第一話 天使と獣 その4/天使の失踪


 5月1日。


 繭がいなくなってから、一週間が経つ。警察に届けは出したけれど、あいつらはタトゥーだらけの女が「彫り師の恋人が行方不明になった」と主張しても本気で探したりしない。


 家出する女は、この繁華街ではありふれているから。警官は、私の首周りと腕と手足を、服から出た素肌の部分を舐め回すように眺めていた。スケベな意味ではなく、あきれながらね。繭のタトゥーは、私の顔以外のどこにでも刻まれている。芸術に見入るのはしょうがないことだった。取調室のなかに、美術館を持ち込めるのは私と繭だけだろう。


 だが。


「仕事をして」


「……ああ。それで、あんたたち。ヤクザともめたりしたの?」


「それはない。繭はお客さんともめたりしない。とくに、そっち系のとは。私ももめないように気をつけている」


「外国人グループが、近づいていたとか?」


「いや。そっち方面も……心当たりはない」


「ストーカーは?」


「いない。繭はほとんど家から出ないし」


「ネット経由で知り合った男とか」


「他人と話すことをしないの。たとえSNS越しでもね」


「……じゃあ。どこかに遊びに行っているだけだろう」


「もう一週間だ。ゴールデンウィークは、毎年……ふたりで遊びに行くのが決まりだった」


「愛想をつかされたんじゃないのか?」


 こういう見た目をしていると、心無い言葉をぶつけられる。誤解されるのにはなれているし、それに痛みを感じることはない。だけど、この言葉はショックだった。


 捨てられる。


 その可能性を、私は今まで意図的に考えないようにしていたことに気づく。繭のタトゥーを新しく刻める場所は、ほとんど残っていない。天使と悪魔と、竜と怪物たち。いつからか、私の肌は、繭の天才的なイメージを刻んでくれる針の感触から遠ざかっていた。


「おいおい。そんなに深刻そうな顔をするなよ。男女の恋愛も壊れやすいし、女同士のそれも壊れやすいもんだろう」


「うるさい」


「まあ。しばらく待ってみましょうよ。SNSは、通じてるんだろ?」


「ああ。既読にはなっていた。でも、返信がない」


「無視されてるだけにも見える……とにかく。様子見するしかない」


「スマホの位置を調べるとか」


「そういうのはとっておきの方法なんだよ。事件性でもなければ、何もしてやれない。今日はもう帰ってくれ。レズビアンの痴話喧嘩だけに対応しているわけにはいかない。東京ってのは、悪人であふれているんだから」


 知ったことか。


 悪人にあふれていてもいい。そいつら放置していていいから、繭を連れ戻してくれたらいいのに。願いは、聞いてもらえず。私は、孤独なゴールデンウィークを終えた。犬でも飼っていたら良かったかもしれない。チワワとダックスのミックスでも。


 5月5日。


 朝起きると、私のメッセージが既読済みになっていなかった。不安になる。これは、本当に捨てられたのかもしれない。昼過ぎまでマンションのなか……繭の『アトリエ』で、両膝を抱えたまま固まっていた。体育座りなんてするの、いつ以来だろう。


 ショック状態になると、身を守りたくなるらしい。「ああ」とか「うう」とか、力の足りない声が喉の奥からこぼれて踊る。アタマのおかしいヤツみたいだ。私は、打ちひしがれて壊れてしまった。


 午後。


 私の足もとで、バッテリー切れ寸前になっていたスマホが鳴った。私は、犬みたいに喜んだ。明るくなった顔で、スマホに飛びつく。幻滅した。『太宰治』という表示があったからだ。


 スマホをぶん投げたくなる。だが、こらえた。繭からの連絡があるかもしれない。私は『太宰治』からの電話を無視して、充電コードを突き刺した。連絡を待っていたのは、繭だけ。他はいらない。


