第一話 天使と獣 その5/偽りの獣
「わかった。そうする」
『ああ。またあとで、こっちから連絡する。それが、いちばんいいはず。じゃあな!』
……昔々。
熊が出た。私たちは田舎で暮らしていたけれど、私たちの地元にそれまで熊はいなかった。夏の山キャンプのときだ。小学校の行事で、山奥にテントをはって、一晩明かすはずだったのに。
あいつは、いきなり警察と消防を呼んでいた。引率していた保護者のひとりからスマホを借りて、通報したんだ。サイレンを鳴らして、パトカーと救急車がやってきた。おかげでキャンプは中止になった。
火事もなければ事件も起きちゃいない。「いたずらか?」。犯人探しはすぐに始まり、クズ弟の犯行がばれた。あいつは、言った。「木に傷跡があった。えぐったばかりで、あたらしい傷跡。あれ、たぶん。熊だ。近くにいるから探せよ、オマワリ」。
みんな信じなかった。
でも。本当に熊がいたのだ。大きな熊を、山に入った警官隊が目撃した。そのころ、日本のあちこちでツキノワグマが人を襲う事件が多発していた。子供たちは山を降りた。
猟師が呼ばれて、調査が入る。
事態はますます悪くなった。警官と猟師たちが見つけたのは、自殺者の死体。山で首を吊るヤツは少なくない。ここのキャンプ場の近くにも、ときどきいる。悪かったのは、この死体の半分が食われていたこと。食ったのは獣たち。おそらく、熊もだ。
つまり。あの熊は、人を襲ったわけではないのだけれど、人の死体を食べて、その味を覚えていた可能性があった。私たちはその事実に恐ろしくなった。熊は味を覚えた獲物を、選択的に狙うようになるのだ。あいつには、人食い熊になる呪いがかかっていた。
もしも、あのキャンプを続行していたら、熊に襲われていたかも。
夜の森を、よく響く子供たちの甲高い声が刺激していたら。それに呼び寄せられた食欲が、幼くて無力な子供たちに襲いかかっていたかもしれない……。
考えすぎ?
どうだろうか。その一週間後、100キロ超えの熊が射殺されて、その巨大な姿をテレビ越しに見たとき、私は弟を褒めてやれた。あの熊は、私たち全員を食べてしまえるような気がしたから。
本当に強い獣には、物語めいた悪意が宿る。あいつの牙と、あいつの爪。ベトベトとした黒い毛並み。あれは死というものが、私たちの暮らす田舎では、どれだけ身近なものかを連想させた。いつかこの田舎を出ようと決心させてくれるほどに。
……とにかく。
弟は、勘だけはいい。文才はなくても、我が家の『太宰治』は悪いことに対しての嗅覚が強い。私は、それを信じることにした。今回も、危ないことから助けてくれるかもしれないから。すくなくとも、あいつ自身はそう信じているように感じたし。
繭がそうであるように。
アーティストたちは、知覚に優れている。私みたいな普通の女が気づかないことにも、気づいてしまえるのだ。クズ弟をアーティストと言っていいかは、不明ではあるけれど。それの卵だとか、末端構成員ではあるんじゃないだろうか。
私よりは、よほど世の中に対して興味を持っているのは確かだった。私には、繭しかいない。繭以外に対して、異常なまで鈍感になっている自覚はあった。今はね。ゴールデンウィークの孤独は、私に自分を客観視することを思い出させたらしい。
オレの姉は、集中力が高いんだ。
筋肉の申し子、もしくは暴れ猿のような女だが心理的な才能もある。邪悪なレズの彫り師のせいで、タトゥーまみれにされちまっても、それが愛だと信じるには特殊な才能がいるだろ。
それの原因には、いくつか候補があるけれど。
まあ、集中力の高さが、姉に致命的な視野狭窄をあたえてしまったんじゃないかな。
一度、こうだと決めると、動かない。非効率的なんだ。高校柔道だってそうだよ。ライバルから逃げて、階級をひとつかふたつ上げれば良かったのに。身長考えて階級を考慮すれば、楽にやれた。オリンピックにも出られたはず。柔道で日本代表ってのは、事実上金メダリストだぞ。それなのに。「逃げるなんて嫌だ」。ボケナスめ。
あの集中力は。
異常な執着心を呼び起こす。
ただのガンコさじゃなくて、イスラム聖戦士だとかスナイパーだとか猟犬だとか、そういう周りを心配にさせるほどの迫力で、事に及ぼうとする。それは、スポーツの現場だと役に立つこともあるけれど。恋愛の場では、おぞましい依存を生み出すのかもしれん。
あんなのを、愛だって?
