第一話 天使と獣 その7/火刑台のジャンヌダルク


「まあね。でも。『真実と向き合わなくちゃならないとき』もある」


「……私を責めているの? 恋人の秘密を聞いていないから?」


「ちがうよ。ただ、受け止めて欲しい事実がある」


 マジメな顔だ。どこか、こちらをあわれんでいるような目。とたんに、さみしい気持ちが広がっていく。聞き覚えがあるハナシだからだ。見覚えもある。何人も、酒に酔っぱらいながら吐き出している。偽名を使っているようなヤツは、ある日いきなり消えていく。


 あちこちでついた嘘が積み重なって、がんじがらめになっていき、身動きが取れなくなるとか……。


 じつは、とんでもない額の借金があったとか……。


 そもそも、この街での暮らしそのものを……いつか捨てると前もって決めていたとか。


 カタギの暮らしじゃない。ヤクザじゃないけど、それに近い暮らしだ。この暮らしを清算するときのために、最初から本名を使わないヤツも多い。


 ある日いきなり。


 名前ごと、この街での日々を捨てる。人間関係ごと、ぜんぶキレイさっぱり。去る者がいて、置き去りにされる者がいる。後者は、とんでもなく悲しい存在だ。


 そういうヤツは酒を飲みながら泣いて、騒いで、ときには感情をぶつける相手がいないから、誰から構わずケンカを売って……私は、そういうヤツらを取り押さえることもあった。


 刑事は。


 私を、あわれんでいたんだ。私が、ヤツらを見ているときの視線で。


「ねえ……」


「なんだい?」


「……繭に、私。す、捨てられたの? 私を、お、置き去りにして……あの子、外国に、高飛びでも、したの?」


「そうじゃない」


「私なら! や、ヤクザとトラブっても、守ってあげられる。殺されそうになっても、かまわない。繭を、いつまでだって守った! 繭のためなら、殺されてもいいのに!」


「ああ。どうか、落ち着いて聞いてほしいんだ、水原さん」


「……早く、言ってよ」


 火刑台のジャンヌダルクは、うつくしい。繭はそう教えてくれたけど。それはジャンヌダルクだからだ。捨てられた犬は、真実を告げられて処刑される寸前、こんなにも、みじめに震えている。


 はだかになりたい。


 大きな鏡の前で、繭の描いてくれたタトゥーを見たい。「あなたはとても強いよ、玲於奈」。地獄と地獄と天国と。悪魔と悪魔と天使と竜。確認したくなる。おまじないみたいにうつくしい絵を刻まれた私は、どんなことにでも耐えられるほど強いはずだから。


 あふれる涙で。


 刑事をにらんだ。


 情けない顔をしているだろう、負け犬は。鼻水だってあふれているかも。どうして私は、捨てられたという事実を、こんな初対面の枯れた目の中年男に言われなくちゃならないんだよ。


 拳で涙をぬぐって、牙をむく。せめて、なけなしの勇気で、脅すんだ。一思いに殺せと。


「言え!」


「……麻生繭と名乗っていた女性は、死んだよ」


 ……。


 ……感情というものは、理性とは別だ。


 黒い声が、口からあふれている。悲しみなんて、いない。あったのは怒りだ。どうして、この中年男は、『とんでもない大嘘』で私を傷つけようとした。ケンカ売ってんのか、お前は!


「お、落ちつけ!」


「暴れないで!」


 机を持ち上げ、ぶん投げて。刑事に組みついた。負け犬じゃない。私は戦う犬だ。噛みつくような近さまで、顔に顔を突きつける。怒りをぶつけてやりたい。この痛みを、暴力で教えてやりたい。どれだけ、痛いのか。死んだだと?


「なんで、そんな嘘を……ッ」


「嘘じゃないんだ。彼女は、麻生繭は、もう」


「まだ、嘘を!」


 許さない。公務執行妨害か。警官を殴ると、そうなるのか。知ったことかよ。この大嘘つきが悪いんだ。繭が死んでるはず、ないだろう!


 殴ろうとした。


 殴るつもりだったんだよ、繭。


 でも、刑事はわかっていた。予想していて、待ちかまえていたんだ。こうなると知っていた。だから、私が暴れたときのために……見せるべきものを、用意していた。


 スマホの画面だ。それを私に突きつけてくる。


 白く。


 青ざめた。


 それでも、わかる。繭の顔だ。


 会いたかったはずの彼女を見て、喜んだ。でも、すぐに。その白さがおかしく思えた。吸血鬼みたく、太陽に当たるのが嫌いな私の繭はすごく色白ではあるけれど、この白さはあまりにも……。


「ふ、あ、う……っ」


 死を見たことも、ある。祖母の葬式で。命の色の抜けてしまった顔は、あまりにも白くて、冷たく青ざめていて。力が抜けきっていた。うつろに開いたままの、繭の瞳だ。赤い。カラーコンタクトをはめたまま。白目のところは、黒っぽくくすんで見えた。にごってる。


 死者の瞳は。


 繭の描いてくれた天使のひとりのそれに、そっくりだった。


 私は刑事のスマホを奪い取って、握りしめて。その場に膝から崩れ落ちて、気の狂った人みたいに、わけのわからない叫びを放った。裏返った金切り声は、まるで悪霊に憑りつかれた女が、世界のすべてに呪いでもかけてるみたいだ。


 私は。


 ようやく理解していた。


 繭は死んだから、私たちのマンションに戻ってくれなかったのだ。




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