第4話 勘違い

「松下さん、技師長は8番だって指示したと言っているわよ。」  

 師長が奈江にそう言った。

「8番には高校生の女の子が入っていたと思います。」

 奈江は技師長の方を見た。

「橋本さんは、13時から8番で検査の準備をしていたんだ。それを遅れてきたこの人が、8番を10番と勘違いしてさっさと入れてしまったから。」

 技師長は奈江を睨んだ。

「いろんなミスが重なってしまったのよね。13時からある同じ検査。たまたま橋本さんには使ってはいけないものが用意してあるレントゲン室に、松下さんは誤って患者を入れてしまったのね。検査についていた看護師はなんて言ってるの?」

 師長は技師長にそう聞くと、

「きてすぐの派遣ですから、わからなくても仕方ないでしょう。」

 技師長は腕を組んで面倒くさそうに言った。

「松下さん、外来にはちゃんと申し送りをしないとダメたったわね。」

「はい、すみませんでした。」

 奈江が謝ると、勝誇ったような技師長の顔と、問題を解決したのは自分の手腕だと、手柄を取ったような師長の顔が、はっきりと目に焼きついた。今は何を言ったって、言い訳になる。亡くなったあの老人が、本当の事を知っているんだから、別にいいか。


「ちょっと、松下さん。」

 師長と話しを終えた奈江の事を、看護助手の松川が呼んだ。手招きされて向かった先には、数人の看護助手達が集まっている。

「松下さん、師長になんか言われたの?もしかして橋本さんの事?」

「えぇ、まぁ。」

「あの技師長もズルいわよね、本当、男のくせに小さい奴。だいたい、技師長っていう器じゃないんだし。」

 松川はそう言うと、奈江は愛想笑いをした。

「上川先生が開業するみたいだから、私と堀さんはそっちについて行こうと思っているの。永井さんは結婚してやめるし、桃田さんは来月から外来に行く予定。ここにはもう、誰もいなくなるわよ。松下さんも上川先生の病院に、私達と一緒について行かない?」

「せっかくの話しだけど、私は行かないです。」

「じゃあ、ずっとここにいるって言うの?今回の事だって、みんな松下さんのせいにして、頭にこない?」

 松川は奈江の腕を掴んだ。

「頭にきてますよ。その場で、喚き散らしてやりたいくらいです。」

 奈江はそう言って松川の顔を見た。

「それなら、どうしてここにいようとしているの?」

 みんなが奈江の顔を見る。

 それはね、環境が変わる事への恐怖があるから。今は同じ時間に流されている方が、なんとなく楽なのよ。

「私はここに転職したばかりですから。」

 奈江は少し笑うと、その場を後にした。

 

 お昼休み。

「奈江、上川先生が探してたよ。」

 休憩室で牛乳を飲んでいると、唯が声を掛けてきた。

「今日は牛乳?」

「うん。ちょっとイライラしてるからね。」

「カルシウム不足ってことね。」

 奈江は飲み干した牛乳をゴミ箱に捨てると、パソコンの前にいる上川の前に向かった。

 言われる事は、だいたいわかっている。また、あの日の検査の事だろう。

「上川先生。」  

 奈江は上川直登かみかわなおとの横に立つと、

「橋本さんのことですか?」

 そう言った。

「ああ、それは違うよ。ちょっといいかな。」

 上川は奈江を物品庫に連れて行った。

「松川さんから聞いたけど、ここに残るって本当?」

「あっ、えっ?」

「あんな事があったのに、よく平気で仕事ができるね。」

 上川は呆れるような顔をしていた。

「説明しても、どうせわかってもらえないですから。黙って収めるほうが利口だと思いますけど。」

「そうかな。それって、すごく頭にこない?」

「もう面倒くさいんです。」

「それで、人が死んだんだよ。このまま終わらせたら、またこういう事が起きるかもしれないし。」

「そうですけど…。」

「ここをやめて、俺の病院へ来ればいい。」

「いいえ。いいんです、ここで。」

「なあ、松下さん。看護師やめて、専業主婦になったらどう?」

「誰がですか?」

「松下さんだよ。離婚してるって聞いたよ。俺の奥さんになってくれないか。このまま看護師なんてやっていたら、体だって心だってボロボロになっちゃうよ。」

「せっかくのお話しですけど、私はここでこの仕事を続けます。」

 奈江は深く頭を下げると、仕事に戻った。

 橋本さんへの医療事故を掘り下げるなら、主治医の自分が追及すればいいのに。それに、どうして女は、男のものにならなければいけないのだろうか。名前や実家だけでなく、他にも多くのものを捨てなければいけないのに、男は世間から、守ってやったつもりでいる。

 勝手に戦争を始めておいて、女と子供を置き去りにしたのは男なのに。何もなくなった国の中で、家族のために必死で食べ物を探したのは、女なんだよ。

 もう、どっちがなんてバカバカしい。

 せっかく手に入れた自分という権利は、一体いつ、役に立つのだろう。

 

