仕事と家庭の狭間に

春風秋雄

俺は2か月前にバツイチになった

「君はこんな簡単な作業でもミスするのか!」

思わず声を荒げてしまった。目の前の若い女性社員は泣きそうな顔をしている。

「もういい。次からは気をつけてくれ」

女性社員がすごすごと自分の席に戻った。

最近の俺はイラついている。自分でもそれはわかっている。彼女のミスは確かにあり得ないミスだった。しかし、あとで修正すれば問題はない。会社にとって重大なミスというほどのものではなかった。なのに俺は、つい声を荒げてしまった。

「伊久間君、ちょっと言い過ぎだったのじゃない?」

隣の部署の部長成瀬智香(なるせ ちか)が近寄って来て言った。

「聞いていたのか?」

「たまたま通りかかったら聞こえたの」

「自分でも言い過ぎたと反省しているところだ」

「気を付けないとパワハラで訴えられるわよ」

「わかっている。気を付けるよ」

「色々あることはわかるけど、気を付けないとね。憂さ晴らしに今日飲みに行く?」

俺はチラッと成瀬の顔を見た。成瀬は特に同情している様子でもなく、いつもの感じで誘っているのがわかった。

「そうだな。久しぶりに付き合ってもらおうかな」

「じゃあ、仕事が終ったら連絡して」

成瀬はそう言うと、颯爽と自分の部署へ帰って行った。その後ろ姿を見ていると、美人でスタイルも良く、バリバリに仕事が出来る女性部長ということで、若い女性社員から憧れの目で見られているのがよくわかる。


俺の名前は伊久間明憲(いくま あきのり)。総合商社に勤務しており、今は輸入家具などを扱う仕入第1部の部長をしている。現在45歳で、2か月前にバツイチになったばかりだ。

成瀬智香は俺と同期入社で、同い年の45歳だ。食品関係を扱う仕入第2部の部長だ。同期入社は20名ほどいたが、その大半は退職しており、部長職まで伸し上がったのは俺と成瀬だけだった。成瀬は20代のうちに学生時代から付き合っていた人と結婚し、宮本智香から成瀬智香になった。結婚してからも仕事は続け、10年ほど前に事故で旦那さんを亡くしてからは、息子さんと二人で暮らしている。早いもので息子さんも高校3年生だと言っていた。

俺は32歳で結婚した。相手は友人の奥さんの友達だった。友人の結婚式に出席した時に出会った。友人夫婦からの応援もあり、俺たちは付き合い、そして結婚した。1男1女を授かったが、子育ては妻に任せきりで、俺はほとんど子供の相手はしなかった。友人夫婦からは妻が不満を言っていると、何度も忠告を受けたが、俺は仕事優先で家庭を顧みなかった。子供たちが小学校へ通うようになり、妻は仕事に復帰した。独身時代に働いていた会社の社長に相談したところ、戻ってきてほしいと言われたということだった。妻がどれくらい給料をもらっているのかは興味なかった。家計に関しては俺の給料で十分すぎるほどある。自分の小遣いを稼ぐくらいだろうと思っていた。2年前にいきなり妻が離婚したいと言ってきた。寝耳に水だった。離婚してどうやって生活するのだと訊くと、俺の想像をはるかに超えた金額の給料をもらっていた。離婚には承諾しないと言ったが、妻はマンションを借りて子供を連れて家を出て行った。それから弁護士を通じて正式な離婚交渉となり、2年近くやりとりしているうちに、こっちが疲れて、離婚に応じたというところだ。


いつもの居酒屋で成瀬が聞いてきた。

「食事とかどうしているの?」

「ほとんど外食」

「栄養のバランスを考えないと体を壊すよ」

「そうは言ってもね。いくつかの店をローテーションで回しているだけだから」

俺がそう言うと、成瀬は何も言わず取り皿にシーザーサラダを盛って俺に渡した。

「離婚の原因は何だったの?」

妻が家を出たのを知っても、成瀬は今までそのことについて聞いてこなかったのに、今日は初めて踏み込んで聞いてきた。

「簡単に言えば俺が家庭を顧みなかったことかな」

「具体的には?」

俺は妻が言っていたことを並べ立てて説明した。

「なるほどね。それは伊久間君が悪いね。世の中の女性のほとんどがそう言うでしょうね」

「だって、俺は家族のために稼がなければいけなかったのだから、仕事優先になるのは当たり前だろ?その分、それなりのお金は家に入れていたのだから」

「それは言い訳だよ。私も旦那がいた時は仕事を言い訳にして、家事をおろそかにしていたけど、旦那がいなくなってからは、仕事をしながらでもちゃんと家事をして、毎日息子とは何かしらの会話をしていた。そりゃあ専業主婦の人に比べたら、息子には不自由させたこともあるかもしれないけど、それでも仕事をしながらでもちゃんと出来た」

それを言われたらぐうの音も出ない。

「だから、出来ないのじゃなくて、やらなかっただけ。私もそうだったけど、伊久間君も仕事に逃げていたのじゃない?」

「そうかもしれない。仕事を理由に家庭のことは全て妻に押し付けていたのだと思う」

「それでも奥さんを愛していたのでしょ?」

俺は妻を愛していたのだろうか?

