第二話 双子探偵 その5/罰する者たち
反論してくれない。そういう素直な態度は正しい。オレの奴隷になってくれ。鏡の国は面白い。自分が口にしたことを、そっくりそのまま言われちまうと、殴られたように身をすくめるものだ。「意地悪な弟くん」。そうだよ、とっても意地悪さ。
「だから、その鬱憤を晴らすために、シャネルのお高い香水を女にプレゼントして、はべらせたかったんだな。あれは奥さんの香水とは違う。奥さんは、クリスチャン・ディオールかな。時間の経過で、あせたにおいが残っている。新鮮なのは、愛人ちゃんの」
こいつは浮気をしているが、マジメなんだよ。家族を裏切りたくないとも考えている。卑怯なことをひとつした、だから、これ以上はやれない。嘘を重ねることに躊躇がある。『妻と浮気相手のにおいを同じにしていたら、ばれない』……なんてことは、手慣れた浮気者のすることで、それは、こいつがなりたい自分じゃないのさ。もっとマシな男になりたがっている。根がマジメだから。マジメな男は浮気しない? 断言するけど、そんなことはない。
さて。シャネルっていうのも、なんとも王道すぎるよね。オレの予想じゃ、こいつの趣味だよ。浮気相手が望んだよりも、この無能なエリートで顔と体格のいい男が、つけて欲しいと押しつけたんだ。わかりやすいブランドだから、相手への誠意が伝わりやすいとも思っている。
つまり、それが響く相手だ。ちょっと世間知らずそう。彼女の趣味であっても、まあ、同じことさ。保守的で古風さを理解する相手だよ。本とか、古い映画をよく知ってそう。つまり、知的好奇心のある、年下。大人しそうだな。あやつれる相手だと、軽んじられている。
そのうらで。
恐れられてもいる。
たかが浮気を指摘された程度で、こいつはおびえた。その浮気相手は、追いつめられたとき手痛い反撃を企てるほどの賢さと、執念深さがあるってこと。それでも、選んだ。
ふだんは、やさしくて面倒見のいい女性。言いなりになってくれそうだが、芯はある。そばにいる男を強気でいさせてくれるいい女だ。でも、こいつは彼女を手ひどくあつかえていない。こいつは、手綱を取りたがっているけれど、横暴さをそれほど上手に使えていないんだ。オレという容疑者をぶん殴ったことを、本気で反省もしていた。横暴さは性癖。性格以上に矯正不可能だ。こいつには、それが足らない。おびえるなよ、へたれめ。
こいつはね、『自分を脅かす可能性がある女にしか惹かれない』。つまり、マゾ。育ちと学歴のいい奥さんに、よく躾けられているということだ。権威と力に憧れて、それに従いつつも、ちょっとした反抗を試みる。『金や態度で、浮気相手を支配できるほど男らしくなりたい』けれど、実際には無理ってだけ。日本のどこにでもいる、オールドタイプのタフガイになり損ねちまった、ありふれた青年だ。だから、追い詰められても言い訳したがる。
「オレは、浮気なんて―――」
「年下の身近な女性だな。お前の職場か、奥さんの友人か知人、あるいは……息子の教育者。ああ。左の眉毛を動かすなよ。心がばれてつまらん。推理は分析なんだ。直感でわかっちまうと楽しめないじゃないかね。さて。塾講師やスポーツ関係の指導者ってのは、どうにも得体が知れないから君には怖すぎる。だから、手堅くて、知的な職業、不倫という秘密がおたがいを縛る鎖になりうる相手……『若い女の先生』には、グッとくるよな!」
当てられたようだ。道場の入り口を見ようとした。知られたくない秘密は、怖いものだ。からかうために。オレもそこを見てやる。想像したよ。社会経験が浅くて夢見がちな、二十代前半のマジメな女を。
シャネルのにおいだ。夜こいつと寝るときだけの香水。小学校にはつけていかないだろうな。勅使河原くんはおびえた。「今夜も甘やかしてあげますね」。そんな声が聞こえたかな。朝出かける前にも賢い彼女は、勅使河原くんを抱きしめてあげた。残り香をつけて、ひそかに主張するためにね。おお、怖い。
「……し、失礼す―――」
ここから逃げようとしたから、釘を刺す。
「動くな。こっちを見ろ。君の『良心』のところ以外には、誰も来ちゃいないから安心していい」
呼吸が荒い。想像力は、恐怖と相性がいいものだからね。順調だ。良心で、もっとぶん殴ってやろう。「そういうの、マジメな裏切り者には、きくよねえ!」。そうそう。ぴったりな武器だよ。
「ど、どこまで知っているんだっ」
質問には無視するというのも手だ。「強者は、いつも弱者を無視するもの」。そうだよ、歯牙にもかけていない態度を取ればいい。力関係を、わからせてやるんだよ。えらいのは、オレだってね。
「勅使河原くん。浮気相手は誰でもいいんだよ。肝心なことは、愛についてだ!」
「あ、愛……」
「その女のことを、奥さんより愛してはいないけど、奥さんより好きなんだね」
「ち、ちが―――」
「普段は、もっと気をつけているのに、今日は焦っていたからしっぽを出しちまった。ごめん。君は周囲に気を使える男だ。慎重で、マジメだ。子煩悩でもあるのに。オレのせいで、ごめんね」
「先ほどは、手を上げてすま―――」
「謝罪はいい。受け付けていない。過去は、変えられない。お前、嘘は嫌いだろ。「立派な夫として、父として、警察官として。誠実であれ」。トイレの鏡を見て言い聞かせた。さっきも正座しながら、つぶやいていたぞ。オレは耳がいいし、何でもお見通しなんだ。態度、口調の変化、脈拍、呼吸の乱れ、発汗量に視線、表情筋の動き、耳に、指の動き。君も刑事だ。取り調べのテクニックとして、心理的な知識を学んだかな。オレも、知り尽くしている。精神科医並みにな。君には、わかりやすい反応が出てしまっているんだよ」
「あ、あやまらせてくれ―――」
「誤魔化すな。それはいけない。いいかな? 真の謝罪とは、心の底からのものだけだ。それ以外は、冒涜にすぎない。とてつもなく失礼なことなんだよ!」
「……ッ」
「君は、今、オレに謝れるような心理状態じゃない。自分のことで精いっぱいになっている。嘘と逃避という、情けない感情でいっぱいなんだよ。それでは、謝罪にならない。そんな失礼で恥知らずなことを、オレは君にさせられないよ!」
許してはやらない。操縦するためには、常に偉そうに。尊敬するアメリカ人の男が残した教えがある。「支配したければ、従わせたくさせろ」。オレは王さまになりたいんだ。「そのアメリカ人って誰?」。彼は、『ヒモの王』と呼ばれた男だよ。「サイテー」。うるさい。
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