「奈江!」

 唯が探しにきた。

「検査に降ろそうか。奈江、レントゲン室に行きづらいだろうから。」

「もう、そんな時間?」  

 奈江は腕時計を見た。

「ねぇ、上川先生と何を話してたの?」

「別に何も。」

「嘘。先生、なんか落ち込んでたよ。大きなため息なんかついちゃってさ。」

「ふ~ん。検査、行ってくるね。」


 レントゲン室の前で順番を待っていると、

「5番。」

 技師長が顎で合図した。

 奈江はそのまま動かず、前をむいた。

「5番って言っているだろう!」

 技師長が大きな声をあげると、

 車椅子に乗っている高齢女性が震えた。

「大丈夫ですか?」

 奈江はそう言って女性の背中をさすると、近くにいた人が、一斉に技師長の顔を見た。

「坂口さん、どうぞ。」

 中堅の技師が5番の扉を開けて、患者の名前を確認した。奈江は技師長の方を見ると、技師長は奈江に隠れるように扉が閉めた。

 

「奈江、もう帰ろうよ。」

 夕方、唯が奈江の袖を引っ張った。

「先に帰ってて、明日の準備がまだ残っているから。」

 奈江は記録を書くためにパソコンに向き合っていた。

「松川さん達、明日また有休取ったんだってね。」  

 キーボードを叩きながら、唯の話しを聞く。

「そうなの?」

「上川先生の開業する病院について行くって話し、本当かな?」

 さっきの話しは、もう広がっているのか。

「本当なんじゃない。」  

 奈江は適当に返事をすると、

「上川先生の実家って、消化器専門の病院だって聞いたよ。上川先生が院長になって、お父さんが理事長。弟さんも医者だって。大きな病院らしいけど、上川先生って、どこか頼りないんだよね。いつも一人で決められないし。」

 奈江は記録を書き終えると、

「唯、明日の検査の指示見てくれる?採血の準備って、まだしてないよね?」

 そう言って唯を見た。

「そうだった。松川さんが仕事放棄したんだ。」

 奈江が壁時計を見ると、20時を回っていた。

「なんか食べて帰ろうか。」

 唯にそう言うと、

「そうだね、急いで片付けるわ!」

 唯の目がパッと明るくなり、2人は明日の準備を始めた。

 