「あれ?愛し合って結婚したのではないの?」

「もともと友人に勧められて付き合うことになって、結婚ってこんなものかなと思って、そのままの流れで結婚したから、本当に愛していたのかどうかは、今になってみるとわからないな」

「まあ、世の中の夫婦って、そういうのも多いから、そういう結婚もありだとは思うけどね」

「成瀬はどうなんだ?学生時代から付き合っていたのだから、旦那さんのことを愛していたのだろ?」

「愛していたわよ。いまでも愛している」

「そうか、だから再婚しなかったのか」

俺がそう言うと、成瀬は黙り込んだ。そして、しばらくしてからおもむろに口を開いた。

「再婚しなかったのは、多感な年頃の息子がいたから、ということもあるけど、旦那が事故でいなくなった時に、再婚はしないと決めたの」

成瀬は神妙な口ぶりでそう言った。それほど旦那さんを愛していたということなのだろう。俺が真剣な目で成瀬を見ていたものだから、成瀬はそのあと「まあ、仕事と息子の世話で再婚相手を探す暇もなかったしね」と茶化した。

「今まではそうだったかもしれないけど、息子さんも今年18歳で成人になるのだろ?もう息子さんのことは考える必要はなくなってきているけど、それでもずっと旦那さん一筋を通すのかい?」

「さあ、どうだか。この先、何が起こるかわからないけど、おそらくこのまま独り身を通して生涯を終えると思う。伊久間君はどうなの?落ち着いたら再婚を考えるの?伊久間君ならその気になれば再婚相手はすぐに見つかるとおもうけど」

「当分結婚はいいやって思っている。また同じことの繰り返しになるような気がするから」

成瀬は「ふーん」と言ったまま、それ以上何も聞かなかったので、その話は終わった。


成瀬の顧客から大きな案件が提案された。成瀬の部門が食品を卸しているレストランが、2号店と3号店を同時にオープンすることになり、その調度家具をすべてうちに任せたいと言ってきたのだ。早速成瀬と一緒にオーナーに要望を聞きに行った。一通りの要望を聞いて、帰りの車の中で成瀬が俺に提案してきた。

「今回の案件は、うちの部署との共同プロジェクトにしてくれる?」

「もちろん。あのオーナーは成瀬のことを信頼しているようだし、会社の実情をより理解しているのは成瀬だから、俺としても共同にしてくれた方が助かる」

「じゃあ、買い付けの出張は私も一緒に行くわね」

「部長自ら行くのか?」

「実情を知っている私が行かないと、オーナーの意向に合わないかもしれないから」

「わかった。じゃあ、こちらも俺が行くことにする」


イタリア行の飛行機は成瀬が予約した。ビジネスクラスの席を並びでとっていてくれた。うちの会社は部長職以上はビジネスクラスが許されているので助かる。

「隣でよかったの?飛行機の中くらい、別々に離れて座った方が気楽だったのじゃない?」

「伊久間君は別々の方が良かったの?」

「いや、俺は全然構わないけど」

「だったらいいじゃない。ふと思いついて仕事の話をしたくなるかもしれないし」

そう言われればそうだ。あのオーナーのことは知らないことばかりなので、成瀬に聞いておかなければならないこともあるかもしれない。そう思っていたが、いざ離陸すると、成瀬はほとんど寝ていた。長旅の場合は、窓側よりも通路側のアイルシートの方が楽だ。成瀬はアイルシートを俺に譲るように予約していたが、搭乗してから俺は窓側の方がいいと言ってアイルシートは成瀬に譲った。

トイレに行きたくなり、通路に出なくてはいけない。窓側の席はこういう時は不便だ。成瀬を起こさないよう気づかいながら俺は通路に出ようとした。正面から成瀬の寝顔が見えた。こいつ、こんな可愛い顔して寝るのか。そう思いながら足を進めていたら、成瀬のくつろいで伸ばしていた足に躓いてよろめいた。慌てて成瀬のシートのアームレストに捕まろうとしたその時、寝ていたはずの成瀬が俺の腕を抱え込んだ。

