 奈江は謝った。

「危ない所だったな。」

「ちゃんと見てなかったから。すっかりクタクタになっちゃったね。」

「松下は外で戦ってる方が合ってるかもな。」

 奈江は村岡を見て笑った。

「食べようよ。」

 奈江がそう言って鍋の蓋を開けると、テーブルの上に湯気が立ち込めた。

「少し、辛くし過ぎたかもな。」  

 村岡がそう言った。

「たくさんビール買ってきて良かったね。」

 奈江はそう言って笑った。

 洗い物を終えると、奈江は布団を出した。

「村岡くん、自分で敷いてね。」

 奈江はそう言うと浴室へむかった。


「なんで敷いてないの?」

 携帯を見ている村岡に、浴室から出てきた奈江が言った。

「敷く事ないよ。一緒に寝ればいい事だし。」

 村岡は隣りの部屋を指差した。

「村岡くん、ちょっとふざけ過ぎだよ。」

「ふざけてなんかいないよ。」

「早く、布団敷いて。」

 奈江はそう言って隣りの部屋に入った。

「松下、開けろよ。」

 村岡がドアを叩いている。

「絶対開けない!」

「わかったよ。」

 村岡はそう言うと、ドアを叩くのをやめた。

 奈江はドアの近くに腰を下ろすと、カーテンの隙間から入ってくる夜空を眺めた。ずいぶん明るいと思ったら、雪が降っているのか。雨は音がするのに、雪の音は聞こえない。小さな雪の粒は、降っては消えていくのに、いつの間にかアスファルトを隠してしまう。 

「松下、携帯。」

 村岡がドアの向こうでそう言っている。

「そこに置いておいて。」

 奈江はそう言った。

「なんかなってるぞ。」 

「うん。」

「出なくていいのか?」

「うん。」

「田嶋からだぞ。」

「そ。」

「松下、」

「何?」

「やっぱり、帰るわ。ここにいると迷惑なんだろう。」

「村岡くん、」

 奈江はそっとドアを開けた。

「雪、すごく降ってるよ。このまま歩いて帰ったら凍っちゃうよ。」

「凍らないよ。体なんか36度はあるんだし。」

「ごめん、もう少し話しをしようよ。」

 奈江は村岡の布団を敷いた。

「寒くないかな。」

 村岡に聞いた。

「大丈夫だよ。」

 その言葉を聞くと、奈江はホッとして布団の上に座った。

「自分が話したいタイミングと、相手が話したいタイミングって、一緒じゃないんだよね。村岡くん、嫌な事言ってごめんね。」

「松下は話しを聞きたいタイミングも、人とズレてる。」

 村岡は注意をするように、奈江に話した。

「そうだね。本当に。」

 力なく答えた奈江の肩を触ると、

「さっきの映画の話ししようか。肝臓の事も教えてやるよ。」

 村岡はそう言った。奈江は少し痛そうな顔をしたが、村岡に笑顔を見せた。

「疲れたら言えよ。適当に話しを切り上げるから。」

 村岡はそう言って奈江の隣りに座った。奈江は座っている位置をずらし、村岡の少し斜めに座った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る