 すっかり寒くなった外を、両手をすり合わせて歩いていく。

「明日は?」

 唯が聞く。

「やっと休み。」

 奈江はそう言った。

「唯は?」

「準夜。」

「ねぇ、それなら飲んで帰ろうか?」

 奈江は両手に息をかけた。

「いいよ。奈江、いい店知ってる?」

「あんまり外に行かないからわからない。安いそうな店に適当に入ろうよ。」

「それなら遅くまでやってるファミレスでもいいんじゃない?」

 ファミレスならカップルと家族連ればっかりじゃん。奈江はそう思い、

「せっかくなら、居酒屋に行こうよ。」

 唯に言った。


 2人は小さな居酒屋に入った。

 運ばれてきたビールを思いっきり飲むと、その冷たさに体が少し震えた。

「そうだ。携帯の電源、切っておくわ。」

 奈江はそう言って携帯をカバンから取り出した。

「師長から電話が来るんでしょう?」

 唯がそう言った。

「唯は来ない?」

「来るけど出ないもん。それに、明日は準夜だから絶対に勤務なんか代われないし。」

 村岡からの着信に気がついて、奈江は電源をそのままにした。

「橋場さんのお子さんって、よく熱出すよね。1歳って言ったっけ?」

 唯が言った。

「1歳半とたしか…、3歳の子もいるよね。」

「旦那さんって、普通の会社に勤めてるんでしょう。病院関係の人じゃなくて。」

「そうだね、そう言ってた。」

「最近、別れたみたいよ。橋場さんが子供が熱を出す度にお休みするのは、仕方ないよね。」

「そうだったの。」

「奈江もバツイチだしさ、主任もそうだし、看護師って多いよね。離婚しても一人で生きていけるんだろうし、この仕事と家庭の両立なんて、無理なんだよ。」

「そうかもね。唯はどうなの、結婚とか考えないの?」

「私?私は時々遊ぶ人はいるよ。だけど、それだけ。お互いの時間を提供し合うのって、なんだかすごく面倒くさい。」

「そうだよね。本当にそう思う。」

 どこからが着信音がなっている。

「奈江、携帯なってるよ。電源切らなかったの?」

「そうだった。」

 唯がそう言うと、奈江はカバンを覗いた。

「師長から?」

「ううん。ちょっとごめん。」

 電話の相手は村岡だった。

「松下、」

「何?」

「今近くにいるだろう?」

「近くって?」

「職場の集まりで、隣りの店にいるから、今からそっちに行く。」 

 村岡がそう言うと、店の玄関が開いた。

「こんばんは。」

「こんばんは。」

 奈江は電話を切った。

「村岡くん、なんで来るの?」

「なんでって、店に入っていくのが見えたから。」

「そっちの集まりは?」

「別にいいんだ、どうせつまらないし。後でもう一人くるけど、一緒に飲んでもいいだろう。」

 奈江は唯の顔を見た。

「私は別にいいけど。」

 唯はそう言って、メニュー表を村岡に渡した。

「唯、ごめん。」

 奈江はそう言うと、村岡から少し離れた。

「村岡くん、あんまり調子に乗らないでね。」

「そんな事いうなよ。ここは俺が奢るから。」  

 村岡が奈江に近づいた。

「いいよ、そんな事しなくても。私達がどれだけ稼いでいると思ってるの?」

 奈江がそう言うと、

「そうだけど、俺は男だから。」

 村岡はハイボールを注文した。

「奈江の彼氏?」

 唯が村岡に聞いた。村岡は奈江の顔を見ると、少し奈江が怒っているように感じたので、冗談で言おう思っていた言葉を飲み込んだ。

「高校の同級生。」

 そう言うと、店のドアが開いて、男性が入ってきた。

「あっ、」

 奈江が目をそらした田嶋龍二たじまりゅうじとは、中学の同級生だった。

「久しぶり。」

 田嶋は奈江にそう言うと、唯の隣りに座った。

「俺と村岡は、同じ市役所にいるんだよ。俺は水道課にいて、松下が引っ越して名前が変わったって知って、ちょっとびっくりした。」

 田嶋はそう言って、通りかかった店員にビールを注文した。

「そういうの、ダメじゃないの?ここの市役所さんは本当にモラルも何もないんだね。人の秘密は自分の話しのネタだとでも思っているの!」

 奈江は少し苛ついた。

「知りたくなくても、わかってしまうんだって。こうして会うまでは、他のやつには絶対言ってないよ。」

 村岡はそう言って食べ物を選び始めた。

 飲み物がきて、4人は乾杯をする。

「奈江、さっきからめっちゃ不機嫌。」

 唯がそう言うと、

「松下は昔から顔に出るから。」

 田嶋はそう言った。

「すごく我慢してる方だと思うけど。」

 奈江が言った。

「仕事の時は別人だよ。急に何かを頼まれても、淡々とやってるし。」

 唯が田嶋にそう言うと、

「責任感はあるけど、肝心なところはうまく避けて通ってるよな。逃げ出したくなると、そろそろヤバいんじゃないかって、そんなオーラ出すだろう。誰も話しかけんなって。」

 田嶋は村岡を見た。

「まさに今それか。」 

 村岡はそう言った。

「2人は高校も一緒?」

 唯が奈江に気を使って村岡と田嶋に聞いている。

 雰囲気を悪くした自分を、奈江は少し責めた。

 いつもこうだ。

 少しの事でも、元旦那とよくモメた。どうしていつも自分の都合ばかりを優先させるのかと言われても、ギリギリまで我慢していたつもりだった。

 いつの間にか、こちらの都合なんてどうでも良くて、新しい女の人とは、都合を作ってまでも会いに行っていたくせに。

「松下、聞いてるのか?」

「あっ、ごめん。」

「ほら、こういうやつなんだよ。たまに自分の殻から出てこない。」

 田嶋は唯にそう言うと、

「俺と田嶋は高校は違うけど、小学校の時から同じ野球少年団に入っていて、今でも市役所のチームで一緒に野球をやってるんだよ。今日はその慰労会があったんだけど、乾杯が終わったら、抜けようかって話していたところに、松下がここに入って行くのが見えたから。」

 村岡はそう言った。

「飲めるんでしょう?ここは俺達が奢るから、たくさん飲みなよ。」

 田嶋は唯にそう言ってメニューを広げた。

「松下、この前の見たか?」

 村岡が奈江に聞いた。

「まだ。なかなか見る時間がなくて。」

「一気に見ようとしてるのか?」

「そうだね。見るなら一気に見たいと思うけど、あの話しって、けっこう体力使うからね。」

「最初に見たのはいつだった?」

「2年前かな。」

「1人で見たのか?」

「そうだよ。」

「誰かと一緒に見るとかなかったのか?」

「ないよ。」

「そうだよな、あんまり誰かと見るもんじゃないか。」

「感想を話したくても、誰にも話せない。」

「それが、平和なんだよ。」

「そっか。」

「みんな決められた三角の中で、適当に生きているんだから。」

「三角って、階級の事?」

「そう。松下ならわかるだろう。」

「そうだね。上は少なくて、下はたくさん。」

 奈江は老人からもらった鏡を村岡の前に出した。

「村岡くん、これさ。」

「ずいぶん古い鏡だな。」

「この前亡くなった患者さんが、私のポケットに入れたみたいなんだけど、やっぱり供養した方がいいかな?」

「松下に持っててほしかったんじゃないの?」

 奈江は鏡を覗いた。

「腐ってるって。」

「何が?」

「顔。」

「そんな事言われたのか?」

「別にいいけど。本当の事だし。」

「気にしてるのか?」

「これをくれた人が、何を言いたかったのか、すごく気になってね。」  


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