「危ないじゃない」

「ごめん、起こしちゃったね」

俺はそう言って体勢を整え通路に出た。トイレに行きながら、成瀬が俺の腕を抱え込んだときに肘に触れた成瀬の胸の感触が忘れられなかった。あいつ、意外と大きいんだ。入社以来、成瀬のことを異性として意識したことはなかった俺が、初めて成瀬のことを女性として意識した。


イタリアでの商談は順調だった。成瀬は英語もイタリア語も流暢に話す。俺が通訳する必要はない。オーナーの要望をどんどん先方に伝え、ほとんど成瀬が商談を進めた。これならオーナーも満足して頂けるだろうと、成瀬は上機嫌だった。

ホテルに戻った俺たちは、ホテルのレストランで祝杯をあげた。

「お疲れ様でした」

成瀬がグラスを差し出す。

「成瀬のおかげだよ」

俺はそう言ってカチンとグラスを合わせた。

食事をしながら、成瀬がオーナーと取引を始めたきっかけから、今までの苦労話などを聞かせてくれた。成瀬は買い付けが上手くいったので、気持ちが高ぶっているのだろう。俺はほぼ聞き役だった。

話したいことを話し切ったのか、成瀬が一息ついた。

明日は飛行機に乗って帰るだけということもあり、成瀬は結構飲んでいる。

「伊久間君は、奥さんと別居してから、女性関係はまったくないの?」

「まったくないね」

「じゃあ、あっちの方は風俗?」

こいつ、酔っているな。新人の頃は同期での飲み会で下ネタが出ることはあったが、結婚してからはそういう話には加わってきたことなかったのに。

「別居するずっと前からレスだったから、そういうのは適当に処理しているよ」

成瀬は「そうなんだ」と言って、またグラスを傾ける。向こうから言い出したことなので、俺も成瀬に聞き返した。

「そういう成瀬は、旦那さんがいなくなってからは、そっちの方も寂しかったのじゃないのか?」

成瀬がチラッと上目遣いに俺を見た。

「あの人がいなくなって何年かすると、気持ちが落ち着いてきて、そうすると、あの人に抱かれていた頃のことを思い出すことが度々あったね。でもこの数年は年も年だし、しないことに慣れてしまったけどね」

「年も年と言ったって、まだ45歳だぞ。卒業するには早すぎるだろ」

成瀬がジッと俺の顔を見る。

「じゃあ、伊久間君、する?」

一瞬何を言われたのかわからなかった。

「私の部屋に行こうか」

成瀬はそう言って立ち上がった。その瞬間、飛行機の中で肘に触れた成瀬の胸の感触が蘇った。


風俗以外で女性を抱いたのは何年ぶりだろう。成瀬とはまだ恋だとか愛だとか、そういう心の結びつきはないが、それでもお互いが求めあっての行為というのは、やはりいいものだと思った。

「まさか成瀬とこういう関係になるとは思ってもみなかったよ」

「本当だね。人生ってわからないものだね」

「日本に帰ってからも、誘っていいかな?」

成瀬は返事をしなかった。

「イタリアでの、一夜の思い出にした方がいいのかな?」

「たまに食事をして、たまにベッドを共にするのは構わないけど、恋人になるとか、ましてや結婚とかは考えないで」

「やっぱり旦那さん一筋を通すのか?」

成瀬は何も答えない。俺もそれ以上は何も言わなかった。


日本に帰ってから、成瀬とは月に1回くらいのペースで会っていた。一緒に食事をして、ホテルに入って別れるというパターンだった。会っている時間だけは恋人同士のような関係になるが、ホテルを出て別れた瞬間に、単なる会社の同僚とまでは言わないが、気心の知れた仲の良い友達程度の関係に戻る。最初の頃は割り切った関係で、こういうのもいいなと思っていたが、回数を重ねるたびに、俺は物足りなくなってきた。明らかに俺は成瀬の事が好きになってきていた。ホテルのベッドにいると、このまま一緒に朝を迎えて、「おはよう」と言って朝食を一緒に食べたいと思うようになり、独りで夜を過ごしていると、何もしなくていいから、隣に成瀬にいて欲しいと思うようになった。昼間は会社で用もないのに隣の部署に行って、成瀬の顔をみてから自分の部署に戻るということを度々繰り返すようになった。

