第二話 双子探偵 その11/契約の箱の中で、獣は叫ぶ


 建築の考え方のひとつに、『聖なる場所』の作り方というものがある。そいつは他と隔絶された場所だ。神社なら境内を囲む森で、ここなら壁だ。ここはある種の神殿で聖域だった。そして、聖なるモノと遭遇するときには、儀礼がある。段階的な接触だよ。


 護衛/警官に守られた倉庫のドアを開く。神秘の世界への、入口だ。


 冷たい道を進む。『この世とは異なる気温のなか』をね。


 閉ざされ守られた、神秘の場所の奥まで進む。どれだけの内省をともなうことか。猟奇死体と出遭うことになるとき、君なら何を考えるかな。自分の不運だとか、殺人への怒りとか、故人への同情だとか、人のもつ悪意についてとか……まあ、いろいろと人生や価値観を振り返ることもあるだろうよ。まるで、信仰に触れるのと同じようにね。


 そのあげくに、あのカーテン/封印を開く……。


 それらの段階のひとつひとつが、ここを一層、神秘的な空間に演出していた。神社や大聖堂のいちばん奥に隠された聖遺物のように、いくつもの秘匿を解放する手順の果てに、ようやく遭遇できたんだ。


 わかりやすく言おう。


 ここにある『赤い天使』は、異常なまでに『聖なる権威』を手にしていたってこと。おぞましい恐怖だけじゃない。とても強い神秘が、ヤツにはあったんだ。「全員、私の『生贄』になりなさい!」。


 だから。


 そんなものと閉じ込められたと思うと、警官どもの心は壊されそうになる。叫ぶ姉、タトゥーだらけの悪人みたいな姉が、あんなに泣き叫ぶ。それは、『赤い天使』の格を上げることになってもいた。どれだけ愛しているか、いやでも伝わるだろ。「繭、繭、繭!」。


 人はね。


 共感できちゃうし、権威に弱いんだ。偉い人に逆らったコトが怖くて、自殺しちゃったマジメな人々がどれだけいるのかね。大切なことを、冒涜されるのが嫌いだから、警官になったんだろう。君たちは、自分がしたくないことをしてしまっているんだ。


 最初に逃げた警官は、ほんとうに正しい。勘が働いた。聖なるものを冒涜し、愛を穢し、罰せられて当然の行いをしてしまったと、いち早く察せられたのだから。君たちは、不幸になるよ。犯した罪からは逃げられん。罪なき姉を傷つけた。ヤツは怒っているぞ。「さあ。罰の時間だ!」。


「助けて!」


「出して!」


「開けろ、バカ!」


 逃げ出そうとする。ひとりでも不安に負けたら、終わりだった。職業的決意というものは、集団的な結束でつくられている。だから、ひとりが逃げ出すだけで、かんたんに崩壊しちまうものだよ。


 警官どもは急いでこの冷たくて聖なる恐ろしい空間から、逃げ出そうとした。十戒の箱に、狂暴な獣と閉じ込められたような気持ちになっていたからさ。あるいは、サタンが封じられた地獄の牢に、今日から『居候する』ことになったようなもの。とにかく。オレでさえも、逃げたくなっている。「逃がさないよ」。


 ……そんなパニック状態のなか。


 いきなり、電灯が消えちまう。


 まっくらやみだ。やられた。犯人は、待っていたらしい。姉がやってくるのを。警官どもは、あわれなことに巻き添えにされる。


 まっくらやみのなかで、彼らの絶叫が響いた。闇は想像力を倍増させるから。警官どもは、ふくらんでしまった恐怖に呑まれて、闇のなかでもがく。出ようと必死に―――。


『たすけて、玲於奈』


「繭!」


 ああ。ほんと。『死人と現実で、会話するものじゃない』。オレの想像力の世界からの呼び声じゃなくて、こいつは『現実の声』だった。


 まっくらなせいで見えないけれど、きっと姉は喜んでいただろう。声が嬉しそうだ。狂喜さ。離脱症状だと思っていたのかもしれないが、ちがう。警官どもの悲鳴が、さらに大きくなった。この事実がアル中のせいでもないことを示していた。


「彼女は生きてる!」


「そんなはずない!」


「出せ、出せ、出して!」


「何をしているんだ! 開けてやれ!」


「ひ、開くな! 絶対にそんなことをしちゃいけないよ! あいつが『出て来ちまう』!」


 外の警官もパニックだ。必死にドアを開けさせまいとしているんだろう。この邪悪な『箱』のなかから、『赤い天使』が外に出れば……不幸が広がると信じ込んでしまっていた。それは、あながち間違いでもない。