軟禁レベルの粘着は、愛じゃない。
最近は『屋外用の犬小屋』なんて使っていたら「虐待している」と言われるような時代だぞ。犬みたいな家畜でさえも、あんなに気を使ってもらっているのに。姉の『飼い主』ときたら、困ったものだ。
何日間、『おあずけ』をさせていたんだろう。
行き先も告げず、放置プレイとは……。
プロレスラーになりたいという夢を奪っておいて、いびつな愛情で縛りつけた。しかも、今は捨てようとしているのか。あんなに憔悴しきった声を出すような脳筋女じゃないのに。
まあ。捨ててくれたら、姉も救われるだろう。
恋人をタトゥーだらけにしちまうようなレズ彫り師は、ハナシとしては面白い。だけど、自分の姉を犠牲にしていると思ったら、さすがに吐き気がするよ。あいつは間違いなく、周りを不幸にするようなヤツだ。
「ろくでもねえ」
昼間から、飲みたくなる。
アルコールに頼った方が、アタマの中が静かになってくれるし、不要な悩み事が消えてくれるんだ。
……嫌な予感が、している。
女に裏切られているような感覚だ。驚くほど、ずるい女もいる。追い詰められた女は、とくに危険だ。とてつもなく、自己中心的になる。誰でも、何でも、利用するんだ。夫とか恋人とかも。不正なことに巻き込んだり、傷つけたり。ひどけりゃ、保険金殺人……なんて最悪のパターンもある。ちょっと考えてみてくれよ。あんなにひどいのに、ありふれたハナシなんだぜ。
「あのクソみたいなレズ彫り師とは、距離を取るべきだ。最初から、わかっていたのに。オレたち周りは、何をしていたんだ……見て見ぬふりか? ほんと。人間っぽい」
嫌になる。
だから、酒を飲んで経過を見守ろう。
「言い訳は考えておくさ。アル中は、犯罪じゃない。酔っぱらっていたから、姉の連絡先だって思い出せなかったんだよ」
関わるべきじゃない。
世の中に偶然がないとすれば、あるのは……すべて邪悪な計算。
「うちの姉の集中力は、『任務』を与えたときに本領発揮だ。あのレズ彫り師なら、姉がいつどう行動するかも把握していた。おかしなことの、アリバイ作りに利用される。何かしらの罪を、なすりつけられる。それが、最悪のパターンだ」
警察に対して、誠実さを演出しないといけない。それは無実な者にとって、唯一にして最強の武器になる。クソみたいな悪意には、最適の方法だ……。
「なのに、初手でオレは嘘ついちまった!」
部屋を空き缶であふれさせて、我が友、田中くんに証言してもらおう。『あいつは朝からずっと飲んでました』。まさかこれだけのビールを一時間で飲んだとは思わないさ。
「アル中は、クズだけど……罪じゃない。アル中みたいな弱者なら、世間は甘い判定してくれる。悪いのは、酒のせいだ! オマワリさん、あわれなオレを見逃して!」
作戦はひとつ。
ガンガン飲みまくるだけ。
警察がやってきても、酔っぱらっていたから言えなかったんだ。嘘じゃない。
「向こうはくわしいことを聞かなかった。つまり、オレの反応を探っていた。容疑者やその仲間に話すと、捜査の妨害につながるような何かがあった。あるいは、罠かも。くそめ。どうにもこうにも……何かには巻き込まれてるよな、絶対。ほんと、酒がすすむわ。日本のビールは、のどごし、最高!」
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