まるで中学生の恋だなと自嘲する日々だった。


季節が移り春になると、成瀬の息子さんは高校を卒業して、県外の大学へ進学することになった。つまり、成瀬は独り暮らしになったのだ。

「成瀬、俺たち一緒に暮らさないか?」

ホテルのベッドの中で俺がそう言うと、成瀬はチラッと俺を見ただけで黙り込んだ。

「息子さんも県外へ出て、成瀬は独りになったんだろ?良い機会じゃないのか?」

「最初に言ったじゃない。恋人にはならないし、ましてや結婚は考えないでと」

「確かに最初はそう言ったけど、俺は成瀬と一緒に暮らしたい。朝目覚めると横に成瀬がいて、一緒に朝食を食べて、買い物にも一緒に行って、夜は一緒にテレビや映画のDVDを観て、お酒を飲みながらバカ話をして笑って、そんな暮らしをしたい。別れた妻の時は、こんな気持ちにならなかったけど、成瀬とはそうしたいと思えるんだ。俺は本当に成瀬の事が好きだ。だから、一緒に暮らそうよ」

成瀬はジッと天井を見ながら何も言わない。

「やっぱり亡くなった旦那さんのことが忘れられないのか?」

成瀬がやっと口を開いた。

「あの人のことは本当に好きだった。今でもその気持ちは変わらない。あの人はとても良い夫だった。喧嘩なんかしたことなかった。それが一度だけ喧嘩したの。私は仕事が好きだったし、楽しかった。同期の中で誰にも負けたくなかった。だからガムシャラに働いた。そうすると、どうしても家事がおろそかになる。料理も出来ず、スーパーで買ったお惣菜ですますことが多くなった。少しずつあの人の小言が増えてきた。それでも私はそれを無視して仕事中心の生活をやめなかった。ある日、残業していたら携帯に着信があった。見ると夫からだった。どうしてもその日のうちに作りたい資料だったから、夕飯のおかずは買ってあったし、大した用事でもないだろうと思って、着信を無視して仕事を続けたの。家に帰ったのは11時前だった。家に入るなり、初めてあの人が私に怒鳴ったの。あの人が家に帰ったら息子が熱を出して苦しんでいたらしい。病院へ連れて行こうにも保険証を置いてある場所もわからない。いつもどこの病院へ連れて行っているのかもわからない。何とか病院へ連れて行っても、昨日何食べたかとか聞かれてもわからない。それで何回も電話していたということなの。幸い息子は大したことなかったので、思わず仕事だったのだから仕方ないじゃないと投げやりに言うと、子供より仕事が大切なのかと言われて、私もカチンときたの。働いているのは一緒なんだから、あなただって子供のことは把握していてくださいと言い返した。そしたら、言い合いになって、そんなに私のことが気に入らないのなら離婚でもいいですと言ったら、あの人、真っ赤な顔をして車のキーを持って飛び出したの。おそらく頭を冷やさないと取り返しのつかないところまで発展すると思ったのでしょうね。どこまで行こうとしていたのか、山道のカーブを曲がり切れずに、そのまま帰らぬ人になった」

聞いていて、俺は息苦しくなってきた。

「あの人が事故を起こしたのは、私のせい。私が仕事を優先して家庭を顧みなかったから。そういう意味では伊久間君と同じ。でも伊久間君の奥さんは伊久間君に愛想をつかして離婚という手段をとった。あの人も、もっと早く私に愛想をつかして離婚してくれたらよかったのに。そうすれば事故を起こすこともなかった」

俺は言葉が出なかった。

「伊久間君のこと、好きだよ。イタリアへ行く前から好きだった。一緒に暮らせたら幸せだろうなとも思う。でも、あの人のことを考えたら、私だけ幸せになってはいけないの。あの人はこれからたくさんの幸せを感じるはずだったのに、それを私が奪ってしまったのだから」

俺は何か言わなければと思うが、何も言葉が浮かんでこなかった。


あの話を聞いて以来、俺は成瀬に一緒に暮らそうとは言えなくなった。何か良い方法はないだろうか、何とか成瀬を説得できないだろうかと、色々考えたが、何も良い案は浮かんでこなかった。せめて月に1回か2回会う時間を大切にしようと思った。

今年の5月の連休は大型連休となった。せっかくの連休なので、成瀬とどこかへ旅行でもと思っていたが、息子さんが帰省してくるので会えないと言われた。仕方なく、家でぼんやり過ごしていると成瀬から電話があった。

「明日、うちに来られない?」

「息子さんがいるのだろ?」

「その息子が伊久間君に会いたいと言っているの」

「俺のこと話したのか?」

「お母さんは独りで寂しくないのかと聞くから、息子を安心させるために、たまに食事とか付き合ってくれる人がいるから大丈夫だよと言ったら、それは男性かと聞くので、会社の同僚の男性と答えると、その人のこと好きなのかと突っ込んで聞くので、好きだけど再婚とかは全然考えていないから心配しないでと答えたら、その人に会わせてと言い出したの」