 弟からの電話は切れた。今はあいつと話したくないからちょうどいい。そう思ったのに、何度も何度も何度も。『太宰治』の表示が画面に現れて、着信音が鳴り響く。


 このしつこさを使うべき方向に使わないから、文学賞のひとつも取れないのだろう。


 十五回目の着信が始まった……ヒモの才能とは、女に対してのあきらめの悪さかもしれない。実の姉にも、ここまでしつこいのなら、他の女はさぞかし大変だろう。そんな考えに至った私の指は、スマホに触れていた。


「もしもし」


『おお。ようやく出たか。本当に、心配したんだぞ』


「なんで?」


『警察が、お前のことを探しに来たからだ』


「は?」


『何かしたのか。あいつら、わりとシリアスな顔してたぞ。それに。弟の友人の家にまで乗り込んでくるあたり、情熱的すぎるだろ。何かの容疑者じゃないと、ああは動かねえ』


「私の電話番号は、教えてないの?」


『教えてない。知らん顔した』


「警察に刃向かうとか、バカなのか?」


『医学部入れてるからバカじゃねえし。かばえることなら、かばうつもりなだけだ。何をしたんだ?』


「何もしてない」


『明らかに元気ないだろ。言えよ。オレはしつこいぞ』


 言いたくなかった。繭と自分の関係が終わったかもしれないことを、繭に捨てられたかもしれないということを口にするのは、辛い。こいつに知られたくもない。


 だが。寄生虫はしつこかった。『話せって』、『何でも相談しろ』、『力になれるかわからないが、それでもやれることはやるから』。まるで、この私が犯罪者にでもなったかのように心配している。だから、私は折れた。


「繭が、いなくなったの。捨てられたのかもしれない」


 無言だ。スマホ越しに、鼻息が乱れるのを聞いた。こいつも同情しているのか……。


『……それなら、いいんだけど』


「はあ!? 私が捨てられたのが嬉しいのか!?」


『まて。怒るな。誤解があった。そうじゃない。そういうのなら、まだ、いいってだけ!』


「何がいいんだよ」


『お前が、何もしでかしていないなら……安心はできる。警察は、たぶん、お前を探っていたから』


「そっちで疑われることなんて、していない。この五年間、ずっと戻ってもいないのに」


『東京でも警察沙汰を起こしてはいないのか?』


「当たり前だ」


『……はあ。そうか。そうだよな。愚かな脳筋タトゥー女だけど、悪いヤツじゃない……飲み屋でクズの金玉蹴りつぶしたぐらいで動くほど、オマワリさんたちもヒマじゃねえ』


「もう切る」


『まてって。その。大丈夫か?』


「大丈夫じゃない……」


『それなら、オレが東京に行ってやろうか? ヒマだし。旅費はそっち持ちで』


「いらない。くるな」


『ん。そうか。まあ、そうだろうな。だけど、さ。ハナシは聞くからな。いつでも、電話かけてくれ』


 返事はしなかった。そのまま通話をオフにしたのは、意地悪だったかもしれない。通話をオフにしたあとすぐに、私は思い出す。警察と私の関わりは、ひとつだけあった。


 すぐに。『太宰治』にかける。


『よし。弟らしく、双子の姉の悲しいハナシを聞く―――』


「繭の捜索願を、警察に出したんだ」


『ん。東京でだろ?』


「そうだ。警察と私の接点は、それだけ」


『警察に、こっちの住所を教えたのか?』


「そんなことしていない。東京のマンションの住所と、私の連絡先を教えただけ」


『じゃあ…………』


「何か、気づいたことがあるなら、言え」


『……いや。必要なのは、そっちの警察に行くことだ。オレから電話があったことなんて、記憶から消して。まず、そっちの警察に行け。その方が、きっといい。少なくとも、誤解はなくなる。お前は、何も悪いことをしていないんだから』


 歯切れの悪さに、不安と不満を覚える。クズ弟は、悪知恵がはたらく。勘もいい方だ。昔から、ときどきあった。こいつがこういう態度を取るときは、従った方が私の得になることが圧倒的に多い。



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