 パニックは、数分つづいた。


 外の警官どもが、どうにかドアを開けてくれる。灯りも復旧した。警官どもは怯えた顔になっていた。自分たちが取った行動そのものに、恐れを抱いてもいたはず。「自分がこんな行動をするなんて」。ありえないことをする。そんなときもある。人はそこまで理性で自分を制御できる動物として作られちゃいなかった。


 追い詰められたら。


 どんなことでもする。職務を放棄して、みじめで無力な仔羊のように逃げ出そうとするのもしょうがない。必死に仲間を閉じ込めて、自分だけ助かろうともする。失禁する者もいるし、閉ざされたドアを必死で叩いて、気づかないまま指の骨を何本もへし折っちまう者もいた。泣いているのも、意味なく引きつった笑顔になっているのも。しょうがない。恐怖で壊されちまうと、そうなるんだ。


 だから。多目に見てくれないか。姉がやろうとしている行為を。『たすけて、玲於奈』。また現実にあの声が響いたから、姉は『赤い天使』に巻きついて、ヤツの体をつるしていた鎖のひとつを握りしめていた。棚に打ちつけてあった太い釘、そいつに鎖が引っかけられて固定されていたからね。


 それを、ひとつ外した。『赤い天使』が、ガクンと空中で揺れる。警官が怒鳴った。


「な、何をしているんだ、貴様!」


「繭を助ける! 生きてる。まだ、生きてる!」


 警官どもも、動けなかった。『たすけて、玲於奈』。もう一度、その声が倉庫に響いたから。またひとり、警官がその場で膝から崩れる。おぞましい神秘の実在を、信じたのかもしれない。おかげで、姉は公務執行妨害にはならなかった。今の姉は、聖なる獣。天使の番犬。止めようとすれば、警官だってぶん殴っただろう。下手すれば、殺していたかも。


 ふたつめの鎖を、外しちまった。天使がガクンとバランスを崩した。大きく前傾しながら、ずり下がって行く。


「おかえり、繭」


 姉はそれを受け止めた。少女みたいに純粋な笑顔でね。タトゥーだらけの体が、ヤツを受け止めたおかげで、床にぶつかってしまうことはなかった。姉は抱き締めながら、死体といっしょにその場へと背中から倒れ込んでしまうけれど。「ありがとう、玲於奈」。


 きっと。気づいた。警官の半分が、死者の生存を疑っていたこのときでもね。姉はヤツを抱きしめたから知ったんだ。とても冷たくなっていたから、生きているはずないと。そして、おそらく『とても軽いから』。


 観察と医学知識は教えてくれる。あと、物理学とか常識もかな。内臓は、くり抜かれているだろう。長い時間つるすために、重さを減らしたんだ。だから軽い。あるいは、もっと、好ましくない理由から……。


「繭、繭、繭」


 愛しい者の名前を呼ぶ、すすり泣きの声。それを、このオレと、あわれな警官どもは目撃することになった。


「愛してる」


 だろうね。それだけは信じられるよ。我が姉は、真実の愛を得ていたんだ。疑う余地もない。生まれる前からいっしょだから、わかるんだ。その悲しい顔も。その痛みも。涙は、いつだって大きな純粋さの証明になってくれて―――。


『わたしも、あいしてる』


 ……ああ。うん。


 死んでるくせに。しゃべるなよ。


 ……同じトリックだ。当然じゃないか。死体が愛を告げるはずがない。これが『犯人の録音』だということは、考えればわかる。「考えられたらね」。うん。そんな余裕もないタイミングだった。グロテスクな猟奇殺人の死体にもひるむことのない真実の愛を見せつけられていた最中の我々の心に、死者の言葉は突き刺さったんだ。


 怖がらなかったのは姉だけ。


 録音されただけの言葉が、オレと警官どもの心まで、おびえさせちまった。なんてことしやがるんだよ、犯人。ほら。また倒れた。警官どもが、涙目になりながらね。逃げるべきだ。とくにオレたち一般人は……。


 でも。


 理解している。「手遅れだから」。そうだろうね。地獄の先まで、進むことになる。我が姉は、激怒しているから。真実の愛は、ニセモノの愛を許さない。録音された声を偽りだと見抜いた者は、怒りの炎を雄叫びにして放ちやがった。


 冒涜されたと思ったんだ。


 自分たちの愛を。


 うん。凍てつくこの場所を、殺意の熱が溶かしちまいそう。逃げられない。オレは、姉のために。『赤い天使』を殺した犯人を追いかける、猟犬になるんだと悟ったよ。




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