息子としては母親にそんな男性がいるのは嫌なのだろう。変な関係にならないようにと釘を刺されるのかもしれない。

「わかった。明日そちらへ行くよ」


逢瀬の帰りに何度か成瀬を家まで送ったことはあるが、家に上がるのは初めてだった。

リビングに通されると、息子さんが座って待っていた。息子さんは俺の顔を見るなり立ち上がった。

「成瀬智弘です。母がお世話になっています」

丁寧に挨拶されて、こちらも畏まる。

「お母さんの会社の同僚で、伊久間明憲と言います。こちらこそお母さんにはお世話になっています」

予想外の堅苦しい挨拶をしている二人を見て、成瀬は驚いているようだ。

「単刀直入に聞きます。伊久間さんは母のことをどう思っていらっしゃるのですか?」

座るなり智弘君が聞いてきた。智弘君の真剣な目を見て、変にごまかすのはやめようと思った。

「私はあなたのお母さん、成瀬智香さんのことが好きです。できることであれば結婚したいと一方的に思っています。しかし、智香さんは再婚する意思はないということですので、現状は智香さんの意思を尊重して、良いお付き合いをさせて頂ければと思っています」

「母は再婚したくない理由を言いましたか?」

「伺いました。亡くなられたご主人への責任を感じておられるようです」

「そうですか。父の事故は母の責任ではなくて、僕の責任なのです。だから、母は責任を感じることはないのです。ですから、どうか伊久間さん、母のことよろしくお願い致します」

何で智弘君の責任なのだ?

「智弘、お父さんのことは私の責任なんだから、智弘が責任を感じることはないのよ」

成瀬さんが必死に否定する。智弘君はそれを無視するように、俺の目を見て話を続けた。

「父が事故を起こしたのは僕が8歳の時でした。いまでもよく覚えています。あの日、僕が熱を出さなければ父と母が喧嘩することはありませんでした。父と母の喧嘩の原因は二人とも働いているので僕の面倒を見切れないということでした。つまり僕さえいなければ父と母は喧嘩する必要はなかったのです」

「何言っているの!あなたがいてくれたから、お母さんもお父さんも幸せだったの。それに、子供が熱を出すのは当たり前のことなの。それをちゃんと面倒を見るのが親の役目なの」

「お母さん、子供が熱を出すのは当たり前と言うなら、両親が働いていたら、家にずっといる親に比べて子供に手が回らないのも当たり前でしょ?かといって、お母さんは働かずに専業主婦になった方が良かったなんて、誰も思っちゃいないよ。今の時代、女性も男性と同じようにやりがいを持って仕事をするのは当たり前なんだから。だからお父さんの事故はお母さんには何も責任はないんだ」

「そうかもしれないけど、お父さんはもう好きなことも、やりたいことも何も出来ないのに、お母さんだけ幸せになったら、お父さんに申し訳ないでしょ?」

「お父さんは充分幸せだったと思うよ。子供の僕から見てもお父さんとお母さんは仲の良い夫婦だった。親子3人で笑顔が絶えない家庭だった。3人で暮らした8年間で、お父さんは一生分の幸せをつかんだと思う。もちろんお母さんもその8年で一生分の幸せをつかんだかもしれないけど、お父さんがいなくなってからは、お母さんは少しずつ不幸になっている。この10年間でせっかくつかんだ幸せがどんどん削られているような気がする。だから僕は、もう一度お母さんには幸せになってもらいたいんだ。お父さんだって、笑顔のないお母さんの姿なんか見たくないと思う。お父さんもお母さんが幸せになるのを望んでいるはずだから」

成瀬さんは智弘君を抱きしめた。そしてむせび泣く成瀬さんの背中には、もう大きな荷物の姿はないように思えた。


俺と智香は俺の家で同居することにした。前妻と暮らしていた家でも良いのかと聞くと、うちに来れば亡くなった夫と暮らしていた家なのだから同じでしょ?と言った。智香からすれば、亡くなったご主人との思い出がある家で、俺に抱かれたくないということかもしれない。それに先々は智弘君が結婚したら成瀬の家を譲りたいということだったので、俺の荷物は入れない方が得策だろう。

それでも週に一回は成瀬の家へ行き、空気の入れ替えをする。そして必ず仏壇の花を替え線香をあげる。その時は俺も隣で手を合わせる。最初のうちは仏壇の写真に向かって申し訳ない気持ちがあった。でも最近では、仏壇の写真が「智香をよろしく」と笑いかけてくれているように思う。

俺はそれに対して「智香さんは最近笑顔が増えました」と答えている。

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